2023年03月03日

「神を信じる」のではなく、「知っている」 真の肖像画は"Heartbroken God" 《人間・文鮮明師 朴普熙先生》



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朴普熙先生の
「真のお父様の身近に侍って
 人間・文鮮明先生」より
「お父様の理想は『神様の解放』」の
前編をお送りします。


一、お父様の理想は「神様の解放」

ところで、今まで、誰も神様の悲しみと、
神様の苦痛を論じたことがありません。

2000年のキリスト教歴史も
神様の悲しみと、神様の苦痛に対して
説き明かすことができませんでした。

神様といえば全知全能、完全無欠なかたとして、
天の宝座にお座りになり、
祝福を与えておられるかたとして、
私たちはいつも理解してきました。


私たちはお父様に対して、今まで人類が
理解していた程度をはるかに超えて、
具体的で実践的な面から、神様を
徹底的に知られたかたであるといえば正しいでしょう。

ですからお父様は、
「私は神様を信じるのではなく、
私は神様を知っているのであり、
神様を見ているのであり、
神様を感じているのである」と語られるのです。

信じるという単語は、
実証することができないという意味でもあります。

私たちは、「父母が、私を生んでくれたかたであると
私は信じます」とはいいません。
厳然たる事実については、信じるという言葉は使いません。

今日まで、キリスト教は神様を信じてきました。
その言葉は、彼らが神様を厳然たる事実によって
知ることができなかったことを意味するのだ、
と言っても必ずしも過言ではありません。


ところで、お父様は歴史以来初めて、
「私は神様を知っている」
と宣言されたかたであられるのです。

コリント人への第一の手紙13章12節を見れば、
「わたしたちは、今は、鏡に映して
見るようにおぼろげに見ている。
しかしその時には、顔と顔を合わせて、見るであろう。

わたしの知るところは、今は一部分に過ぎない。
しかしその時には、わたしが完全に
知られているように、完全に知るであろう」とあります。


お父様が神様を知っておられることは、
まさしく、コリント人への第一の手紙13章12節で
語られたその預言の実現であります。

神様を鏡で見るようにおぽろげに知るのではなく、
顔と顔を合わせて知られるかたがお父様であられるのです。

このように神様を隅々まで知り、
神様と顔と顔を合わせて知り、
神様の心情の中に飛び込んで知ってみると、
その神様は、栄光の中におられる
喜びと尊貴と平和の神様ではあられなかったのです。

その神様は、創世以後今日まで、
到底形容することが難しく、
言葉に表すこともできないほど
胸痛む事情の中で呻吟され、
苦痛を経られながら、
哀痛なる立場でおられる
神様であることを発見したというのです。

この発見は、人類の歴史上、
偉大な発見であり、最初の発見であります。


神様のことを知ってみれば、
その神様は喜びの神様ではなく、
栄光の神様でもなかったのです。

まるで子供を失って、その死んだ子供を
抱き締めて泣かれる、その父母の姿に
似た神様を、お父様は発見されたのです。

父母であられる神様が、子供である人間たちが
互いに争って相克している実状を
ごらんになっておられるのですから、
悲惨な神様であることに間違いはありません。

苦痛の父であり、その父の心は
裂かれるように痛むことでしょう。


ですから、神様の真の歴史は、
哀痛なる歴史であったのです。

英語で"Heartbroken God"という言葉があります。
「心情が傷ついた神様」、その神様を
誰も肖像画に描写してみることができなかったのです。

人類の歴史において、
お父様が初めてそのお姿をお分かりになり、
その神様の真のお姿を
肖像画に描いてみたのだといえましょう。

そして、その肖像画を全世界に発表したのです。

真のお父様の身近に侍って 人間・文鮮明先生
朴普熙
(ファミリー1994年 5月号)
ブログ記事に合わせ
構成を一部組み替えて紹介しています
文責:ten1ko2


朴普熙先生は、真のお父様(文鮮明先生)を
「神様を知っている
歴史上最初の発見者である」
という風に表現されています。

しかし、もう一人、重要な方を忘れてはならないと思います。
それはイエス・キリストです。

イエス様も本当の神様の心情を知っておられ、
神様を解放されるために、
生涯を捧げられた方であるに違いありません。

ただイエス様は、志半ばで十字架に
倒れられ、神様の真の姿を
はっきりと伝えることができませんでした。

真のお父様は、苦悩の中、
イエス様と出会われることを通して、
神様の本当のお姿に出会われました。

神様と出会われて、目がぐちゃぐちゃになるまで
泣き明かされたといいます。

神様は悲しまれている、神様を慰めなければならない、
と神様解放の道を行かれたのです。

その思いはどんな時にも変わりませんでした。
真のお父様を心から敬服し、感謝いたします。




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posted by ten1ko2 at 11:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 父母様の路程 生活の証し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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