「グリコのおまけ」についての
記事をある方から紹介していただきました。
題して、「『日本人はおまけが好きだろう』
み言の背後に見る日本での歩み」です。
み言は、6500双の聖酒式前のみ言です。
☆
きのうまでは、何時間前までは一人ぼっちだったのに、
今はその横におまけがついているでしょう。
日本人は、おまけが好きでしょう。
昔、おまけと言えば、キャラメルがあっただろう? (笑い)
今もありますか?
日本のことはよく知っている。
学生時代に、日本でやらなかったことはない。
それは悪いことではない。
乞食もやった。
貧民窟から先生はずーっと上がって来た。
有名人の字書きもした。
先生は字がうまいのです。
それで、先生のような年齢になったら舌が固くなって、
本国の言葉もよく語れなくなるのが普通なのに、
日本語を早くしゃべるだろう。
研究したよ。
日本語を語るのに、
スピードを出すのに第一番になる。
けんかをする場合にも、
一言に対してでも、三言語る。
研究した。
だから、指導者になるのは簡単ではありません。
何でもする。
川崎の鉄工所とか造船所とかへ行って、
先生は労働もよくした。
今も忘れられないが、そのとき先生は、
百二十トンのりっぱな船で、
四人組で八時間労働を四時間でやり遂げた。
汗を流しながらやった。
その時代が思われる。
(1988 年 10 月 29 日) 6500 双聖酒式前の御言
☆
上のみ言で「おまけ」と言っているのは、
祝福のマッチングを受けたばかりの
相手のことですね。
あなたたちに、かわいいおまけをプレゼントするよ、
という思いが込められているのかもしれません。
カップルというのは、キャラメルとおまけのように
必ずついてくる、というイメージでしょうか。
☆
調布家庭教会で「Google Map で訪ねる主の路程」
という題目で、お父様の歩みを
詳細に解説しておられる方がおられます。
真の父母様のゆかりの地を、
記事をあげておられます。https://chofu-uc.org/?p=26406
その方が新しい記事を紹介してくださいました。
上のみ言と、下は、その方が
実際に取材したりして調べた内容です。
☆
キャラメルにおまけがあることを知った文先生、
それは貧民窟の子どもたちとの出会いだった
貧民窟の子どもたちとの出会いなのでは
ところで、文先生がいつどこで
おまけ付きキャラメルのことを知り得たのか、
まるで不思議です。
ずっと考えていたところ、ひらめきました。
日本留学時代の文先生がたびたび訪れていたという
品川の貧民窟での子どもたちとの出会いなのではないかと。
☆
「品川の貧民窟」を訪れていたという話し自体は、
自叙伝にも「真の御父母様の生涯路程」にも載っています。
しかしながら、これまでは品川の貧民窟が果たして実在したのか、
あったのならどこにどのような規模であったのか、
まるでわかってはいませんでした。
筆者と川崎家庭教会所属のR氏とは文先生の訪問された
「品川の貧民窟」がどこなのかを調べてきました。
☆
2015 年 4 月に『新市域不良住宅地区調査』(東京市社会局 1936 年発行)を
国会図書館で発見、“不良住宅地区”という表現で
公的に貧民窟調査が行われていたことを突き止めました。
同調査によれば、南品川二丁目に 2 個所、
同五丁目に2個所、合わせて計4個所の
“不良住宅地区”=貧民窟(貧民街)が南品川町内にあり、
手書き地図入りで、くわしく住宅や世帯住民の
人数や年齢構成などの調査がされていました。
☆
調査を見て何より意外だったのは、
貧民窟のイメージがまるで変わったことです。
自叙伝の記述では、まるでホームレスの独身男性たちが
ぼろをかぶって集まっている場所
というようなイメージですが、
これはまったく違います。
貧民窟(貧民街)は、
とても貧しいけれど家はあるのです。
家屋は古くてトタン屋根をふいたような
ボロだけれど、借家であり長屋です。
家賃を払う地主は存在するのです。
土地の所有者がはっきりしないところに
無断で家を建てて住んでしまう海外のスラム街とは
明確に違うことを知って驚きました。
そこには秩序があるのです。
☆
さらにびっくりしたのは、
30 代・40 代の若い家族世帯が中心で、
子どもがとても多いことでした。
たとえば「第二地域」の住人合計数は 135 名、
そのうち 1~15 歳は 46 名、一世帯あたりの平均が 3.8 名です。
親たちは貧しいけれど懸命に働いています。
職業では工業と土木建築を合わせると60%を占めます。
そのほとんどが日雇いです。
☆
日本人ばかりだった貧民窟の住人
当時、R氏と一緒に、上記の地域の目の前に住んでいた
90 代の小野トシさんにインタビューする機会があり、
またまた驚いたことがあります。
青年文先生が頻繁に訪れていた貧民窟、
てっきり朝鮮人部落のような半島出身者が
多く住んでいた場所だったのかと勝手に想像していました。
その質問を投げかけたところ、
いわく「いいえ、住んでいたのは日本人ばかりよ」
との返事でした。
戦前期、大規模な朝鮮人部落が池袋や浜松町に
存在しましたが、朝鮮出身の人たちは品川の町では
あちこちに普通に生活していたというのです。
想像はまったくはずれていました。
貧民街、細民街とも呼ばれていた品川の貧民窟に
住んでいたのは、日本人ばかりだったのです。
文先生が「心から日本人を愛した」
と言われていたのは本当だったのだ、
と確信した瞬間でした。
☆
文青年はどんなものを持って貧民窟を訪ねたのか
イメージが変わった後、自然と想像がふくらんだのは、
「総なめしたことがある」と言われるほど、
4 個所ある品川の貧民窟を頻繁に訪れていた
青年文先生がどんな食べ物をもって回ったのか、
子どもたちがたくさんいたなら、
学生のお兄ちゃんとして何を持っていてあげ、
どのように遊んであげたのかということでした。
戦争が迫り来る 1941 年(昭和 16 年)頃ですから、
買いやすかったのはせいぜい焼き芋ぐらいかな
と想像をしていました。
まったくわかりませんでしたが、み言を読み直し、
「ああ、これだったのか!」と気づかされ
イメージがつながりました。
青年文先生は、貧民窟の子どもたちに手渡るよう、
たくさんグリコのキャラメルを買っていってあげたのです。
箱を開けておまけで喜んでいる子どもたちの姿を見て、
お菓子におまけがついていることを知り、
おまけで喜んでいる日本人の子どもたちの姿を
興味深そうに見ていたのではないでしょうか。
子どもならいざ知らず、既に大人になっていた文先生が
グリコのキャラメルにおまけがついていることを
なぜ知っているのか、これで謎が解けます。
大人になった親が子どもの玩具付きお菓子を買って、
ついているおまけから、子どもたちの間での
流行を初めて知ることってよくありますよね。
☆
ところで宮本順三氏を述べたサイトに書かれていたことに
少し戻りますが、1941 年(昭和 16 年)12 月の戦争開戦後には、
グリコのキャラメルパッケージはそれまでの赤色印刷をやめ、
白紙の箱になり、おまけもなくなったとありました。
つまりおまけ付きのキャラメルが売られていたのは、
1941 年内ということになります。
これは文先生日本留学の 1 年目です。
☆
品川と川崎のイメージが一体なのは理由がある
「日本人はおまけが好き」と言われたみ言の個所ですが、
その後で貧民窟のことにもふれられています。
品川での文先生が体験されてきたことを
想起されていらっしゃるようです。
続いて川崎での労働に話しが移りますが、
これは他のタイミングで語られたみ言を見ても
いつも共通しています。
品川と川崎での体験は
文先生の中では常に一体なのです。
☆
これには理由となるストーリーがあります。
青年文先生が毎日通った行程は、
高田馬場から品川まで省線電車の山手線に乗り、
京浜電気鉄道(現・京浜急行)の電車に乗り換え、
鶴見で鶴見臨港鉄道に乗り換えて労働場所である
鶴見・川崎にある工場へ向かうルートでした。
労働が終わり日雇い賃金を受け取ると、
夜学である早稲田高等工学校で授業を受けるために、
同じルートで戻ります。
夕方帰り道にいつも寄っていたのが
南品川にあった貧民窟だったと類推しています。
京浜電気鉄道の青物横丁駅や南馬場駅が
4 個所あった貧民窟の最寄り駅でした。
☆
ところで、文先生はどこでキャラメルを
たくさん買ったかを推察できるのか、
この原稿を読んだ壮年から問いかけされました。
文先生が川崎からの帰り道、
キャラメルをまとめて買いやすかったのは、
鶴見駅前の商店街ではないでしょうか。
日本鋼管鶴見造船所・同鶴見製鉄所・同川崎製鉄所の
いずれの場所で労働されても、
帰りは鶴見臨港鉄道に乗り、鶴見駅で
必ず京浜電気鉄道への乗り換えが発生します。
京浜鶴見駅前の南側商店街なら
お菓子屋や雑貨屋がありそうです。
戦後復興した昭和 30 年の「鶴見銀座」地図によると
商店街の中にお菓子屋は6店舗あります。
戦前の状況もある程度
これに近い状況だったのではないかと考えます。
☆
文先生が貧民窟の子どもたちに
グリコのキャラメルを買ってあげ、
子どもたちの喜ぶ姿をうれしそうに眺めている、
そんな姿をイメージしていると、
泣けて泣けてしかたがありません。
「アボニム、ありがとう!」
〈追加考察〉「日本人はおまけが好きだろう」
み言の背後に見る日本での歩み
キャラメルにおまけがあることを知った文先生、
それは貧民窟の子どもたちとの出会いだった
み言の背後に見る日本での歩み
キャラメルにおまけがあることを知った文先生、
それは貧民窟の子どもたちとの出会いだった
☆
貧民窟の子供たちのために、
グリコのキャラメルを買っておられたお父様。。。
私も、そんな姿が浮かんできました。
実際にお父様が子供たちに買ってあげたかどうかは、
残念ながら、その事実を確認できません。
でも、そうであるならば、本当に真心から日本を愛し、
日本の子供たちを愛しておられたんだな、と感じます。
貴重な情報を与えてくださった
調布家庭教会の壮年の方に感謝いたします。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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