2023年04月04日

「グリコのおまけ」のみ言「日本人はおまけが好きだろう」 日本留学時代の歩みを推理・検証



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「グリコのおまけ」についての
記事をある方から紹介していただきました。

題して、「『日本人はおまけが好きだろう』
み言の背後に見る日本での歩み」です。

み言は、6500双の聖酒式前のみ言です。


きのうまでは、何時間前までは一人ぼっちだったのに、
今はその横におまけがついているでしょう。
日本人は、おまけが好きでしょう。

昔、おまけと言えば、キャラメルがあっただろう? (笑い)
今もありますか?
日本のことはよく知っている。

学生時代に、日本でやらなかったことはない。
それは悪いことではない。
乞食もやった。

貧民窟から先生はずーっと上がって来た。
有名人の字書きもした。
先生は字がうまいのです。

それで、先生のような年齢になったら舌が固くなって、
本国の言葉もよく語れなくなるのが普通なのに、
日本語を早くしゃべるだろう。
研究したよ。

日本語を語るのに、
スピードを出すのに第一番になる。

けんかをする場合にも、
一言に対してでも、三言語る。
研究した。

だから、指導者になるのは簡単ではありません。
何でもする。

川崎の鉄工所とか造船所とかへ行って、
先生は労働もよくした。

今も忘れられないが、そのとき先生は、
百二十トンのりっぱな船で、
四人組で八時間労働を四時間でやり遂げた。

汗を流しながらやった。
その時代が思われる。
(1988 年 10 月 29 日) 6500 双聖酒式前の御言


上のみ言で「おまけ」と言っているのは、
祝福のマッチングを受けたばかりの
相手のことですね。

あなたたちに、かわいいおまけをプレゼントするよ、
という思いが込められているのかもしれません。
カップルというのは、キャラメルとおまけのように
必ずついてくる、というイメージでしょうか。


調布家庭教会で「Google Map で訪ねる主の路程」
という題目で、お父様の歩みを
詳細に解説しておられる方がおられます。

真の父母様のゆかりの地を、
記事をあげておられます。https://chofu-uc.org/?p=26406

その方が新しい記事を紹介してくださいました。

上のみ言と、下は、その方が
実際に取材したりして調べた内容です。


キャラメルにおまけがあることを知った文先生、
それは貧民窟の子どもたちとの出会いだった

貧民窟の子どもたちとの出会いなのでは

ところで、文先生がいつどこで
おまけ付きキャラメルのことを知り得たのか、
まるで不思議です。

ずっと考えていたところ、ひらめきました。
日本留学時代の文先生がたびたび訪れていたという
品川の貧民窟での子どもたちとの出会いなのではないかと。


「品川の貧民窟」を訪れていたという話し自体は、
自叙伝にも「真の御父母様の生涯路程」にも載っています。

しかしながら、これまでは品川の貧民窟が果たして実在したのか、
あったのならどこにどのような規模であったのか、
まるでわかってはいませんでした。

筆者と川崎家庭教会所属のR氏とは文先生の訪問された
「品川の貧民窟」がどこなのかを調べてきました。


2015 年 4 月に『新市域不良住宅地区調査』(東京市社会局 1936 年発行)
国会図書館で発見、“不良住宅地区”という表現で
公的に貧民窟調査が行われていたことを突き止めました。

同調査によれば、南品川二丁目に 2 個所、
同五丁目に2個所、合わせて計4個所の
“不良住宅地区”=貧民窟(貧民街)が南品川町内にあり、
手書き地図入りで、くわしく住宅や世帯住民の
人数や年齢構成などの調査がされていました。


調査を見て何より意外だったのは、
貧民窟のイメージがまるで変わったことです。

自叙伝の記述では、まるでホームレスの独身男性たちが
ぼろをかぶって集まっている場所
というようなイメージですが、
これはまったく違います。

貧民窟(貧民街)は、
とても貧しいけれど家はあるのです。

家屋は古くてトタン屋根をふいたような
ボロだけれど、借家であり長屋です。
家賃を払う地主は存在するのです。

土地の所有者がはっきりしないところに
無断で家を建てて住んでしまう海外のスラム街とは
明確に違うことを知って驚きました。

そこには秩序があるのです。


さらにびっくりしたのは、
30 代・40 代の若い家族世帯が中心で、
子どもがとても多いことでした。

たとえば「第二地域」の住人合計数は 135 名、
そのうち 1~15 歳は 46 名、一世帯あたりの平均が 3.8 名です。
親たちは貧しいけれど懸命に働いています。

職業では工業と土木建築を合わせると60%を占めます。
そのほとんどが日雇いです。

日本人ばかりだった貧民窟の住人

当時、R氏と一緒に、上記の地域の目の前に住んでいた
90 代の小野トシさんにインタビューする機会があり、
またまた驚いたことがあります。

青年文先生が頻繁に訪れていた貧民窟、
てっきり朝鮮人部落のような半島出身者が
多く住んでいた場所だったのかと勝手に想像していました。

その質問を投げかけたところ、
いわく「いいえ、住んでいたのは日本人ばかりよ」
との返事でした。

戦前期、大規模な朝鮮人部落が池袋や浜松町に
存在しましたが、朝鮮出身の人たちは品川の町では
あちこちに普通に生活していたというのです。

想像はまったくはずれていました。
貧民街、細民街とも呼ばれていた品川の貧民窟に
住んでいたのは、日本人ばかりだったのです。

文先生が「心から日本人を愛した」
と言われていたのは本当だったのだ、
と確信した瞬間でした。

文青年はどんなものを持って貧民窟を訪ねたのか

イメージが変わった後、自然と想像がふくらんだのは、
「総なめしたことがある」と言われるほど、
4 個所ある品川の貧民窟を頻繁に訪れていた
青年文先生がどんな食べ物をもって回ったのか、
子どもたちがたくさんいたなら、
学生のお兄ちゃんとして何を持っていてあげ、
どのように遊んであげたのかということでした。

戦争が迫り来る 1941 年(昭和 16 年)頃ですから、
買いやすかったのはせいぜい焼き芋ぐらいかな
と想像をしていました。

まったくわかりませんでしたが、み言を読み直し、
「ああ、これだったのか!」と気づかされ
イメージがつながりました。

青年文先生は、貧民窟の子どもたちに手渡るよう、
たくさんグリコのキャラメルを買っていってあげたのです。

箱を開けておまけで喜んでいる子どもたちの姿を見て、
お菓子におまけがついていることを知り、
おまけで喜んでいる日本人の子どもたちの姿を
興味深そうに見ていたのではないでしょうか。

子どもならいざ知らず、既に大人になっていた文先生が
グリコのキャラメルにおまけがついていることを
なぜ知っているのか、これで謎が解けます。

大人になった親が子どもの玩具付きお菓子を買って、
ついているおまけから、子どもたちの間での
流行を初めて知ることってよくありますよね。


ところで宮本順三氏を述べたサイトに書かれていたことに
少し戻りますが、1941 年(昭和 16 年)12 月の戦争開戦後には、
グリコのキャラメルパッケージはそれまでの赤色印刷をやめ、
白紙の箱になり、おまけもなくなったとありました。

つまりおまけ付きのキャラメルが売られていたのは、
1941 年内ということになります。
これは文先生日本留学の 1 年目です。

品川と川崎のイメージが一体なのは理由がある

「日本人はおまけが好き」と言われたみ言の個所ですが、
その後で貧民窟のことにもふれられています。

品川での文先生が体験されてきたことを
想起されていらっしゃるようです。

続いて川崎での労働に話しが移りますが、
これは他のタイミングで語られたみ言を見ても
いつも共通しています。

品川と川崎での体験は
文先生の中では常に一体なのです。


これには理由となるストーリーがあります。

青年文先生が毎日通った行程は、
高田馬場から品川まで省線電車の山手線に乗り、
京浜電気鉄道(現・京浜急行)の電車に乗り換え、
鶴見で鶴見臨港鉄道に乗り換えて労働場所である
鶴見・川崎にある工場へ向かうルートでした。

労働が終わり日雇い賃金を受け取ると、
夜学である早稲田高等工学校で授業を受けるために、
同じルートで戻ります。

夕方帰り道にいつも寄っていたのが
南品川にあった貧民窟だったと類推しています。

京浜電気鉄道の青物横丁駅や南馬場駅が
4 個所あった貧民窟の最寄り駅でした。


ところで、文先生はどこでキャラメルを
たくさん買ったかを推察できるのか、
この原稿を読んだ壮年から問いかけされました。

文先生が川崎からの帰り道、
キャラメルをまとめて買いやすかったのは、
鶴見駅前の商店街ではないでしょうか。

日本鋼管鶴見造船所・同鶴見製鉄所・同川崎製鉄所の
いずれの場所で労働されても、
帰りは鶴見臨港鉄道に乗り、鶴見駅で
必ず京浜電気鉄道への乗り換えが発生します。

京浜鶴見駅前の南側商店街なら
お菓子屋や雑貨屋がありそうです。

戦後復興した昭和 30 年の「鶴見銀座」地図によると
商店街の中にお菓子屋は6店舗あります。

戦前の状況もある程度
これに近い状況だったのではないかと考えます。


文先生が貧民窟の子どもたちに
グリコのキャラメルを買ってあげ、
子どもたちの喜ぶ姿をうれしそうに眺めている、
そんな姿をイメージしていると、
泣けて泣けてしかたがありません。

「アボニム、ありがとう!」

〈追加考察〉「日本人はおまけが好きだろう」
み言の背後に見る日本での歩み

キャラメルにおまけがあることを知った文先生、
それは貧民窟の子どもたちとの出会いだった


貧民窟の子供たちのために、
グリコのキャラメルを買っておられたお父様。。。
私も、そんな姿が浮かんできました。

実際にお父様が子供たちに買ってあげたかどうかは、
残念ながら、その事実を確認できません。

でも、そうであるならば、本当に真心から日本を愛し、
日本の子供たちを愛しておられたんだな、と感じます。

貴重な情報を与えてくださった
調布家庭教会の壮年の方に感謝いたします。




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posted by ten1ko2 at 07:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 父母様の路程 生活の証し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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