2023年05月11日

迫害を通して、真の愛が育つ?! 忙しい朝に、敬拝を捧げる理由 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李ヨハネ先生のみ言。
今回は、『「真」には「自分」がない』です。 


敬礼式をする目的は、夫婦に互いに
敬礼したい心をもたせるためです。
お父様に敬礼するのは、お父様の願いではないのです。

お互いに敬礼したがる夫婦にならせたくて、
敬礼をさせたのです。

親が自分の子供にあいさつを教える時に、
お父さんにあいさつせよというのは、
お父さんが受けたくてさせるのではありません。

将来、尊敬される人間にならせたいからです。

親が子供に対して、小さいころから
よくあいさつさせる目的は、
その実体の本人にあるのです。

敬礼をよくする人が、敬礼をされる人になるからです。

ですから、御父母様への敬礼式は、
お父様が敬礼を受けることを願って
行っているのではありません。

私たちがお父様に敬礼して、お互いに敬礼する家庭、
敬礼できる自分になりたいからです。

だれと敬礼し合う心をもてば幸福ですか。
一番自分に近い人と、自分の生活圏の人とです。
自分を否定して、「ために」暮らしたがる
心をもてば、敬礼の生活なのではないでしょうか。

ですから、「自分」はありません。
主体者のために、あるいは相対者のために
「自分」はあるのです。

この心情が敬礼する心ではないでしょうか。
無責任に、敬礼だけして終わったと思わないで、
敬礼の心をもって、敬礼の心情で侍りながら暮らすのです。


ですから、夫婦が幸せになるのは簡単なのです。
自分勝手に暮らさないということです。

男性は自分の妻を喜ばせる目的で暮らし、
女性は自分の夫を喜ばせたくて暮らすのです。
お互いに全く同じです。

自分を否定して、愛だけを実現したくて
夫婦になったのです。
自分を肯定したくて夫婦になったのではないのです。

愛を絶対的に樹立するために
夫婦になったのです。
愛が中心です。


祝福家庭がこのような夫婦観、価値観をもって、
自分の存在は真の愛を樹立するためにあるという生活観を、
はっきり心に打ち立てなければなりません。

どのようにすれば、私たちの家庭に
愛を実現することができますか。
悲しみはどこで求めますか。
苦痛を通じて求めるのです。
迫害を通じて求めるのです。

葬式をしている家に行って求め、
悲しい家に行って求めるのです。

聖書には、悲しい人を愛して悲しみを求める、
憐れんで求める、とあります。
ですから、悲しみを発露するために努力しなさい。
そうすれば真になります。

迫害する家を訪ねていき、統一教会を
一番憎む人の所へ行って蔑視されましょう。
お父様の悲しみを体験しに行きましょう。

これは苦痛です。
嫌なことは苦痛でしょう?
嫌なことを求め、悲しみを求めましょう。

嫌なのは嫌だ、好きなのはいいというのは
肉心(本能や欲望的なもの)です。
肉心は苦痛を担当したがりません。
肉心は苦痛を一番嫌がります。

さあ、方法ははっきり分かりました。


統一教会の夫婦は、真は何であるか、
はっきり分かりました。

自分勝手ではない人。
自分の相対者を喜ばせるために心を込める人。

気持ちが悪いとか、嫌であるとか、不平などがない、
「自分」がない人。

愛の前には「自分」がないのです。
苦痛や悲しみの前にも、「自分」がありません。
「自分」をなくさなければ、
自分の中心に真の愛は始まりません。


家庭では、いつも子供たちを立てて、
「歌を聞きたい」と言って、歌わせます。
子供は「自分」がありません。

子供の中に、自分をなくすために
そういうことをさせます。
食事の前に、「だれか一つ歌を歌って
食事を一緒にしよう」、そのようなことを
家庭でできるだけするようにし、
自分が食べたくて食べるのではなく、
喜ばせて食べるようにします。

何かに服従して食べます。
服従する訓練です。
服従はなかなか嫌なことです。

それを、お父さんが願うのならば喜んでしたい、
というふうに、子供のころから
やらせれば、徐々に慣れていくのです。

そういうふうにしていると、気持ちが悪くないのです。
服従しても気持ちが悪くありません。
子供の時から、そうさせるのです。


お互いに自分勝手なところを見たなら、
いかに早く清算してあげるかというのが、
親の教育です。

身勝手さだけなくせば、孝行心だけ残ります。
夫婦も身勝手さだけなくせば、
愛だけが残るのです。

皆さん、自分の身勝手さだけ否定すれば、
何が残るのですか。
相手の事情だけが残ります。

自分の存在というものは、相手の心情を
喜ばせるためのものであるということを、
はっきり確認しなければなりません。


学生たちはみな、だれのために暮らしていますか。
自分の勝手に暮らしています。

ですから、このことは毎日、私が話さなくてはならないのです。
皆さんが聞きたくなくても、もう教会に来れば、
身勝手さをなくしてきましたかと尋ねなくてはなりません。

いろんな人間関係の中で、
どれほど自分を否定しながら
相手を喜ばせて暮らすかが問題です。
相手を喜ばせて暮らしましょう。

24・真理を求めよ
「真」には「自分」がない

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰

(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)

わかりやすく読んでいただくため、
行区切りや段落等の区切りを再編集しました
さらに括弧書きで注釈を加えたり、
プライバシーに関わる部分は省略等することがあります
文責:ten1ko2


真の父母様に敬礼を捧げることができる。。。
どれだけ幸せなことでしょうか。

更に言うならば、夫婦で互いに敬礼を捧げることも
本当にありがたいことだな、と感じます。

敬礼の文化は相手を貴く思い、
また、人に貴く思われるための文化なのですね。

『敬礼の心情で侍りながら暮らす』
敬礼をするたびにこの思いを忘れずに、
歩んでいきたいと思うのです。



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posted by ten1ko2 at 08:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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