2023年05月17日

「愛」がすべてに通じる理由(わけ) 強いから勇気があるのではない 《金元弼先生》



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金元弼(ウォンピル)先生のみ言。
「何よりも神のものを愛す」より
「愛はすべてに通じる」を紹介します。

愛はすべてに通じる

私たちの誓い*の第三番を見ると、
子女と天宙をサタンに奪われたので、
これを復帰するために、父が
汗と涙と血を流すことによって
また僕として犠牲、奉仕することによって、
サタンに勝利するという誓いがあります。

これは、この世の中で敵を討つのと
全然違うのです。

理想、平和、幸福、すべての根本は愛です。
しかしサタンは、怨讐を愛することができません。
絶対にできないのです。

ですから、私たちが怨讐を愛するという
高い理想を成せば、サタンは自分ができないので、
自然屈伏する道が与えられるのです。

一方サタンも愛を願います。
高い基準の愛を与えるとサタンの世界の人々も、
すべてそこに集まってくるのです。

そうすると、神が復帰摂理の中で、
怨讐を愛するという
最高の愛を打ち出した理由がお分かりですね。

それが神とサタンの分岐点なのです。


それで、これからは、こういったみ言を
一日の生活、一週間の生活の中で
いかに生かしていくのかが、
私たちの課題になるのです。

ただ、人はたくさんの言葉を全部守るのは、
なかなか難しいのです。

だから、その中でも一番たやすいみ言を
身に付けることから始めるならば、
そんなに難しくないだろうと思います。


み言の根本は愛ですから、み言の中に
愛がいろんな形で表れているわけです。

そして結局は全部つながっていますから、
ずうっとたどっていくと、愛につながるようになります。
一つの有機体です。

植物を考えてください。
葉から枝、幹を通じて、結局は根に達します。
何事でも完全に身に付けると、
ほかのことにもそれが通じるのです。


皆さんには、勇気と愛とは
全然つながらないように見えるかもしれません。
しかし、愛するがゆえに勇気が出るのです。

勇気あるがゆえに愛に通じます。
愛のない人にどうして勇気が出るでしょうか。

勇気とは、いろいろな形で表れてきます。
強い人に対抗するのも一つの勇気ですし、
川の中で溺れている人を飛び込んで救うのも勇気です。

川の中で助けを求める子供を、
その中に飛び込んで助ける行いもそうです。

意見が合わない時に、全体のことを考えて
相手の意見を立てるのも一つの勇気といえるでしょう。

ところがそういう勇気も、愛なくしては出てきません。
子供を救うにも、その生命を愛する心なくして、
勇気は出てきません。

人の意見を立てて、自分の意見を否定していくのも、
もっと大きな目的を愛するという心があってこそ、
自分の否定もあるのです。


勇気と愛とは別々のものではなく、
その源をたどっていくと、
お互いに通じ合う世界があるのです。

謙遜な心も全部同じです。
謙遜な心ゆえに勇気をもつことができるのです。

その勇気をさらにたどっていくと、愛する心に通じます。
このようにすべては通じていくのです。

どのみ言でもいいですから、終わりまで
身に付けていくならば、すべてに通じるということです。


科学と宗教は極のものです。
論理の展開も逆です。

しかし、その極に至れば、宗教は科学に到達し、
科学は宗教に到達するのです。

ですから神に本当に通ずる人がいれば、
その人は科学的であり、科学の道を究極まで行けば、
必ず神に出会うでしょう。

すべては神の愛から始まっているからです。

自分の一番やりやすいものから始めて、
ずうっと勝利していけば、強い個性の人でも
柔らかい個性を身に付けることができると確信しています。

 
おとなしい性格の人で、人にもよく
話すことができないので、どうして人を治め
指導するリーダーになれるだろうかと
考える人がいるかもしれません。

夫婦のことを考えてみましょう。
普通、男は強いもの、女はその反対だと考えています。

しかし、いくら弱い女でも、自分の子供が
大の中にいる時にはとんでもない力が出るのです。
男よりも女の方がもっと早く助けに入っていくのです。

それは愛なるがゆえです。
愛より強い力はありません。

 
表現ができなくて、非常にソフトだから
リーダー・シップをとれないということはありえません。

愛あるがゆえに、
義ならざるものを憎む心が強いのです。
リーダーは人をリードするのですから、
愛あればこそできるというのです。

いくら強い個性を持ち、
非常にいい体格をしていても、
愛がなければ立派なリーダーにはなれません。

リーダーには二つのタイプがあります。
先生のようなリーダーと韓鶴子夫人のようなリーダーです。

例えば戦争のような非常時には、
どういうリーダーが必要でしょうか。
先生のようなリーダーです。

私はソフトだからリーダーは難しい
というのは当てはまらないことです。
しかし、私は愛の心がないから
リーダーの適格者ではないというのは当てはまります。

ただ、人を愛し、神を愛し、み旨を愛する心は、
誰もがもっているはずです。
それはリーダーをやれるということです。

 
神は人間に万物を主管しなさいというみ言を与えました。

男にだけ約束したみ言でしょうか。
個性の強い女にだけ話したみ言でしょうか。
女のような男には当てはまらないことですか。

それは誰にでも当てはまるのです。
自信がないという人は、これから
自信をつけるようにしなければいけません。

 
リーダーは時には目を開けて、
メンバ〜たちがお祈りするのを見てみるのです。
そしたら立っているのがきつくて
座る者もいるし、色々いるのが分かります。

一番面白かったのは幼稚園の日曜学校の礼拝の時でした。

先生は「お祈りしましょう」と言って
熱心にお祈りされるのですが、
子供は長いお祈りには耐えられませんし、
言葉も難しいとなかなか理解できないのです。

それで意地の悪い者でもまじめな者でも
それぞれ動いてじっとしていません。
だから、目を開けてみないと、
子供たちがどうしているのか分からないのです。

そうすればどのように生活指導していくか
という方針が出てきます。

 
パッと見てその人は気持ちがいいのか
悪いのか分かります。
心からうれしくて笑うのかどうか分かるのです。

ですからその人をよく導こうという
目的観をはっきりもって見なければいけません。

もしチームリーダーの立場に立って、
その人に話をする時には、ほかの人に
知れた場合にプラスになるのかどうなのかとか、
場所とか色々考える必要があると思いましたので話しました。

U 先生の道は我々の伝統
第七章 何よりも神のものを愛す
「愛はすべてに通じる」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題

*「私の誓い」第三番
怨讐によって失われた子女と天宙を復帰せんがため、父は父母の心情を抱かれ僕の体を受肉し給い、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流され、私の身代わりに歴史路程における怨讐サタン粉砕の武器を与えたまい、それらを完全に審判するまで父の性相を受け、真の子女私は敵陣に向かって勇進することをお誓いいたします。
(下に全文掲載)
わかりやすく読んでいただくため、
行区切りや段落等の区切りを再編集しました
さらに括弧書きで注釈を加えたり、
プライバシーに関わる部分は省略等することがあります
文責:ten1ko2


「愛はすべてに通じる」
なるほどな、と思います。

「お父様のようなリーダーもいて、
お母様のようなリーダーもいる」
元弼先生は、そのように話されています。

しかし、お母様は、お父様がおられた時は、
お父様をお支えするような立場でしたが、
今は、物凄く強いリーダーのような気がします。

それは、神様のために、真のお父様のために、
そして私たちのためにという
とても深い愛と、強い思いがあるからでしょう。

愛が中心であり、愛を動機として、
すべてに対応する、
そんな姿勢を持ちたい、と思うのです。




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私の誓い

一、天宙の中心存在として、父の御旨(創造目的)と任せれた責任(個性完成)を全うし、喜びと栄光を帰し奉る善き子女となり、創造理想世界において永遠に父に仕え奉る真の孝子女となることを私はお誓いいたします。

二、父は六千年間供え物として十字架路程を忍ばれ、死したる私を真の子女として活かすべく、み言と人格と心情を与え一体化せしめて、天宙の相続権を与えたまわんとなさる聖なる御旨を私は受け、完全に相続することをお誓いいたします。

三、怨讐によって失われた子女と天宙を復帰せんがため、父は父母の心情を抱かれ僕の体を受肉し給い、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流され、私の身代わりに歴史路程における怨讐サタン粉砕の武器を与えたまい、それらを完全に審判するまで父の性相を受け、真の子女私は敵陣に向かって勇進することをお誓いいたします。

四、父は平和と幸福と自由と理想の源泉であらせられ、父を奉る個人と家庭と社会と国家と世界と天宙は、本性の人間を通じてのみ心情一体の理想世界を完結することができ、私は真の人間となり、心情の世界において父の代身者となることによって、被造世界に平和と幸福と自由と理想をもたらし、父に喜びと満足を帰し奉る真の子女となることを私はお誓いいたします。

五、我々は神を中心とした一つの主権を誇り、一つの民を誇り、一つの国土を誇り、一つの言語と文化を誇り、一つの父母を中心とした子女となったことを誇り、一つの伝統を受け継いだ血族であることを誇り、一つの心情世界を成す役軍であることを誇り、これを実現せしめることを私はお誓いいたします。

このような義務と使命を成就せしめるため、責任をもって生命を懸けて闘うことを私は
宣誓しお誓いいたします。
宣誓しお誓いいたします。
宣誓しお誓いいたします。

1962年子女の日(旧10月1日)
(マルスム選集122巻「私たちの誓い」より)

 
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posted by ten1ko2 at 10:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 金元弼先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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