2023年06月28日

日本に赴任してから、今日で25年です 《方大陸総会長*世界のための韓国と日本に1》



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東郷茂徳/田内千鶴子


方相逸・神日本大陸総会長のメッセージ、
千葉中央修練所で21日修メンバーに語られています。
題目は、「世界のために生きる韓国と日本に」です。
4回に分けて紹介します。


四月四日から二十六日にかけて千葉中央修練所(千葉市花見川区)で開催された「第二十七期孝情天寶二十一日修錬会」で、四月二十四日、天の父母様聖会の方相逸・神日本大陸会長がメッセージを語りました。方相逸・大陸会長は、参加している多くの二世圏の若者たちに対して、自らの体験談を交えながら、真の父母様の教え「ために生きる」「怨讐を愛する」について解説し、「自分が困難な立場にあっても、相手のために投入するのです。それが、真の愛です」と語りかけました。

日本宣教に出発するまでに
時間がかかった背景

皆さん、おはようございます。
きょうは、4月24日です。
1998年のこの日、私は日本宣教のために来日しました。
丸25年になります。

その年の3月11日、真のお父様が突然、
韓国の牧会者たちを集めて、日本宣教の願いを託されました。

185人の牧会者は、早い人で10日間、
遅い人でも1ヵ月間の準備で来日したと思います。
一方、私は40日以上かかりました。
その理由が何か分かりますか? 
日本に来たくなかったからです。


私の父は、日本で徴用工として働いたことがあります。
岩手県の炭鉱で2年間、働きました。
過酷な労働によって、同僚の多くが亡くなったそうです。

父は体がとても丈夫でした。
何百人もいる徴用工の中で、日本の軍人から、
「おまえは体が強そうだ」と褒められたそうです。

韓国では昔、米俵は約80キロでした。
父は、米俵を縛った縄をくわえて立ち上がり、
米俵を持ち上げることができたそうです。
それぐらい力自慢だったのです。

しかし、炭鉱で働くうちに、体はボロボロになりました。
そして、亡くなった同僚のことを思い、
不安に襲われたのでしょうか。
ある日、「きょう逃げないと命が尽きる」と直感しました。

父は炭鉱から逃げ出し、
下関(山口県)を目指して2千キロを歩いたのです。

父が故郷にたどり着いてから約1週間後、
韓国は日本から解放されました。
そのとき、父は24歳。
以来、日本語を話すことは二度とありませんでした。


韓国では、日本が朝鮮半島を統治した時代の出来事を
学校で徹底的に教えます。

韓国は、1905年に乙巳保護条約によって外交権を奪われ、
1910年に日本に併合されました。
1945年に解放されるまでの40年間、
民族が味わった血と汗と涙の苦難を、
韓国国民の記憶から消し去ることは簡単ではありません。

私は、そのような時代を、命からがら生き延びた父から、
日本に対する恨み言を聞き続けて育ちました。
ですから、日本を嫌いになってもおかしくはないでしょう。

日本では、子供が泣きやまないとき、
「鬼が来るよ」「お化けが来るよ」と言わないですか? 
韓国ではかつて、「日本の軍人さんが来るよ」と言いました。
その言葉を聞いた瞬間、子供たちは、はっと泣きやんだのです。
それほど日本の軍人を恐れていました。


日本の支配から脱しない限り、
私たちに平安な暮らしは訪れない=B
このような人々の悲痛な叫びを受けて、
愛国者たちが独立運動に立ち上がりました。

独立運動家たちは、今もなお、
韓国国民から深い尊敬を集めています。

皆さんは、韓国で義士と言われる安重根を知っていますか? 
彼は、1909年に日本の初代内閣総理大臣である
伊藤博文(初代韓国統監)を暗殺しました。
30歳のときです。

祖国の独立のために、妻と幼い子供3人を置いて、
自らの命を捧げる覚悟で決起したのです。
韓国国民にとって安重根義士は英雄です。
それでも、殺人は、絶対にしてはいけないことなのです。

日本を守るために奔走した韓国人と
韓国の孤児三千人を育てた日本人

日本は当時から、アジアの盟主でした。
広大な国土を誇る清国やロシア帝国との戦争にも勝ちました。
そして、ハワイの真珠湾を攻撃し、
米国を中心とする連合国との太平洋戦争に突入しました。

そのとき、戦争遂行に一貫して反対していたのが、
東郷茂徳・外務大臣です。

「米国は、今まで戦った国々とは国力が全く違う」
と訴えました。しかし、その声は届きませんでした。

日本国民が多大な犠牲を払う中で、彼は、
「国体護持」(天皇制の維持)と戦争終結のために奔走しました。

実は、東郷大臣は、豊臣秀吉の時代に
朝鮮半島から連行された陶工の子孫です。
鹿児島県で、朴茂徳という名で生まれました。

幼少期に、朴家が、東郷を名乗る士族の
家禄を購入してその戸籍に入ったため、
東郷茂徳と名乗るようになったのです。

韓国に由来する人物が、日本を守るために
活躍したことを、ぜひ、覚えておいてください。


広島と長崎に原子爆弾が落とされ、
昭和天皇の聖断によって、日本はポツダム宣言を受諾。
太平洋戦争は終結しました。

もし、戦争が続いていれば、東京や大阪などの主要都市に、
さらに原爆が投下されたかもしれません。
そうなれば、戦後復興はどうなっていたでしょう。

日本の占領政策は、連合国軍
最高司令官総司令部によって実施されました。
そのトップ、ダグラス・マッカーサー元帥は、
国体を護持したほうが日本国民を
コントロールしやすいと判断し、
現在の日本が存在するようになりました。


日本の統治時代には、多くの日本人が朝鮮半島に渡りました。
敗戦後、ほとんどの人が帰国しましたが、
韓国の男性と結婚した日本の女性たちの中には、
そのまま残る人もいました。

その一人で、夫と共に、南部の木浦で
孤児救済のために生涯を捧げたのが、
田内千鶴子さんです。

朝鮮戦争で夫が行方不明になったあとも、
孤児救済のために尽くし、
三千人の孤児を守り育てました。

誰もが、自分の生命を守るので精いっぱいのときに、
韓国人の孤児の生命を守ったのが、日本人だったのです。

彼女は、「韓国孤児の母」と呼ばれ、
今も、その献身的な生き方が韓国国民から称えられています。

世界家庭6月号 
「世界のために生きる韓国と日本に」
方相逸・神日本大陸総会長
四月二十四日
https://familyforum.jp/2023062648433
再編集 文責:ten1ko2


日本と韓国の関係・・・
40年の日本の支配の中で、
朝鮮半島の人々は本当に大変でした。

特に、第二次大戦の時には、
日本自体も大変だったのですから
植民地下の国では、どれだけ大変だったことでしょう。

日本もアジアの盟主として、大きな使命がありました。
植民地支配をしていた時期、
韓国の近代化や教育のために
尽くした実績は少なくはないといいます。

しかし、庇護するというよりは、
植民地支配下であり、その当時のことですから、
理不尽なことが横行していたことでしょう。

大陸会長のお父様のように、
過酷な労働を強いられる現実も
少なからずありました。

そんな中、東郷茂徳という韓国の血筋をもった人物が
日本が戦争の道に行かないように、
尽力していたとは知りませんでした。

日本と韓国は特別な関係です。
真のお父様は、日本人以上に
日本のために精誠を尽くしてくださいました。

今、韓国にお嫁に行っている日本人の姉妹たちも、
どれだけ精誠を尽くしているでしょうか。。。

そのような人たちの歩みは
必ず、歴史に刻まれているに違いないのです。

明日に続きます。



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