2023年10月24日

教会に来るのは、牧師の言葉ではなく、神のみ言を聞きに来る 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のお話しの続き、
「信仰の模範となるべき牧会者」です。

 
ここに集った皆さんは、(文鮮明)先生のみ言を聞き、
愛を受け、先生お一人のゆえに
信仰する決心をし、出発したと思います。

この前、先生が韓国におられるときは、
全国の教会の総責任者が先生であられますから
小まめに巡回されました。

事実、派遣された人に牧会者の資格がありませんから
心配されて回られるのですが、
私たちはそのことが分かりませんでした。

私は自分が牧会者だから、資格があるのだと思いました。


ところが、先生が回っていかれたあとが問題でした。

食口たちが私を慕わず、言うことを聞きませんから、
統率するのも難しくなり、
責任者としては顔色(がんしょく)がなくなってしまいました。

それで私が先生に、「私は十ワットの電球であり、
先生は千ワットの電球ですから、
先生が来られるならば、ぱっと明るくなって、
すっと去られるならば、私の電気の明るさをもっては
暗くて食口たちの心霊の前に光になることができません。

教会を統率するのが難しいです。
ですから、しょっちゅう来ないでください」
と、このように分別のないことを申し上げました。

なぜならば、李牧師に会えなければ耐え難いと、
早朝から訪ねてきていた人たちが、
先生が約三日ほど来て行かれてからは
私のところへ来ません。

それを回復させようとするならば非常に難しいのです。
回復させるために
さらに精誠を尽くすならばよいのですが、
精誠を尽くさずに不平だけを言っていました。

食口たちを見れば、責めたいのです。


事実、食口たちは私の言うことを
聞きにくるのではなく、先生のみ言を聞きにくるのです。

ですから、私が先生を一番に自慢し、
先生だけに尽くして奉るならば、
「李牧師は先生にあのように立派に侍るのだなあ。
実に私たちの牧師さんは信ずるに値する」
と、このようになったでしょう。

私が食口たちより先生をもっと信じようとする
努力を見せてこそ、食口たちも私を眺め、
私を仲保者として立てて先生に向かっていくのに、
先生に関係する話はせずに
自分の話だけをしようとしますから、
食口たちの心が後ろ向きになるのが当然なのです。

おそらく、皆さんも牧会生活をしながら
難しいことは、このようなことだ
ということを感じたはずです。

教会を訪れる人の心は、慕わしさの中心、
自分の相談の中心、み言の中心を探し求めるようになります。


子供たちが外から家に帰ってきて
母親がいなければ、家に入らずに
外でずっと遊ぶのです。

そうして母親が帰ってくれば一緒に入ってきます。
家に父母がいないならば、
子供たちは分散して孤児になり、
父母がいるならば子供たちが集まります。


教会も同じです。

教会の責任者が父母らしく信仰の中心になり、
真の父母らしく手本になる信仰の人物になるならば、
食口たちの心も教会長に似て
先生の前に正しい姿勢をもつようになります。

このような教会に行ってみるならば
何かしら温和であり、熱い風が吹くと言いましょうか、
春の園と言いましょうか、
そのような雰囲気を感じます。

ところがそのような心になっていないならば、
教会内で寂しい冷たい風が吹くのを感じるようになります。

諸職者(教会組織の役職者)研修会での説教 
1977年10月2日 韓国中央修練所

信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏  
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢 李耀翰

U 復帰摂理の恨
「イエス様の内的生活」
信仰の模範となるべき牧会者
再編集 文責:ten1ko2


あのヨハネ先生ですら、
お父様が来られたあとの説教に
葛藤された、とは驚きです。

やはり、どんな人にも
「愛の減少感」というものは、
あるのだなぁ、と思わされます。

どんな牧会者が来られても、
侍る姿勢が重要だと思います。

私自身も、本当に侍るのが大変な、
牧会者に仕えたことがあります。

その人の背後に神様を見出す、
ということが至難の業でありました。

そういう方に仕えるのも意味のあることだ、
と捉えていきました。

ヨハネ先生のみ言を通して、
私の心の姿勢が重要であると改めて感じるのです。

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posted by ten1ko2 at 08:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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