2023年10月31日

わかっているけど、教会に行きたくなくなるとき それは異端・反社だからではない 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のお話
「イエス様の内的生活」より、
「慕わしさの主体、愛の対象」です。


教会の責任者が父母らしく信仰の中心になり、
真の父母らしく手本になる信仰の人物になるならば、
食口たちの心も教会長に似て
先生の前に正しい姿勢をもつようになります。

ところがそのような心になっていないならば、
教会内で寂しい冷たい風が吹くのを感じるようになります。

食口たちも教会に行くことによって、
異端と言われたことがあるでしょう。

行かなければ行かないで、
「それ見てみろ、何日もたたずに
統一教会に行かなくなると思った」
と後ろ指をさされますから、
行かなければならないのですが、心では
そうではありませんから、これは死ぬような思いです。

これは実につらいことです。
慕わしさの主体がいない時は、私たちの内なる人
(霊人体)の住む所がなくなるのと同じです。

心が安住する所を失ってしまった人になるのです。

このような人は、第二段階までは上がってきたと
見ることができます。

ですから、み言を中心にして教会を慕いながらも、
慕わしく思う人がいないのでやるせなく思う、
このような人が実際は最もやるせないのです。

 
もう一つは、自分がみ言を聞いて悟り、
貴重に思って、自分が貴重に思った人を
伝道しようとするのにできないとき、
すなわち恵みを受けたあとには、
私を慕わしく思うことのできる対象者を
探し求めなければならないのですが、
信仰の子女がいなければ、皆さんの心は
住む所を失うようになります。

古くなった食口たちが教会の責任者と円満であり、
み言もしっかりと立てた生活信条をもったとしても、
繁殖する力、すなわち、信仰の対象者がいなければ
やはり、心情が安定した生活をすることができないのです。

世の中でも息子、娘を生めなかった
夫婦たちは、愛が深くなりません。
どこか分かりませんが寂しいのです。

夫婦を笑わせる、授受作用させる
媒介体がありませんから笑いが少ないのです。

父母、夫婦、子女、この三数は、
喜びを巻き起こす存在数です。


同じく心霊世界でも心と体とみ言(の三数)が合わさるとき、
自分の心霊が丈夫になるのです。

心にはみ言をもち、また、そのみ言が
体で行動となって現れるとき、
内なる人の性相がしっかりすることができるのです。

教会でみ言を聞くときは、
「ああ、このようにすればよいのだなあ」
と思っても、家に帰れば
自分も知らずにみ言を忘れてしまうのです。

そうであれば心と体の一致がなされず、
イライラしたりするようになり、
気掛かりになったりするのです。

これが、信仰がよくなったり悪くなったりする理由です。

私たちがもったこのみ言による
私の思考方式を持続させるためには、
一般の常識で判断してはいけません。

信仰でもってしなければなりません。

諸職者(教会組織の役職者)研修会での説教 
1977年10月2日 韓国中央修練所

信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏  
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢 李耀翰
U 復帰摂理の恨
「イエス様の内的生活」
慕わしさの主体、愛の対象
先回と次回の節から一部加え
分かりやすくしました。
再編集 文責:ten1ko2


私たちが、教会に行きたくなくなるのは、
愛する主体や対象がいないということが大きい
というお話でした。

もちろん、解散命令請求がどうとか、宗教ヘイトとか
そんな、めげるような状況もありますが、
私たちの信仰のなさや、愛のなさなんですね。

教会草創期には、特に韓国において、
本当に多くの困難がありました。

キリスト教会がどれだけ
迫害を行ってきたことでしょうか。。。

しかし、そんな中にあっても、
先輩たちは信仰を捨てずに歩んでこられたので、
今があるのだと思います。

そのキリスト教会も
日本のクリスチャンたちは、
江戸時代、幕府から国家的迫害を受けました。
殉教の道を歩んでいったのでした。

今、まさに同じような立場にあるのが、
私たち家庭連合であります。

だからこそ、み言と祈りの土台が貴重ですし、
教会長を慕い、信仰の子女や家族、
そして周囲の人たちを愛する、愛の実践が、
私たちの心情を育て、教会においても、
この危機を乗り切っていくことができると思うのです。





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posted by ten1ko2 at 11:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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