2023年12月28日

会長夫人が、苦労の40日開拓伝道に! 前編 《久保木夫人*愛あればこそ》



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▲宮崎へ開拓伝道に出発。左は梶栗惠李子さん


真のお父様(文鮮明先生)にお会いしてから
2日後に、7日間の修練会(セミナー)に
参加した久保木哲子夫人でしたが──

第五章 珠玉の宝石箱−宮崎開拓
夏季40日開拓伝道

当時は、1週間の修練会が終われば、
すぐに21日間の特別修練会に
参加するようになっていました。

それで、特別修練会に参加しようとしたのですが、
7月20日からの夏季40日開拓伝道に
(先に)行くように言われたのです。

開拓に行くようにと言われても、
開拓というのが何をするものかが分かりません。

1週間の修練会に出ただけで、
お祈りもまともにできません。
そういう中で、40日開拓伝道に行くように言われたのです。

死にそうな子供を置いて、
開拓伝道に行くことになったのです。

私の旧姓が宮崎でしたので、
宮崎に行くことになりました。

今のように、どこにでも教会のある時代ではありません。
まだ地方にはほとんど教会がない時代でした。
全国に拠点をつくるために
開拓伝道が毎年行われていたのです。

 
その開拓伝道に行くに際し、家に帰って両親に報告しました。

すると両親は、「開拓伝道に行くのはいいけれど、
どこか近い所でやらせてもらえないのか。
宮崎はあまりにも遠い」と言うのです。

今のように、東京から飛行機で1時間ちょっとで
行けるような時代ではありません。

東京から福岡まで夜行列車で行き、
福岡で1泊して、そこから宮崎に行くのです。
2日がかりで行く遠い所です。

長男は、病院から見放されて家にいます。
小児結核で、肺にも水が溜(た)まって苦しい状況です。
うつ伏せになって肩で呼吸をしている状態の子供を置いて、
開拓に行かなければならないというのは深刻でした。

息子は、大きな目に涙をいっぱい浮かべて、
「母さん、行かないでー」と
泣きながらすがりついてきました。


その時、私は神様に談判祈祷しました。

「天のお父様、この子は生まれた時から病気を背負って、
きょうまで苦しむためにこの世に来たようなものでした。
私は、親としてやれるだけのことはしたつもりです。

でも、この子の生命は、どうすることもできません。
この子が、これだけの運命であるならば、
あなたが召してください。

もし、この子に使命が残っているならば、
あなたが助けてくださるでしょう。

私は、すべてをみ手にゆだねて開拓に行きます」

神がアブラハムに命令した「汝(なんじ)のイサクを捧げよ」
ではありませんが、開拓伝道の天命に従っていくとき、
旧約の歴史に出てくるアブラハムやモーセの
心情の一端を感じた気がします。


そして、子供に次のように
よく言い聞かせて出発したのです。

「ママが開拓伝道に行く宮崎には、
誰も知っている人がいないのよ。
そして、一銭のお金も持たずに
神様のお仕事をしに行くのよ。

あなたは、本当にわがままで、
いつも給食のパンの耳を捨てていたけれども、
この教会の人たちは、そのパンの耳で
今日までやってきたのよ。

あなたが捨てていた給食のパンの耳すら、
ママが宮崎に行ったら食べられないかもしれないのよ。

だから、ママのために、
あなたもお祈りをしてちょうだい」

そうして、泣きすがる子供を置いて、
先輩の梶栗惠李子(えりこ)さんと開拓に出ていったのです。

宮崎駅のホームに降り立った時の
深緑の鮮やかさが、今も鮮明に思い出されます。


夫が統一教会に行ってから、いくら苦労したと言っても、
一円のお金で困ることはありませんでした。

夫の収入がなくなったといっても、両親の経済的な
基盤があり、私自身も洋裁の仕事をしていました。

ところが、この宮崎では一円のお金の貴さを
身にしみて感じさせられたのです。


宮崎に着いた私たちは、3日間は飲まず食わずで、
駅のベンチで寝、一晩じゅう
蚊に悩まされながら過ごしました。

また、学校の宿直室に泊めてもらうなど、
3日間は野宿や野宿同然で休みました。

3日間、何も食べていないので、
おなかはもうぺこぺこです。
水を飲むだけで、自然断食でした。

神様は、つらい悲しい神様の心情を
体恤(たいじゅつ)させるために、
最初から(は)館(やかた)を与えてくださらなかったのでした。

 
4日目を迎えた時です。

梶栗さんが「聖地を決めないで、
自分たちの寝る所を探していたことが、
間違っていた」と言うのです。

そこで、「八紘一宇(はっこういちう)」の碑がある
平和台公園に聖地を定め、そこで大地を叩(たた)きながら
「この地の義人、聖人を立てさせてください」
と祈りました。

その後に、館が見つかったのです。

 
館が見つかったといっても、それまで3日間、
いつも通っていた道沿いにあった家でした。

それまでは、玄関に下げられていた移転の案内板が、
なぜか目に留(と)まらなかったのです。

そこは、元は医者の家で、今は
大きなビルに引っ越ししたため空いていたのです。

その家を訪ねると、おばあさんが出てきました。
その時は、おなかが空いて
玄関にへたり込むような状況でした。

小さな部屋を一つ、40日間貸してほしい
とお願いしましたが、断られました。

それでも、物置の隅でもどんな所でも
かまわないので貸してほしいと必死に頼み込むと、
そのおばあさんは気の毒に思ったのか、
「本当に40日だけですよ」と言って
貸してくれることになったのです。

部屋に入ると、そのおばあさんは
冷えたスイカを出してくれました。

その時のスイカのおいしかったこと、
生涯忘れることができません。
スイカが、本当におなかにしみ渡っていきました。


そして、立派な二組の布団、二つの茶碗と箸(はし)
電気コンロ、まな板、包丁、皿、鍋、やかん、
食器一式を揃(そろ)えてくれたのです。

梶栗さんは福島など2回開拓伝道の経験があったのですが、
びっくり仰天して、「これは開拓ではありません。
このような恵まれた開拓伝道は、
初めてです」と言うのです。

住所が決まったことを家族に伝えると、
よくここまで気が付いてと思うほど、
いろいろな生活必需品がダンボールで送られてきました。
本当に親兄弟というのは
ありがたいものだと心から感謝しました。

これにも梶栗さんは再びびっくりして、
「こんなのは開拓ではありません」と叱(しか)られましたが、
「巡回師さんが来られたら、九州で苦労している
兄弟のために持っていっていただきましょう」ということになりました。

開拓というのはみんな1人でするもので、
私たちのように2人でするのは例外中の例外でした。

久保木が「1週間だけの修練で行くので、
開拓というものを知らないから一緒に行ってくれ」
と梶栗さんに頼み込んだのだそうです。

久保木哲子・著(光言社・刊
『回顧録 愛あればこそ』
〈2015年5月25日初版発行〉より)
第五章 珠玉の宝石箱−宮崎開拓
夏季40日開拓伝道

スマホで立ち読み Vol.27
回顧録『愛あればこそ』4
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=21504
(Blessed Lifeより)
再編集 文責:ten1ko2


「こんなのは開拓ではありません」
と語られた梶栗夫人、まさに烈女ですね。。。

大きな宗教団体の幹部夫人だった久保木夫人に
このようなことを話されるなんてと思いますが、
開拓伝道はまさに内外共に過酷だったんだな、と感じました。

そして、そういうところに愛するお子さんを置いて、
開拓伝道をされた久保木夫人、本当に頭が上がらないです。

でも、写真も載ましたが、
笑顔で元気よく出発された姿に
天がどれだけ喜んでおられ、
慰めておられるか、と感じるのです。

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