2024年01月18日

イエスは、十字架が怖かったのではない! ゲッセマネの祈りは、最終手段だった 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



200806-gessemane.jpg


李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生

ゲッセマネの三次の祈祷の意味

もう一度考えてみなさい。
「苦杯を免れさせてください…」。

その次はどのようにしてくれというのですか。
とにかく十字架が恐ろしいから……。
これは話になりません。

それでは、どのようにしようというのですか? 

ペテロとヨハネとヤコブが
あのように居眠りしていますが、
彼らは肉身が疲れているから居眠りするのであって、
心に力を得る日には私と共に死ぬ人だから、
少しだけ延期してほしいという頼みなのです。

ところが再び来てみるとこっくりこっくり
と居眠りしていますから、実に切ないことなのです。

それで再び来られては
「目覚めていなさい。
目覚めていなさい。
お前たちだけでも私と共に
試験され得ない人になるならば、
十字架が私から過ぎ去ることができる」

と思いながら目覚めさせておき、
再び神に「神様、できることならば
十字架を免れるようにしてください」
という祈祷をささげ、
再び来てみるならば、再び居眠りしています。

結局、イエス様は、最後にこの闘いをなさったのです。


この三弟子がマグダラのマリヤほどに
心情的に連結されたならば良かったのに……。

皆さん、マグダラのマリヤをご存じですね? 
過越の祭の前夜にイエス様の前に
痛哭していたマリヤ。

私は、その女性をみ言の実体だと呼びたいのです。
本当にイエス様の人、
イエス様の前に記念すべき女性だと考えます。


イエス様がゲッセマネの園に行かれる前夜
ベタニヤのラザロの家に寄ったとき、
彼の妹のマルタとマリヤが
イエス様に夕食をもてなすと語ったことがありました。

そのとき、マルタは台所に行って
早く準備したのですが、
マリヤは自分が持っていた
最も貴重な香油をイエス様の足に注ぎました。

イスラエルの娘にとって香油はとても貴いものです。
婚姻する娘がつけなければならない
最も貴いものだということです。

横にいる人たちが一言言いますから、
イエス様が「私の葬儀をする日のために
そうしているのだから、
そのままにしておきなさい」と語りました。

これを見るならば、マリヤは、
イエス様が一人で心を痛めておられ、
心配なさっていたその胸の内を知り、
自分ができる最善のことをしたわけです。


皆さん、「夫」や「新郎」という
名前を得ることが易しいと思いますか? 

主体である男性がどれだけ出来が良くても、
対象なしには資格を得ることができません。

女性もまたそうなのです。
自分がどれだけ出来が良くても
一人では、新婦という言葉を聞き、
母になる可能性がありません。

結局、対象のゆえに祝福を受けるということなのです。


イエス様もご自身がどれだけ出来が良かったとしても、
イエス様を「私の主よ! 私の新郎様よ!」
と迎える人がいなければならないというのです。

それではイエス様を迎える人はだれですか。

出来が良かろうが悪かろうが罪の中にある人たち、
すなわち、この世の中の人たちが主を迎えてこそ、
イエス様が救世主になれるのです。

相対性を帯びているということなのです。

ですから、私たちの主は、アベル側に属する主にも、
カイン側に属する主にもなるというのです。

これが原理の始まりでもあります。
アベル側だけが迎えてはいけません。

もちろん、アベルが私の仲保者になったりもしますけれども、
対象がいなければ私が立つ位置がありません。

 
イエス様の切なる願いは、この地上で
「私であり君である」ということのできる人を
探し求めることでした。

イエス様は、ゲッセマネの園で三弟子を前にして、
原理的に切実に神の前に祈ったのです。

ところが、三弟子はこっくりこっくり
居眠りしていますから、
いかばかりはがゆかったでしょうか。
ですから、しきりに目覚めさせたのです。

「起きろ、目を覚ませ。
試練に陥るな。
目覚めていて祈祷しよう」。
そして、神の前に再び祈祷しました。

ペテロであり、ヨハネであり、ヤコブであり、私である
という関係、すなわち、「君であり私である」
といえるならば、父のみ旨が地上に
成されるのではないのかと考えられたのです。


イエス様は、ご自身が死ぬことは問題ではないけれども、
父の願いが地上に成されなければならない
とお考えになられたのです。

それで「できることでしたらどうか、
この杯をわたしから過ぎ去らせてください」
と祈祷なさいました。

このようにすること三回、それでも駄目ですから
「もうだめだ、眠れ。ぐっすり眠れ」と語られました。

言うなれば、今ではお前たち人間が
行くべき道を探し求めたから、
お前たちの行くべき道へ行けというみ言なのです。

痛嘆する仕業です。
そのとき、ローマの兵士が捜しにきたのです。


諸職者(教会組織の役職者)研修会での説教 
1977年10月2日 韓国中央修練所

信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏  
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢 李耀翰

U 復帰摂理の恨
「イエス様の内的生活」
再編集 文責:ten1ko2


イエス様の本当の価値を知っていたのは、
何の地位も名誉もない、マグダラのマリアなど、
ほんのごくわずかな人たちでした。。。

イエス様にずっと侍っていた3弟子をはじめとした
多くの信徒たちは、結局イエス様が十字架についたあと、
イエス様の本当の姿に出会い、
同じ道のりをいったのでした。

私たちは、真のお母様が最前線で歩まれている今この時、
ともに歩んでいる者たちです。
まさにお母様が「黄金期」と言われています。

本当にありがたいことです。
心から感謝いたします。



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ 当ブログ記事の転載、拡散について
その際は、リンクを貼っていただくか
当ブログ名とURLを記載して頂くようにお願いいたします。

なお、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、無断転載
に関しては、固くお断りいたします。

※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。 


posted by ten1ko2 at 12:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック