2024年01月29日

神や人のためではなく、自分のためにしていませんか? 心と体が一致しない4《金元弼先生のベストアンサー》



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心と体が一致しない私たち、
見えない神様と一つとなるためには、
どのようにしたらいいのでしょうか。
まず、メシヤと一つとならなければなりませんが──

金元弼(ウォンピル)先生のみ言、
「完全な救い」の続き
「我々を導くメシヤ」です。

 
メシヤは私たちをどのように導いていくのでしょうか。

それは、神のために私たちを
最高の基準にまで進めていかれるのです。
私たちもそういうように導いていくならばメシヤです。

メシヤは、これを通じて何を成そうとされるのですか。
神の目的のためです。

メシヤが国家のために活動する時、
私たちがメシヤと一つになって動けば、
私自身も国家のために活動したことになります。

メシヤは私たちを個人的、
家庭的な次元にとどめたくないのです。
結局は、天宙的なもの、神と
一致した者として完成させたいのです。

完成させるためには、その方向に
私たちを動かしていかなければならないのです。


そこで問題になることは、私たちがメシヤと
一つになって国家のためにやっているから、
国家的完成をなした者かということです。

私個人としては、兄弟のために心の奥底から
本当に喜ぶことができないというような、
個人的な完成もしていない者です。

それにもかかわらず、国家的完成を
なした者だといえるのだろうか、という問題です。

それはいつも私という個人に帰るわけです。
私たちの生活は、良い心が入れば良い行いをするし、
悪い心が入れば悪い行いをします。
肉体は、心のままに働くのです。


人間が見る完成というものと神が見る完成というものとは、
その基準が違っているということを
はっきり知っておかなければなりません。

私たちの位置はどういう世界に立っているかといえば、
完成した善なる世界と、悪の世界の
二つの中間の立場に立っているのです。

昔は、善なる世界も、悪なる世界も
分からない混沌とした世界でした。
しかし、知ってみるとそれは、明らかに
善と悪の二つの世界に分かれているのです。

私たちは善と悪の二つの影響を受けながら
生活しているのですから、これを
分別していかなくてはならない立場に立っています。

神の世界を中心として、堕落した世界を
神の世界に一致させていかなければならない
メシヤのような立場に立っているのが私たちです。


個人的には、心と体が一致せず、
体に傾いた生活をするので、個人的に
人格者ではない、気持ちが悪いという人がいます。

ところが、国家ということになった時、
その心は国家のために傾いていって、
神の願う国家のためにと、体を捨てて、
自分から率先して前に立って戦うのですから、
個人的によくない感情などがあったとしても、
国家のために先頭で戦っているその人の姿を見る時、
個人的な感情はなくなってしまうのです。

消え絶えてしまうというのではなく、
そのことによって薄められるということです。


反対に、個人的には非常に良かったけれども、
国家という問題に対しては、自分の
個人的な安定を保つために、動かなかったとします。

これを神はどのように見られるのだろうかという問題です。
個人的には誤りがあり良くなかったけれども、
国家のためになるという場合、全部許されるのです。

今、私たち個人個人としては、神から見れば
とても救うことができないというのです。
堕落性でいっぱいだというのです。

だから、国家のために、神のためにと尽くすことによって、
個人個人は足りないけれども、そういうことを通じて、
神は、私たちの堕落性を脱がせようとされるのです。
許そうとされる愛もあるのです。

神のゆえに、完成の基準が上のとき、
それより下のことは全部許されるのです。


蕩減の期間が過ぎればどうにかなるというような
甘えた考えは間違いだと思います。

イスラエル民族は、約束の四〇〇年期間の
奴隷生活では、出エジプトができませんでした。
蕩減はごまかしがないのです。

神がイスラエル民族に四〇〇年の期間を与えたというのは、
その期間を過ぎればよいというのではなく、
その期間は猶予として与えたのです。

だから、与えられたその期間中
神の愛を求めなさいという、神の内情があったのです。

ところが四〇〇年過ぎても、神の愛を求めなかったから、
出エジプトが成らずに延長の路程があったのです。

神は苦労されて、メシヤをして私たちを
国家の勝利者にさせようとするのです。
そういう目的があって、この仕事をしなさいといわれるのです。
ただこの期間が過ぎ去ればなんとかなる
というような考え方をしてはいけません。


メシヤは、この人を通じてある仕事をしたら、
この条件も、あの条件をもと…大きな願いがあるのです。

一つのことをすることによって、
六〇〇〇年の成しえなかった蕩減の条件を、
この時代に全部完成させようとするのです。

六〇〇〇年、成そうとして成せなかった蕩減の条件を、
メシヤは深刻な一瞬一瞬によって
全部成し遂げなければならないのです。

 
神の願いがあります。
人には人の願いがあります。

神の願いを受け入れないのではなく、
神の願いを中心に、いかに
人の願いを一致化させるかということです。

神の願いに耳を傾けたら、人はついて来ません。
人を喜ばせるべきか、神を喜ばせるべきか。

メシヤは神の喜びと願いの道をたどらなければなりません。
神の願いを、人を通じて成さなければなりません。
人の願いを無視しては成就できないがゆえに、
メシヤは汗と涙と血を流してこられたのです。

メシヤの願いと目的を成さなければならない皆さんです。
メシヤの願いを中心にして、兄弟の願いを
一致させていかなくてはならない皆さんの立場です。

だから、皆さんの汗と涙と血がなくてはならないのです。

 
ある期間を設けて一生懸命にやるのです。
これを成したら何か得られるだろうと考えてやるのです。

しかし何も変わったものがないとします。
そしてもし、無限にやらなくてはならないとしたら、
皆さんはあきらめてしまうでしょう。
しかし、何年何月までという期間があったらそれを期限として、
それが終わったならば何か変わるだろうと思って力が出ます。

しかし、何も変わったものがなく、
自分自身が願った基準にかなわない時、
非常にむなしくなるのです。

そういう時は心霊復興が必要となって、また次に備えるのです。

今度こそ熱心に頑張ったら与えられるだろうと
やるのですけれども、そんな時、
何かだまされるのではないかと思うこともあるのです。

だまされると思うのは、自分を中心とする時起こる心です。

最初は自分のためにではなく、国のために、
人のためにということで出発したのです。

自分のためにではなく、人のため、
国のためにやったのですが、実績がでなかった場合、
再度行かなければならないのに、
そういう場合にすぐ自分に帰ってくるのです。
私のためにという心に帰ってくるのです。
だから、むなしくなるのです。

「私はためになったのですか」と神に聞きもせず、
メシヤに聞きもせず、自分で考えて
自分に帰ってきてむなしくなるのです。

人のためにと思って出発したのですから、
結果も人のために…としなくてはならないのです。
しかし、出発は人のために、結果は自分のためにとなるのです。

出発が自分のためでしたら、
結果も自分のためになるのです。

U 先生の道は我々の伝統
第十二章 完全な救い
「我々を導くメシヤ」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
再編集 文責:ten1ko2


私は、み旨を歩んでいるから、
個人のことは棚に上げてもらえる・・・
その発想は違うのだと思います。

個人としても、しっかりと
証しを立てていくべきだ、
そういう時を迎えております。

そして、お母様が今の時をどのように見つめているか、
同じ方向を見つめていく時であります。

お母様と一つになるべく、
天心苑での徹夜精誠を基準に
しっかりと歩んでいきたいと思うのです。

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posted by ten1ko2 at 12:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 金元弼先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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