李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生の
1977年のみ言「イエス様の内的生活」より
「人に対する正しい姿勢」です。
☆
さあ、このような原則が分かるようになるならば、
皆さんが何か、することが重苦しい、
私の心に合わない、と言うことができますか。
食口がどうのこうの、教域や、教区がどうのこうの、
教会に行ったのだが教会長がどうのこうの、
と言うことはできないのです。
なぜならば、私が施さなければならない人が
いるからです。
私も他人の心に何か記憶され得ることを
しなければなりません。
すなわち、私を必要とする
私の下の人がいるではありませんか?
特にここに集った教会の諸職者たちには、
下の人が多いのです。
その人たちに私が精誠を尽くして
やるべきことがあります。
私が一歩でも先に行って待っていてやり、
戻ってくるならば、
喜んでやらなければならない任務があります。
そのように施すならば、その方たちが
「だれそれのお母さん」
「だれそれ勧士さん」
「だれそれ執事さん」と、このように
教会に出るたびに私を忘れることができません。
教会の中でその人さえ見るならば、
もっぱら自分の心が良くなる情の主体、
すなわち、情でもって引っ張ってやることのできる、
そのような人になるのです。
☆
(今講義を受けている)諸職者たちが出ていって
伝道することはできないとしても、
既に因縁づけられた人を
慕ってやることができなければなりません。
真実心から喜んでやるならば、
その方たちの精誠が合わさって、
その方たちによって神の火の柱と雲の柱が
この祭壇に臨むようになり、その対象たちを通じて
自分の位置が定まるようになるのです。
それを確認する方法は、
その方たちの行動を見ることです。
聖日に私に会って喜ぶ程度を見て
確認することができるというのです。
☆
しかし、初めから私を
記憶することのできない人もいるのです。
それでは、記憶できない人には
どのようにして記憶させることができますか?
一歩でも先に行って、その人が来るのを
喜んで迎えてみなさい。
その人が来るのではなくて「天が呼び出された方が
今、来ておられるのだなあ」と考え、
その人を天のように思ってみなさい。
☆
人に対するとき、お父様の名前でもって対して、
導かなければならないのです。
お父様を除外した人間関係をもつ人は、
お父様を信じる人であると言うことができません。
皆さんすべては、ご父母様を中心として
信仰生活をしているのではありませんか?
そうであるならば、私がだれに会おうとも
ご父母様によって出会った人として
見なければならないのです。
☆
夫婦同士の対話でも互いに合わないときは、
夫は、妻に対して「お母様、
あなたの啓示が降りましたから従順にいたします」
と言い、妻は夫に「お父様、
あなたの実体であられるお父様の啓示が
降りましたから従順にいたします」と、
このように対話しようというのです。
男性が自分の我意で押していっても妻が
「男性性相の実体であられる私の夫、
私の神様の絶対的な命令であられますから
啓示として受けます」と言えば、
夫は我を張っていたとしても覚醒して
「啓示ではない、啓示ではない」と言って
雌伏する(屈伏して従う)のです。
☆
父の名前で対話しようというのです。
これは、笑い話ではありません。
一緒に住んでみれば父を忘れ、
互いに常識で問いつめ、
父を抜きにして対話しやすいのです。
ですから極めて注意しなければなりません。
それで近い家族が怨讐になりやすいのです。
なぜですか?
父を抜きにするようになれば怨讐になるのです。
しきりに別のことを言うように
なりますから怨讐になるのです。
ですから、兄弟に会っても、
「ああ、お父様が送られた人、
お父さまが慕わしくて訪ねてきた人、
私はこの方にどのように対そうか?」と、
お父様に会ったように考えなければなりません。
☆
アメリカにおられるお父様だけを慕ってはいけません。
日曜日の朝、教会に来るすべての人たちに
真実、お父様に会ったように
三回だけしてやってみなさい。
その次からは教会に来てその人がいるだろうか
と探し求めるようになるのです。
いなければ寂しく思うことも分かるのです。
これが諸職者たちがする仕事です。
それもしないならば、皆さんの心霊は、
育つことができません。
自分一人どれだけ出来が良く賢くとも、
対象がいなければ駄目です。
それでイエス様もご自身が世話をする人を
探し求めようと毎日お忙しかったのです。
私たちの先生もとてもお忙しい方であられます。
七月から九月までずっと
太平洋の海に出ておられましたが、
暇で出ていっておられるのではありません。
世界人類を釣る作業をなさいました。
先生は、世界を前にして闘っておられます。
ご自身がどのような生活をしようとも、
世界人類にすがって生きるという
その心情で生きる方です。
天地の責任者として、天宙の中心たる使命を
果たしておられる先生であられます。
諸職者(教会組織の役職者)研修会での説教
1977年10月2日 韓国中央修練所
信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢 李耀翰
U 復帰摂理の恨
「イエス様の内的生活」
1977年10月2日 韓国中央修練所
信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢 李耀翰
U 復帰摂理の恨
「イエス様の内的生活」
☆
再編集 文責:ten1ko2
イエス様は出会った人を
神に会ったかのように、
愛していかれました。
そして、イエス様が人に対するとき、
自分を慕い、侍る人だけを
愛し、尽くしたのではありません。
その人を万民、と思って
愛し、尽くしたのだ、というのです。
真のお父様も全く同じように、
愛していかれました。
ヨハネ先生が語られるように
「日曜日の朝、教会に来るすべての人たちに
真実、お父様に会ったように
三回だけしてやってみなさい」
このような姿勢が本当に重要だと思います。
さらに言うなら、
出会うすべての人に、
そのように対することができれば
どれほど素晴らしいことでしょうか。。。
それが、イエス様を愛し
真の父母様を愛する証明だと言えると思うのです。。。
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※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
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