2024年03月16日

(証し)私が愛せなかった人、父を愛せるようになるまで *ある説教より*



200827.jpg


ある礼拝説教より、証しの部分を紹介します。

説教題は、「敵を愛する理由と方法」です。


では、どうしたら敵を愛することができるのでしょうか?

私も統一教会でみ言を勉強し始めましたが、
敵とまでは言わなくとも、愛せない人がいました。
実は、それは私の父でした。

私の父は心の優しい人でした。
しかし、傷つくことも多かったのです。
それでうっ憤を晴らすため、酒や賭博に
のめり込む生活をしていました。

酒を飲み過ぎると父は酒乱になることが多く、
母や子供を殴ったり蹴ったりしました。
子供のころにそのようなことがあったので、
父がとても嫌いになり、父のようにはなるまいと決心しました。


み言を聞いてからも父を許せず、
愛せない自分がいましたが、学んでいくうちに、
この人を愛せないと幸福になれない
ということがわかってきたのです。

神様は、ご自身と人間の関係を、親子に設定されました。
それはなぜでしょう? 
親子の関係ほど喜びの大きな、また深い関係はないからです。

ですから、親を愛することができない人は、
どこかいつも寂しさを背負って生きることになります。

それを知り、どうしたらよいのか本当に悩みました。
愛せないから愛せないし、許せないから許せないのに、
どうやって愛したり許したりできるのだろうと、
もう一度、聖書を読んでみました。

するとそこに
「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」

と書かれていました。

そこで、愛せない父のために祈ることにしました。

「神様、父を私から遠ざけてください! 
早く霊界に送ってください!消し去ってください!」
と祈るなら、それは祈りではなく呪と言います。

祈るのは幸福を祈るのであり、不幸を祈るのではありません。
しかし、祈りはうそを祈ってもいけないのです。

私が祈った言葉は、次のような言葉でした。
「神様、私は父を愛せません! 
ですが、あの父も神様の子供です。
私は愛せないのですが、神様、父が幸福になるようにしてください」

これなら、ぎりぎり祈れます。


そのように毎日祈っていると、ある思いが湧いてきました。

「神様は、なぜあの人を愛しているのだろう?」という思いです。
そして少しずつ、神様が愛する良いところを探し始めました。
そうすると、少しずつ思い出してきたのです。

子供のころ、夜中に寝ていたところを、
突然、父に起こされたことがありました。
父はパチンコをしていたのですが、
その時、勝ったのです。

それで子供の好きな菓子や飲み物をたくさん景品にして
持って帰ってきて、夜中に私と兄弟に食べろというのです。

私はぐっすり休んでいたので迷惑千万でしたし、
良い思い出ではありませんでした。
しかし考えてみると、私を愛してくれていたのです。
子供たちが喜ぶ姿を見たかったということは確かです。


一つずつそんな思い出が浮かんできたとき、
父の家に行く機会がありました。

すると不思議なことが起こりました。
普段話しかけない父が話しかけてくるのです。

あとでなぜか考えましたが、その理由は簡単でした。
今までは、愛せない心で父を見ていました。
しかしその時、私は父に対して、神様はどこを愛しているのか
探す目で見ていたからだったのです。

人は視線を受けると、その視線の中に気持ちを感じます。
父は、今までと違う私の視線を感じたのです。

 
父が私に話してくれたのは、父の昔のことでした。

父が戦争の時、学徒動員で故郷の鹿児島から東京まで動員されたのです。
東京は食糧不足で空腹が続き、故郷が慕わしくなって、
父は脱走して鹿児島まで歩いて帰ったのです。

鹿児島の家にたどり着き、ひどく汚れていた父は
風呂に入って食事をしたのです。

しかし次の日、おじいさんから、
「おまえは脱走してきた。だから帰らないといけない。
ここでも、おまえを養えない」という言葉を受けたのです。

父は私にその話をしながら、大粒の涙を流すのです。
父はそれから家を出て以来、故郷と縁が希薄になってしまったのです。

その話を聞いたあと、私は父がとても不憫に思われてきました。
私がそのようにされたら、おそらく私の性格では
とんでもない不良になったに違いありません。

しかし、そんな体験をした父は、私を愛してくれたのです。
ただ表現が下手だったのです。
そして、父は私とそんな話ができる時を待っていたのです。

そうして、少しずつ私は父を愛せるようになりました。

 
考えれば、この父がいなければ人生について考えたり、
なぜ自分は生きているのかなど考えなかったに違いありません。

父こそ、私が神様を求め、最終的に
真の父母様に導いてくれた人であることを知ったのです。
私にとって父は私の本当の恩人でした。

父は敵ではありませんが、愛せない人でした。
父は霊界に行きましたが、私の中で父の価値と存在感は
年々大きくなっていく、かけがえのない人です。

まだまだ、私にも敵はいます。
許せないこともあります。

しかし、愛せない人を愛せるようになった時、
そこに神様はおられるのだということを教えられました。

すぐに敵を愛することは困難です。
愛せない人を自分で愛することはできません。
しかし、神様の親の心から、その道があるのではないでしょうか?

まず、その人の幸福を祈ってみてください。
そして、その人の長所を見つめて見てください。
そこから私たちが神様を実感し、
喜びの多い幸福の人生の出発があるのではないかと思います。

「敵を愛する理由と方法」
公式説教ブログより
一部割愛、再編集 文責:ten1ko2


素晴らしい証しですね。。。

自己牧会プログラムは、
証しの当時はなかったと思いますが、
説教をされた、この教会長は、その時
祈りを通して、良心の声を聞いています。

愛せないお父さんのために祈りをささげることで、
良心の声が聞こえてきたのです。

イエス様のみ言「迫害する者のために祈れ」
このことを実践していく中で、
神様を中心に物事を捉えていくことができました。

人間関係において、困難な状況に直面するとき、
祈る習慣を身に付けていきたいものですね。




にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ 当ブログ記事の転載、拡散について
その際は、リンクを貼っていただくか
当ブログ名とURLを記載して頂くようにお願いいたします。

なお、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、無断転載
に関しては、固くお断りいたします。

※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。 


この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック