2024年04月11日

世界は、神を悲しませる「放蕩息子と孤児」で満ちている 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生の
1979年のみ言「私は善なる牧者」の続きです。

正しい信仰

それでは、悪とは何なのでしょうか? 

悪は、自分を中心としたものです。
自分を中心とした気掛かりと心配で
いっぱいの人は、悪なる人です。

これは、次元が違うみ言です。
なぜ悪だというのでしょうか? 

自分の気掛かりや心配でいっぱいの人は、
他人を恨む人であり、他人に手助けする力がないので、
悪の行動をするようになります。

けれども、神を心配する心や
自分の周囲の環境を心配する心は善です。

 
私たちは天の心配をどのようにするのでしょうか? 

無形の神に対して喜びをお返ししようとするならば、
私の生活圏内で、主体者である神が立てられた人を
喜ばせることが神を喜ばせることになります。

私たちはあまりにも無形の神、すなわち、
聖書にある神だけだと思いますが、
これは、神が願われる神観ではありませんし、
あまりにも私たちの生活と懸け離れた神観です。

神が願われる信仰生活は、私たちの生活圏内で
人間を神のように貴く思い、喜ばせることです。

これがまさしく神のために生きる生活なのです。
このような信仰こそ、神を
正しく知っている人の信仰なのです。

これがまさしく原理的に
アベルを経由することを知っている信仰なのです。

 
それでは、私の主体はだれなのでしょうか? 

自分の主体者のために生きる生活が信仰の生活です。

教会に通いながら祈祷し、
礼拝をささげることも重要ですけれども、
自分の実生活が礼拝になり、生活自体が
祈祷になるような生活をしなければなりません。

祈祷と言っても、伏して求めることだけではありません。
主体者を心配する心も祈祷であり、
主体者の心配を知ろうとする心も祈祷です。

そうすれば主体者の事情が分かるようになるのです。
これも啓示です。

 
これがまた、生活に適用されなければなりません。

正しい信仰は、人との関係の中で
実を結ばなければならないのです。

人間関係を離れた熱烈な信仰は独善になり、
悪の実を結ぶことになります。

このように人間関係を離れた信仰は問題になるのです。
この関係を失ってしまった心霊は
常に寂しく、悲しく、重苦しく、悲惨になります。

悲観するという言葉は、主体者に心配をかける
という言葉とも通じるのです。
愛される道がなくなるのです。

父母の懐を離れた放蕩息子は悲惨なのです。

聖書の中の放蕩息子の比喩は、
主体者を失ってしまった人、
自分が考え、自分が決定し、
自分の思いどおりに生きる人を比喩したのです。

家を離れたから放蕩息子だ
というのではありません。

他人の心配を一つもせず、自分の固執する心で
自分の主張だけをして、
自分の思いどおりにする人が放蕩息子です。

主体者に心配をかける人が放蕩息子なのです。

 
私たちは、父子の関係を結ぶ生活を
しなければなりません。

これは、私の生活圏内での
主体者との関係をいうのです。

先生は説教の中で、「私の願いは、
兄弟が和睦することであり、神様の願いも
兄弟が和睦することです」と語られました。

また、「原理を深く分かっていくならば、
神様の怨恨は、カインがアベルを殺害した事件です。
それが神様の心にあざをつくり、神様が
限りなく嘆息する事件となったのです」
と語られました。

兄が弟を打ち殺したので
父の心にあざができたという話です。

兄、弟がそれぞれどれだけ父母のために生き、
孝行を尽くしても、父母は、むしろ兄弟が
互いに父母に尽くすように生きることを願います。
それが父母の心です。

そのような兄弟をもった父母は、
どれほど心温まるでしょうか? 

父母として子供を見て心温まるのは、
まさしく弟が兄を父のように思い、
兄は父母と同じように弟を思うことです。

そのような子供をもったならば、
父母はどれほど心強く頼もしく思うでしょうか。

 
神の願いは兄弟間の和睦です。
私たちの生活圏内には信仰の兄弟がいます。
私たちは孤児ではありません。

孤児とは、父母と家族をもっていても
自分勝手にする人をいうのです。

自分勝手にするならば放蕩息子であり孤児です。

若い人たちの中で他人の言うことを聞くのを嫌がり、
自分勝手にしようとする人たちは
放蕩息子であり孤児たちです。

最近の世の中は、こういう人たちでいっぱいです。

1979年9月9日 韓国本部教会

信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏  
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢 李耀翰

U 復帰摂理の恨
「私は善なる牧者」
再編集 文責:ten1ko2


「人間を神のように貴く思い、喜ばせること」
これが神様が願われる信仰生活、だといいます。

実は最近、個人霊界というか、
公的責任を歩んでいながらも、
なにか狭い意識に落ち込み、
沼のようにふさぎ込んでおりました。。。

ともに歩んでいる兄弟姉妹、
教会に来る食口たちは、神様なんだ!
そう思うと、意識が違ってきますね。

さらにいえば、私に関わる人すべてを
神様のように貴く思い、接していくならば、
どれだけ刺激的でしょうか。

視野を広げていかないといけない、
そのように感じさせていただきました。

ヨハネ先生、ありがとうございます。



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posted by ten1ko2 at 10:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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