2024年04月24日

貧富の差、これは不公平ではない?! 底辺にいる人が発展する理由 《原理に関するみ言の証》



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天宙聖婚64周年記念式(本日)


真の父母様、御聖婚64周年、おめでとうございます。
孝情天宙祝福式を受けられた新郎新婦、
祝福家庭の皆さま、おめでとうございます。

今日は、史吉子(サ キルジャ)先生の「原理に関するみ言の証」
復活論の中の一項目を抜粋して紹介します。



地上人の生涯と先祖の功労

ところで最近、私は驚くべきみ言を聞きました。
お父様が、「神様がなぜ、公平なのかわかるか?
豊かに暮らす人と貧しく暮らす人がいるから、公平なのだ」
とおっしゃいました。

豊かに暮らす人は先祖の功労が高いから
豊かでなければならないし、
貧しく暮らす人は先祖の借りを返すために
貧しく暮らさなければならないとのことです。

私たちは、あの人(山の頂上にいる人)は
優れているわけではないのに良い暮らしをしていて、
この人(谷底にいる人)は
努力して生きているにもかかわらず、
何をしてもうまくいかないから不公平だといいます。

ところが、お父様の観点は違います。
それが不公平なことではないのです。

私たちは生まれる時から、生まれる位置がみな違います。
ですから、自分が誰よりもすべての面で不利であり、
何をしてもうまくいかないからといって、
嫉妬する理由はないのです。

その時は、「ああ、私の先祖の功労がこれだけしかないから、
私がもっと努力しないといけないんだ」
と考えて、もっと頑張ればいいのです。

この人(谷底にいる人)が原理を知り、
主に導かれて食口になれば、
自分の先祖の功労がないことを知り、
その時から努力するようになります。
努力し続ければ、次第に上がっていくのです。

お父様は、こういう人が原理を知れば、
一番大きく発展するというみ言も語られました。

神様は父母であるので、
苦しんでいる子女の祈りと精誠を
よく聞いてくださるとおっしゃいました。
それで、こういう人たちは
恐ろしく発展すると言われました。

史吉子
原理に関するみ言の証
再編集 文責:ten1ko2


このみ言を読みながら、
アフリカのことを思わされました。

今まで多くの苦難と迫害の歴史を
たどってきたアフリカ。。。

しかも皮膚の色が違うというその一点で、
神様を信じる者たちが、同じ神様を信じる者を
迫害してきたという事実。。。
神様にとっても苦痛であったかと思います。

しかし、お父様が語られたように
「神様は公平」なのでした。

多くの苦しみを通過したからこそ、
本当の神様の心情をわかったのだろうし、
これから大きく発展するにちがいありません。

私自身の道のりにおいても、
多くの苦難があったからこそ、
この貴い道に導かれたのだ。。。
そのことがどれほど感謝であるかしれません。

そういう意味では、先祖の功労というものは
良い先祖でも感謝であり、
悪い先祖でも感謝なのかもしれないですね。

ただ、私自身もいずれは、「先祖」になります。
今、私たちの歩む道は、もちろん
過去の穴埋めや清算というものもありますが、
未来への投資でもあると考えると希望ですね。

徳を積みつつ、良い功労を
残していきたいと思うのです。




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posted by ten1ko2 at 10:23 | Comment(2) | TrackBack(0) | 史吉子先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
たとえ 嵐が吹こうとも
たとえ 大波荒れるとも
漕ぎだそう 戦いの海へ
飛び込もう 戦いの渦へ

握りあう 互いの手と手
真心を信じあう 五人の仲間

ボルテスVに 全てをかけて
やるぞ 力の尽きるまで
地球の夜明けは もう近い


フィリピンの第二国歌となっているこの曲を聴くといつも統一食口達の事を思い浮かべます。

Posted by ボルテスV at 2024年04月25日 21:43
イザヤ書53章

彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。

彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。

彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。

彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。

しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
Posted by イザナギ at 2024年04月27日 16:48
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