2024年06月03日

監獄の救世主を、なぜ待つことができたのか?! 《金元弼先生のベストアンサー》



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金元弼(ウォンピル)先生のみ言より、
お父様(文鮮明先生)が
興南(フンナム)刑務所に入っておられるとき、
金元弼先生が体恤された心情の証しです。

死に等しい興南の監獄(強制労働所)に
送られたお父様を、金元弼先生は、
どうして待つことができたのでしょうか。


(文鮮明)先生が牢屋に入っている間、
霊能者たちは教会からどんどん遠ざかっていきましたが、
私の信仰には少しの変化もありませんでした。

どうしてそうなったのだろうと
考えたことがあります。

私だって、天使のごとく、神のみ言を聞くごとく
尊敬していた霊能者たちや先輩たちが、
教会に来なくなるのを見て、
心の動揺がないわけではなかったのです。

しかし、私が先生と一緒にいた時、
先生から受けた平和感、
そして真のみ言、そういったものが
私の心から離れませんでした。

私は「いつになったら先生に会えるのだろうか」
という心が先立って、それ以外のことを
考える余裕がありませんでした。

そこで、自分のノートに、
一、二、三、四……十二、これが一九四八年、
また一列に書いて四九年と書きました。

刑を受けたのが五年間ですから、
五年分を書いたのです。

すると、ここまで消した時に、
先生に会えるということです。
ですから、私が一番楽しい時は、一か月が過ぎて、
一つ消すことができる時です。

先生がお話ししてくださったことが、
いつも頭から離れなくて、
何をする時も、万人で考えながら歩きました。


そうしていたある日、私の心に
強く教えられることがありました。

「お前は今、先生を信じて侍っているのではないか」
と自分に言いました。

今先生は牢屋に入っていらっしゃる。
けれども先生は、今も心を変えずに
信仰をもっていらっしゃる。
それなのに、なぜ私が先に変われようか。

私がもし、信仰を変えることがあるとすれば、
先生が先に信仰を変えてからのことなのだ。
それ以前にはできない。

そういう心が強くわいてきました。
それで私は心を変えることができなかったのです。


このことは何をするにも同じです。
メンバーと私が約束して、何かをやろうとする時には、
ほかの人より先に心を変えてしまうことがあってはいけません。

先生と約束し、先生の前で誓った人たちが、
食口の中にいました。

その人たちが離れていったのが分かっても、
先生はその人たち全員を訪ねて、
それでも受け入れなかったという時になっても、
その人たちに対する心を変えなかったのです。


ここに一本の線を引きます。
これは先生にお会いする線です。

そしてある人の先祖の実績、
先祖の功績が、例えば十だとしましょう。
この人が先生にお会いして、神のために善いことをして、
善の実績を積んだとしましょう。

ところが、この人が先生から離れて、
つまりこの線からどんどん離れていきます。
さらには、統一教会に対し、神に対し反対して、
かえって反対の量が増えていきます。

善の先祖と自分の実績が、この人の善の実績になるわけです。
反対すると、反対の実績の量がどんどん増えていくのです。

それでここまで来たとしましょう。
そしたら善の実績はこれくらい残るわけです。
まだ善の実績は残っています。
そうである以上、この人を切るわけにはいかないのです。

ところが善の実績に対して、
マイナスの実績が同量になれば、
切ることができるというのです。
切っても讒訴されません。

そうでない限り、反対するからといって、
切ったりはできないということです。

今までよくやっていた人がいるとします。
その人が駄目になったとしましょう。
その人が善の実績を積み、忠義を尽くした部分が
残っている以上は切ることができません。


このように考えてください。
ある会社に、一人の社員が入ってきました。

彼のお父さんは、その会社で昔、
非常に善いことをした人でした。
その子供も会社に入って、とても善いことをしました。

ところがそのうちに、この人が
会社にどんどんマイナスをもたらしました。

それだからといってすぐ切ってはいけないのです。
この人が入社してから十万ポンドを
プラスしたとしましょう。

ところが社長の話を聞かないで、
自分勝手にやって同じくらいのお金を損した時には、
切っても何も問題になりません。

ところが一万ポンドの損害を出したとして切ってしまったら、
その人は非常に恨みをもつでしょう。

「私はたくさんお金をもうけてあげたのに、
こんなことで切るとはけしからん」と考えるでしょう。
会社の秘密を外に出てから訴えて、
この会社をつぶそうとするでしょう。


こういう心情の世界を考えると、神のために今まで尽くした
善の実績の量に匹敵する悪の、反対の量をもたらさない限り、
その人を切ったりはできないということです。

先生は、最初よく教会に来て熱心にやった人が
たとえ反対するようになったとしても、
すぐに心を変えるようなことはなさらないのです。

今まで尽くした量より悪の量が増えた場合には、
切っても讒訴されることはないということです。

「受難と源流」

再編集 文責:ten1ko2


真のお父様の7度の十字架の路程、
その中でも、興南の路程は、あまりに
越えがたい路程であったと思います。

イエス様の十字架には、右の強盗しか
従うものはいませんでしたし、
ペテロ以下、弟子たちも一旦は離れてしまいました。

興南から解放された時、待っている
わずかな食口がいたことが
どれほどお父様にとって、
心強かったでしょうか。

真の父母様は私たちを愛し、
信じてくださっておられます。
だからこそ、私たちが先に
心を変えてはいけない、ということです。

今は、真のご家庭においても様々な問題があります。
でも、父母様は子女様に対して、
心を変えてはおられないと思います。

愛し、信じ続けておられるに
違いないと思うのです。


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posted by ten1ko2 at 12:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 金元弼先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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