2024年09月13日

もしも教会を紹介した人が、自分より立派になったら・・・ 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言。
今回は、「侍る」です。


初めて召された時、「原理」によって
刺激を受けた時の情は、幼子(おさなご)の立場なのです。

だから初めのうちは、自分の位置も分からずに、
神の存在を知って神が自分の父だということを知り
喜んで、「お父様」と言っているのです。

本当は、私たちが「お父様」という名を呼べるまでには、
相当、人間としての責任と蕩減条件を
果たさなくてはならないのです。

だからある期間、三カ月とか七カ月間過ごしてみれば、
だんだんと今まで自分が神に対した歴史が分かって、
謙遜になってしまうのです。

神に対して、大胆に「お父さん」と言えなくなってしまうのです。
その時には、教会に行って、
「何かさせてください、自分は何でもやります」
という僕(しもべ)の立場に下るのです。


親は(もともと)子供に対して、
何でも侍ってあげたいという、
僕の心をもつのです。

自分以下の人に対して、何かやってあげたい、
喜ばせてあげたいという心は、親が子供に対する心であり、
また、自分が謙遜に低くなりたいという心です。

自分の罪というものがよく分かれば、アベル・カインの
場合と同じく、霊の親子も、立場が違うだけなのです。

でも、ある時には、親の立場で命令しなくては
ならない場合もあるのです。
いつも笑いながら歓迎するだけでは
いけない時もあるのです。

 
み旨に対して自分の責任を果たすということは、
自分を伝道してくれた親に、あるいは天に侍ることなのです。

侍るというのは、目上の人だとか、天に向かって
何かするのではなく、反対に、天が地に向かって
創造目的をなそうとする方向に自己を置くことなのです。
それが、天が望む本然のものをなすことです。

情の世界では、ある人を中心として集まることを好まないのです。
それより、情の目的のために、必要な実を結ぶことが、
その人にとって一番の喜びの世界なのです。

だから、普通の父母でも、息子が家庭で礼儀正しいとか
ということよりも、外的に社会的に人にあがめられるとか、
称えられるとかということのほうを、
父母の本心としては喜ぶのです。

 
霊の親にしても、自分の伝道した人が
自分より先に教会長になった時は、自分より以上に
早く神に近い立場で孝行する人を導いたから、それは栄光です。

しかし、自分は教会長なのに、伝道した人が
伝道師にもならないのだったら恥です。

父母は、自分の生んだ子供が自分より有名になるのが希望なのです。
だから、あとから来た人が自分より栄光ある仕事をするのを見たら、
喜んで信仰の兄と思うのです。

カインが先に長男として生まれたけれど、
神に帰っていくには、アベルが先に祝福される。
そういう時には、アベルに侍るというより、
貴重に思えばいいのです。

 
あとから来た人は、先に来て自分を導いてくれた人に対して、
いつも信仰の兄と思えばいいのです。

だからといって、必ず相談し、
指導を受けろというのではないのです。
自分のやった仕事をしばしば報告して、その人を慰めるのです。

結局、侍るというのは、神の創造目的に対して
自分が実績を実らせるという問題だから、
物質的問題とか、組織的問題に支配される必要はないのです。

かといって、あとから来た人は、全く知らん顔をして、
導いてくれた人に対してもあいさつ一つせず、
自分の道を先立って行ったならば、
伝道した人の心は、ちょっと寂しくなるのです。

もちろん、先立って神の命令を果たすのはいいのですが、
自分との関係が切れてしまうと、何だか寂しくなるのです。
だから、そういうふうにしないほうがいいのです。

寂しくなると、天から見た時は、
それも一つの条件になってしまうのです。

だから、兄弟だれしも自分のために不快な心をもたないように、
たまには手紙を出して慰め合えば、手紙をもらった人は、
とてもすまなく思うのです。
当然だとは思わないのです。

信仰生活シリーズ 5
心情開拓 心霊を育てる生活原則 李耀翰
(『信仰と生活第一集 原理の生活化』を増補・再編集)
再編集 文責:ten1ko2


ヨハネ先生のみ言は、
心情を中心に語られるので、
ちょっと理解しにくい部分があったのですが、
要するに、謙遜と感謝、
そしてちょっとした配慮があればいいのかな、
と思いました。

授受作用不足、つまり会話や歩み寄りがなければ、
どんな関係でも、誤解や複雑な思いに発展するでしょう。

ですから、形式的な報連相、というよりも
挨拶や、心のこもった言葉掛けは
よいものかなと思います。

最近であれば、たまにはラインのやり取りをしたり
ということは、できますね。

今は、「霊の親子」とは言わず、
「信仰の親子」という風に呼び方が変更になっています。

親子の関係においても、
子供が自分以上になってほしい、というのは、
誰もが願うことだと思います。

ですから、信仰の親子関係においても、
自分以上に信仰の子女が育つことを
願われるのではないでしょうか。

真の父母様に喜んでいただける者となれるように、
精誠を尽くして歩んでいきたいと思うのです。




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もしも霊の子が、霊の親より立派になったら・・・ 《李ヨハネ先生》
posted by ten1ko2 at 13:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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