李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言。
今回は、「侍る」です。
☆
初めて召された時、「原理」によって
刺激を受けた時の情は、幼子(おさなご)の立場なのです。
だから初めのうちは、自分の位置も分からずに、
神の存在を知って神が自分の父だということを知り
喜んで、「お父様」と言っているのです。
本当は、私たちが「お父様」という名を呼べるまでには、
相当、人間としての責任と蕩減条件を
果たさなくてはならないのです。
だからある期間、三カ月とか七カ月間過ごしてみれば、
だんだんと今まで自分が神に対した歴史が分かって、
謙遜になってしまうのです。
神に対して、大胆に「お父さん」と言えなくなってしまうのです。
その時には、教会に行って、
「何かさせてください、自分は何でもやります」
という僕(しもべ)の立場に下るのです。
☆
親は(もともと)子供に対して、
何でも侍ってあげたいという、
僕の心をもつのです。
自分以下の人に対して、何かやってあげたい、
喜ばせてあげたいという心は、親が子供に対する心であり、
また、自分が謙遜に低くなりたいという心です。
自分の罪というものがよく分かれば、アベル・カインの
場合と同じく、霊の親子も、立場が違うだけなのです。
でも、ある時には、親の立場で命令しなくては
ならない場合もあるのです。
いつも笑いながら歓迎するだけでは
いけない時もあるのです。
☆
み旨に対して自分の責任を果たすということは、
自分を伝道してくれた親に、あるいは天に侍ることなのです。
侍るというのは、目上の人だとか、天に向かって
何かするのではなく、反対に、天が地に向かって
創造目的をなそうとする方向に自己を置くことなのです。
それが、天が望む本然のものをなすことです。
情の世界では、ある人を中心として集まることを好まないのです。
それより、情の目的のために、必要な実を結ぶことが、
その人にとって一番の喜びの世界なのです。
だから、普通の父母でも、息子が家庭で礼儀正しいとか
ということよりも、外的に社会的に人にあがめられるとか、
称えられるとかということのほうを、
父母の本心としては喜ぶのです。
☆
霊の親にしても、自分の伝道した人が
自分より先に教会長になった時は、自分より以上に
早く神に近い立場で孝行する人を導いたから、それは栄光です。
しかし、自分は教会長なのに、伝道した人が
伝道師にもならないのだったら恥です。
父母は、自分の生んだ子供が自分より有名になるのが希望なのです。
だから、あとから来た人が自分より栄光ある仕事をするのを見たら、
喜んで信仰の兄と思うのです。
カインが先に長男として生まれたけれど、
神に帰っていくには、アベルが先に祝福される。
そういう時には、アベルに侍るというより、
貴重に思えばいいのです。
☆
あとから来た人は、先に来て自分を導いてくれた人に対して、
いつも信仰の兄と思えばいいのです。
だからといって、必ず相談し、
指導を受けろというのではないのです。
自分のやった仕事をしばしば報告して、その人を慰めるのです。
結局、侍るというのは、神の創造目的に対して
自分が実績を実らせるという問題だから、
物質的問題とか、組織的問題に支配される必要はないのです。
かといって、あとから来た人は、全く知らん顔をして、
導いてくれた人に対してもあいさつ一つせず、
自分の道を先立って行ったならば、
伝道した人の心は、ちょっと寂しくなるのです。
もちろん、先立って神の命令を果たすのはいいのですが、
自分との関係が切れてしまうと、何だか寂しくなるのです。
だから、そういうふうにしないほうがいいのです。
寂しくなると、天から見た時は、
それも一つの条件になってしまうのです。
だから、兄弟だれしも自分のために不快な心をもたないように、
たまには手紙を出して慰め合えば、手紙をもらった人は、
とてもすまなく思うのです。
当然だとは思わないのです。
信仰生活シリーズ 5
心情開拓 心霊を育てる生活原則 李耀翰
(『信仰と生活第一集 原理の生活化』を増補・再編集)
心情開拓 心霊を育てる生活原則 李耀翰
(『信仰と生活第一集 原理の生活化』を増補・再編集)
☆
再編集 文責:ten1ko2
ヨハネ先生のみ言は、
心情を中心に語られるので、
ちょっと理解しにくい部分があったのですが、
要するに、謙遜と感謝、
そしてちょっとした配慮があればいいのかな、
と思いました。
授受作用不足、つまり会話や歩み寄りがなければ、
どんな関係でも、誤解や複雑な思いに発展するでしょう。
ですから、形式的な報連相、というよりも
挨拶や、心のこもった言葉掛けは
よいものかなと思います。
最近であれば、たまにはラインのやり取りをしたり
ということは、できますね。
今は、「霊の親子」とは言わず、
「信仰の親子」という風に呼び方が変更になっています。
親子の関係においても、
子供が自分以上になってほしい、というのは、
誰もが願うことだと思います。
ですから、信仰の親子関係においても、
自分以上に信仰の子女が育つことを
願われるのではないでしょうか。
真の父母様に喜んでいただける者となれるように、
精誠を尽くして歩んでいきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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もしも霊の子が、霊の親より立派になったら・・・ 《李ヨハネ先生》
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