2024年09月20日

再臨主を受け入れない人が、運勢を失う理由とは? 《金元弼先生のベストアンサー》 



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ダビデを殺そうとするサウル☆


金元弼(ウォンピル)先生のみ言。
今回は、「よく話を聞かれる先生」です。


私は先生にお会いして以来、
たくさんの霊能者たちがつまずくのを見ました。

いろいろな所から霊能者が来たり、あるいは霊能者でなくても、
新しい人たちが人って来ますと、
先生は丁寧に迎え入れてもてなします。

そしてその人の話を全部聞いてあげるのです。
夜遅くなってもかまいません。
全部御存じの話であっても聞き入れてくださいます。

また、その人たちが神の前に心を尽くした善の実績、
功績を先生は大事にしてあげました。
たとえそういう実績をもっていない人であっても、
先祖が尽くした実績、功績を認めてくださいました。

それさえもない人でも、神が長年の間、
その人を導くために尽くした神の心情がその人に残っている、
そういう神の心情を受け入れてくださったのです。

こういう人たちが入ってまいりますと、
先生は必ずよくもてなし、お金がない人であればお金をあげ、
着物がない人には着物をあげたりして助けてあげました。

このように先生は、相手の人をよく理解してあげました。
神がその人に対する以上に、先生は待遇してあげました。


授受作用の原理によりまして、このようにしてあげますと、
逆に今度は、相手の方が先生のことを
分かってあげなければならない段階に入ります。

しかし、このようにしてあげたにもかかわらず返さないときには、
神はその人のすべての祝福を奪って、取り出して
こちらの方に全部あげるのです。

つまり、自分の今までの功績を全部置いて、
自分は空になって帰っていくことになるのです。
ですから神が、ない者から奪い取って、
持てる者にもっとあげるということは、
全部そこに起因するのです。


どういう人を通じて、神は私に啓示するか分からないのですから、
霊能者がしくじり、つまずいたようなことが、
私たちにないよう注意しなければいけないと思うのです。

ですから皆さんも、霊能者が失敗したようなことにならないよう、
幼い人の口から出る言葉であっても慎重に受け止め、
先生のごとく、神が私に何か啓示をしているのではないか、
というメンバーに対する謙虚な心が必要だと思います。


サウルとダビデのお話は分かりますか。
第一代の王様であったサウルは、
聖書を見ればよく分かりますが、
サムエルによって油を注がれ、王になった人でした。

ところが彼は、神のお告げを守りませんでした。
その時に、神の心はサウルからダビデに移りました。
ダビデはサウルの部下として
大変よく従い、忠義を尽くしていました。

しかし神の手が自分からダビデに移ったことが
サウルには分かりました。

そこでサウルは何回もダビデを殺そうとしたのです。
ダビデは逃げ出して、大きな洞窟の中に身を隠しました。
サウルはもう主君ではなく、敵のようになりました。

ところが、サウルはそこまで追いかけて来ました。
ちょうどその時、彼はおしっこがしたくなって、
その洞窟の中に入ったのです。

ダビデはその時、刀でサウルの着物の一すじを切り取りました。
サウルはそれに気付きませんでした。

ダビデは、「なぜ追いかけてきて殺そうとするのか」と反問しました。
そこでサウルは、非常に深い悔い改めの心をもちました。

なぜならば、私を殺すいい機会であったのに、
お前はなぜ殺さなかったのか、お前を殺そうとする私を
なぜ殺さなかったのか、と思ったのです。

ダビデは、「神が油を注いだその方を、
どうして私が殺すことができようか」と答えました。

 
私たちも、神が祝福された人を大事にする、
そういう心掛けが必要です。

ですから、足らない私たちですけれども、
非常に大切にしてくださるという先生の心掛けがお分かりと思います。

だからこそ、そのようなお方がおられるならば、
すべての人はいつまでもいつまでも
そういう人のところにいたいと思うのです。
その人の主管を受けたがるのです。

皆さんは、主管されるのはいやだという
考えをもっているかもしれませんが、
自分のために本当に尽くしてくれた人には、
主管されたいのが人間の本性です。
そういう人に主管されることを願うのです。

絶対的に主管されればされるほど、
私は平和になり、また幸せになるからです。
今までは、そういう人がいなかったために、
主管されるのがいやだったのです。

 
先生は、お一人だけで語られるのではなく、
常にメンバーたちの証をお聞きになりました。

二十人の証を聞いたら、たくさん学ぶことができます。
先生は結論を出されません。
メンバーたちの証によって、結論を出させるのです。

先生が原理を語られますと、それを聞いた人は、
み言が正しいということを自分の霊体験を通じて、
霊界を通じて、証を通じて裏付けられるのです。

ですから、証をする人たちは、
ちょうど原理を証明するような役割をしていました。

I 平壌開拓から興南解放
第一章 平壌開拓の日々
「よく話を聞かれる先生」

信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
再編集 文責:ten1ko2


お父様が愛を投入しても、その人が受け入れないと、
その人は今まで受けた祝福をすべて置いていく
この話は興味深かったです。

私たちが100%投入して尽くしたうえで
その人が受け入れず、裏切るようなことがあれば
その人のもっていた徳は、私たち、教会の徳となり運勢となる。。。
その人は、運勢がなくなるわけです。

これは、原理原則だから仕方がありません。
だから、とにかくできる限りを尽くすことは、
私たちにとって、大切だと思います。

真のお父様は、どんな人が来られても
愛しつくされた、といいます。
これが教会に新しく来られた方を
お迎えする私たちの基本姿勢ですね。

どんな人も愛する・・・
それは神様の心情を思ってのことです。

また、サウルとダビデの話にあったように
神様の愛する人を愛するということ、
王のように立派な立場だとしても、
若い相手を見くびったり、嫉妬するのではなく、
幼子の言葉も聞く耳を立てる、
謙虚な心を持つこと。
これも本当に重要なことだと思います。

真の父母様の歩みを相続する
そのような者になっていきたいと思います。

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posted by ten1ko2 at 10:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 金元弼先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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