2024年12月17日

大変なことがあると、決意が揺らいでしまうのですが・・? 《金元弼先生のベストアンサー》



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大変なことが起きると、
神も何もかも忘れてしまう・・・
ありがちな私たちの姿です。

文鮮明先生が、死の収容所に送られる、
そういう状態でも神を慰めていくことができたのは、
どうしてなのでしょうか。

金元弼先生のみ言より、
「神を慰められる」です。


(興南刑務所に行くことになってしまいましたが)
しかし、神は(文)先生に一条の光を啓示されました。

というのは、その刑務所には先生を待っている
一人の青年がいるということを
牢屋に入られる前に教えてくださったのです。

もちろん先生は、み旨の道を復帰していくためには、
どういう死の道があろうとも行く、と覚悟しておられました。

けれども、それが現実として現れたときには、
どのようにしてこれを克服していったらいいのか、
という問題にぶつからざるを得ませんでした。


皆さんはどうですか。

「私たちはどんなことがあっても行きます」
と言ったけれども、
突然困難なことが自分の前に出現してくると、
まず「どうしたらいいのか」というふうになるのと
同じだと思います。

そしてまた、こういう時には、
お祈りすると常に神が共にあるように感じられるのです。

反対に遭うと、神も何もかもどこかに行ってしまいます。
自分だけが残ってしまうのです。
皆さんはそういうことがありませんか。

今は、何をしても神は聞いてくれるように感じられますが、
いったんそういうことが起こると、
もう誰もいない状態になり、自分だけが残るようになります。
その後に神がやって来るということを感じるのです。

不安な時、寂しい時、つらい時、怖い時は神がいないのです。
それが過ぎてから神は現れるのです。

ですからこうした危機的な怖い時でも、平和な心で応じたときに、
初めて神が現れるのです。


お分かりですか。
私たちが神と授受作用できる自分となっていれば、
神が入ります。

しかし、神との授受作用がプツンと切れた時というのは、
不安な時なのです。
そういう時には、神を得ることができません。
それは、授受作用の道がないからです。

不安というのは、既に神から離れている状態なのです。
自分の心と体が授受作用するときに、神が運行するのです。

神のみ意を中心として、心と体が授受作用するはずなのに、
サタンを中心として授受作用したら、
サタンの主管を受けるようになります。

ですから不安を感じるということは、
神の愛から離れるよ、という予告なのです。
早く神に帰れということなのです。


そういう不安な中で、先生はかえって神を慰め、
神を勇気づける心をもたれたので、先生は涙を見せなかったのでした。

それゆえに神は、牢屋の中に先生を迎える準備を
既にされていたのでした。

ですから先生は、牢屋の中に入っても、
絶望よりはかえって希望をもたれたのです。

先生を迎える準備をしている青年が待っているから
希望に満ちた心情で尋ねていかれたのでした。

神から愛される人は死の境地を尋ねていっても、
そこにはその人を迎えてなお生きる道を
準備している人たちが待っているというところに
神の愛があるのです。


先生は呼吸しても、初めの呼吸は神の呼吸であり、
朝起きる第一声を神から始めるのです。

きょうみ旨のために出発するに当たって、
この第一歩を誰のために歩むのですか。

私たちにあっては、第一歩をお父様、
第二歩をお母様のために歩むのです。

先生は第一歩を神、全部を神というように、
神を初めとして出発するというわけです。


「お父様」、「お母様」と私たちは口癖のように言っています。
けれども神が願ってきた心情で眺めた場合、
私たちが唱える「お父様」と
神が願ってきた「お父様」とは相当の差があるのです。

牢屋においてさえも先生を待っている青年がいるように、
先生が行かれる道は神が摂理されました。

先生の行く道を神はどうして準備しなければならないのでしょうか。
その内容がどこにあるのだろうかということを考えながら、
先生を研究してくださるようにお願いします。

正しい心情でもって、先生をよく正しく見つめることができましたら、
短い期間であっても、十年間共についてきた人よりも
短期間のうちに、先生を推し量ることができると思います。


普通の人たちは何の気なく歩いています。
しかし誰も知らない神との時間をもつという心情で一歩を歩むのです。
こういう心情は世界に誰ももっていないだろうと。

皆さんの歩き方一つさえも意義深いものがあると思います。
天はお父様を象徴し、地はお母様を象徴するといつも言われますが、
その実感がしないことがあると思います。

実感するためには、この地はお母様である
という心情でこれを踏んでいく場合、
何の気もなくお母様を踏んだら痛いでしょう。

痛くないようにするためにはどうしたらいいのか。
その心情で歩く場合に皆さんに与えられる心情と、
何の気もなく歩く心情とは全然違うのです。

I 平壌開拓から興南解放
第三章 興南監獄での伝道
「神を慰められる」

信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題


「不安を感じるということは、
神の愛から離れるよ、という予告」
貴重なみ言をいただきました。

どんな厳しい環境にあっても、
絶対的に神様を慰めていかれたお父様に
神様は希望的な準備をしていかれました。
そんなお父様の歩みを相続していきたいです。

また、「この地はお母様であるという心情で
これを踏んでいく」とあるように、
天から与えられたみ言であると思って、
一歩一歩、しっかり踏みしめていきたいと思います。


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不安なのは神を離れているから 牢屋でも天を慰められた父
posted by ten1ko2 at 11:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 金元弼先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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