金元弼(ウォンピル)先生のみ言
「先生に侍るということ」を紹介します。
☆
初期のころ、「このみ旨はいつ成就しますか」
と聞かれたことが幾度もあります。
今のメンバーの中にも、
「いつみ旨が成りますか」と聞く人がいます。
それは、このみ旨の道が正しいか、
真理であるかどうかの問題になります。
我々の責任分担をいかになすか、果たすかによって
その年月は短くなったり、延長されたりするのです。
霊能者たちが三年で現れるといったのに、現れなかったとしても、
先生が神の啓示どおりの先生であるならば、
三年でできなければ七年、七年でできなければ十年、
十年でできなければ一生涯かけても行くべきではないでしょうか。
☆
お父さんと子供がいて、
「お前が中学校に入ったら自転車を買ってあげる」
と約束したとします。
ところが十年たっても買ってくれませんでした。
おかしい、と思っても、十年後の約束が
そのとおりにならなかったとしても、お父さんはお父さんです。
それと同じで、時が来れば成ると思います。
しかし準備した人は恵みを受けるけれども、
準備していない者は、時が来ても恵みを受けられないのです。
自分で準備した人には天国は来ますけれども、
準備していない人には、天国が来ても
天国を迎えることができないのです。
約束した時が来たから成るという考え方は
間違っていることを分かってほしいのです。
☆
ですから、神の啓示があって、たとえ三年を過ぎて
現れなかったとしても、常に神が啓示されたその中心に立って、
その信仰をもち続けなければいけなかったのです。
イエス様がこの世に来られた時に神は、
「あなたは三十三歳の時に、十字架にかけられるよ」と、
そうおっしゃったでしょうか。
そうは教えませんでした。
栄光をもってこの世で地上天国を実現されることを
約束しておられました。
では、イエス様が十字架につけられなければならない
ということを知ったのはいつでしょうか。
その時にイエス様は、
「ああ、神様の約束は違いました。
あなたは神様ではございません。
だから私はこの道は行きません」
と言われたのでしょうか。
☆
この霊能者たちは、自分を中心として考えたのです。
神の啓示を自分を中心として見つめ、
神の目で見つめられなかったのでした。
そして彼らは、たまにしか教会へ来なくなりました。
しかしながら、このメンバーの中には、
自分の家で信仰をもち続け、礼拝をして、
先生が出てこられるのを待っている人もいました。
あるいは、先生の所へ面会に行って、
信仰を守っている食口たちもいました。
ですから私たちも、何事をするにしても、
それが神の喜ぶ道であるとするならば、
たとえ一年のうちに成就しなくとも、
それを行うべきなのです。
先生のいらっしゃらない教会では、
自然と集会や礼拝が行われなくなりました。
しかし、メンバーの家に集まって礼拝をするようになりました。
以前、皆様から「どうして霊能者は離れたのでしょうか」
という質問がありましたので、その話をします。
今は『原理講論』に体系化されていますが、
当時、み言が体系化されていたら、
そういった人たちは離れることはなかったでしょう。
先生が入獄された時に、神からの啓示によって、
自分で先生を助けることのできる条件を立てる
絶好の時であったのです。
しかし、それを勝利できない人たちがいました。
☆
霊能者の集団(腹中教)の中心者が、長年の間、
たくさんの啓示を細かいところまで受けて、
メシヤを迎える準備をしていました。
そういう霊能者であっても、最後の段階になって、
牢屋で先生を迎えるという瞬間において、
たった一つの失敗をしました。
今まで苦労して築き上げてきた
すべてのものを覆してしまったのでした。
洗礼ヨハネのことを考えてみてください。
長い時間をかけてメシヤのために準備した人です。
それが、イエス様に仕えることができなくて、
どうなりましたか。
私たちは常に謙遜な心が必要なのです。
先生のその手紙を読んで、まず神に尋ねたならば、
必ずその答えを得たことだろうと思います。
☆
イエス様は十字架を前にして、
「わたしの思いのままにではなく、
みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)
と祈ったその祈りは、
私たちにとって重要な教訓となると思います。
イエス様御自身の意見があるはずがありません。
イエス様は、神のみ意はこうであると自分で考えようとする、
その心までも否定したのです。
イエス様が神のみ意を考える、そのみ意と
神御自身の本来のみ意との間に、
距離があるものだということを教えたのです。
私たちは、「先生はこうである」と考えます。
私は長年先生と共にいましたから、
先生の御心情が分かりますけれども、
私が思うのと先生御自身のみ意とは距離があります。
先生が考えられるみ意とは何でしょうか。
そこまで考えてみないと、
さっきの霊能者のような失敗を
私たちもしないとは限らないのです。
こういう心構えを謙遜というのです。
この点は、私がずーっと先生と共におりまして、
非常に重要だと考えたポイントとなることです。
これは先生に侍りながら感じたことです。
I 平壌開拓から興南解放
第三章 興南監獄での伝道
「先生に侍るということ」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
第三章 興南監獄での伝道
「先生に侍るということ」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
☆
み旨に対しては、常に
謙遜な心を持たなければならない、
そのことを改めて感じさせていただきました。
また、み旨成就のためには、
神様の責任分担と人間の責任分担、
これが合致しなければならない、
この重要性も感じます。
神様は、真の父母様は、100%み旨を成されますが、
私たちが責任を果たすか果たさないかが重要であり、
み旨が成されない時に、どのように捉えるのか、
謙遜な心を持っているならば、
しっかりと受け止めることができるのだと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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これは最後まで耐え忍ぶ事が非常に困難な事を指し示しています。