2025年03月19日

生前、孝進様から頂いた遺品・・・ ある時、皆が凍り付いた出来事etc. 《大塚*自叙伝》



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1992年12月16日、東京ベイNKホール


孝進様の思いがあるからなのか、
たまたま手に取った記事が、
大塚先生の自叙伝でした。

孝進様とのエピソードを紹介します。


1992年頃だったでしょうか、
孝進様が日本に巡回に来られたときのことです。

あることがきっかけで、一人の兄弟を
全体の前で叱責されたことがありました。
突然のことで、その場は凍りついてしまいました。

子女様方は、真の父母様のお子様ですから、
心情が深く、愛にあふれていらっしゃるのですが、
その反面、非常に激しい面もお持ちです。
それが爆発したときは、本当に怖いのです。

その後、孝進様はお部屋に入ったまま、
長い間出てこられませんでした。
お付きの方々もどうしていいか分からず、
心配しながらも手をこまねいていました。

私はこのときも通訳兼ご案内役でしたから、
責任を感じ、勇気を振り絞ってドアをノックしました。

部屋に入ると、孝進様は椅子に座ってじーっと下を向い て、
ものすごく落ち込んでいらっしゃったのです。

そして私の顔を見ると、
「いやあ、申し訳ないことをしてしまった。
ちょっと感情を抑えきれなかった。
大塚さん、彼を呼んできてくれないか」と言 われました。

そこで私はその兄弟をお部屋に連れていきました。

孝進様は彼に、「申し訳なかった」と謝罪され、
「もしあなたが私を受け入れてくれたら、
あなたと私は本当の兄弟になる」
という話を、丁寧に、真心を込めてされました。

彼は、「はい、分かっております」
とお答えしました。
そこで孝進様は彼とハグして
「和解」という形になりました。

私はこの一件を通して、
ピュアな孝進様のお心に触れた気がしました。
その場にいた者たちは、
孝進様のお気持ちをよく分かっていましたし、
謝罪するにしても、伝言することもできたはずです。
ですが孝進様は、そうはできないと感じておられました。

面と向かって直接詫びたい、傷ついた兄弟の心を
何とかしたいと願われたのです。
その謙虚で真摯な姿勢は、非常に感動的でした。
このように、ご自分の非を認めたら
潔く謝罪されるという姿も、孝進様の大きな魅力でした。


孝進様は離婚を経験され、
さまざまな挫折も味わってこられましたが、
真の父母様への孝情は
誰にも負けないものを持っておられました。

米国で音楽活動を継続され、
「1万曲の作曲」という偉業を 達成されたのも、
真の父母様への孝情の表れであったと思います。

2005年12月8日、孝進様は
ご子息の信吉(シンギル)様を交通事故で亡くされました。
羊進様は大変なショックを受けられましたが、
その4日後の2006年1月1日から、
ベルベディアで早朝の説教を始められました。

「父として信吉に何の教育も
してやれなかったのが心残りだ。
彼のために礼拝をする。
彼は霊界で聞いているだろうから」
というお気持ちからだったと聞いています。

以降、2008年の聖和まで2年余りにわたって語られた
この孝進様の説教は、
霊的に研ぎ澄まされた、深い内容です。

真のお父様も、孝進様の説教を
評価しておられたと聞いています。


2000年の暮れ、孝進様が私に、
ご自身が愛用されていたギターを送ってこられました。

「私の遺品として受け取ってほしい」
ということでした。
私は悩んで、「遺品なんて要りません。
私のほうが10歳年上なのですから、
当然私のほうが先に逝くんです」とお答えしました。

すると孝進様は「まあ、そう言うな。
今はもらっておいてほしい」とおっしゃるのです。
それで、ありがたく頂戴しました。

それから8年後、孝進様は
私より先に逝ってしまわれました(2008年3月 17日聖和、享年45)。
真の父母様への孝情を胸に、
疾風のように駆け抜けたご生涯でした。

孝進様があのとき、どういうお気持ちで
私にギターを下さったのかは、
もう知るよしもありませんが、
お言葉どおり遺品となってしまったのは、
大変無念なことでした。

大塚克己(UPF日本議長)自叙伝
「天地人真の父母様との対話」より
再編集 文責:ten1ko2


感情をストレートに表現される方なんだな・・・
改めて感じます。

しかし、どんな立場に置かれても
父母様だけには、最後まで愛を貫かれ、
絶対に裏切りませんでした。

そこが孝進様の素晴らしさなのだと思うのです。


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2025年03月13日

アボジは、大の日本歴史通! 夜、外で帰りを持っていると・・アラスカの思い出 《大塚克己*自叙伝》



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大塚克己UPF日本議長の、自叙伝より
今回は、「日本の歴史に通じ、
日本を愛してくださった真のお父様」です。

日本の歴史に通じ、日本を愛してくださった真のお父様

UTSを卒業した同期のメンバーの多くは、
ブラジル・ジャルジンの建設に携わることになりましたが、
私は日本家庭連合の副会長を拝命して、日本に戻りま した。

副会長になってからは、それまで以上に、
真の父母様のもとに呼ばれる機会が増えました。
当時、真の父母様は、米国・アラスカや
ブラジル・ジャルジンにいらっしゃることが多かったです。

アラスカに日本の責任者たちが呼ばれたときは、
真の父母様と親しい交流の場が持たれました。

私も真の父母様のみ前で個人路程を証しする機会があり、
「初めて統一原理を聞いたとき、自分がメシヤかと思った」
という畏れ多い話もさせていただきました。

このようにアラスカは、真の父母様と
個人的な因縁を結ぶところだったとしみじみ思います。

真の父母様におかれても、釣りや食事を共にする中で、
リーダー一人一人の個性や心情の世界などを理解する場として
貴重視しておられたように思います。


アラスカでいちばん困ったのは、夏になると白夜になり、
寝る時間が減るということでした。

真のお父様は「いやあ、ここは寝ないですむ、
いいところだ」とおっしゃいました。

お父様はそれでいいかもしれませんが、
お父様ほど強靭な体力も精神力もない私たちには、
船酔いも疲労困憊の日々でした。


ある寒い日、お父様が遠いところに釣りに出て、
帰りが遅くなられたことがありました。

私はお父様のお戻りを、暖かい家の中で待つのが申し訳なくなり、
一人で外に立って待っていたのです。

するとしばらくして頭上から、
「お父様を待っているの?」という声がするのです。

見上げると、2階のベランダに
真のお母様がいらっしゃいました。
私以外には誰もいないと思っていましたが、
神様が見ておられたのです。

私は、「お父様がお戻りになるのを
待っております」と申し上げました。

そのことにお母様が感銘を受けられたのかは
分かりませんが、アラスカをたつときに、
「これを着なさい」と言ってお父様のジャケットを下さいました。


2004年9月のこと、真の父母様がアラスカでの摂理を終えて、
韓国にお帰りになることになりました。

そしてアラスカをたつ前に、小さな自家用機で
アラスカを上空から見て回られたのです。
私は光栄にも、7、8人の随行者の中に加えていただきました。

そのとき、アラスカの最北端、北極圏にある
バロー(現・ウトキアグヴィク) という町に立ち寄られ、
聖地を決定されました。

そこは海沿いの、のっぺらとした地で、
目印になる大きな岩も木もありません。
お父様は、そこに落ちていた流木を目印として祝祷されました。
そうしてバローは、北限の聖地となりました。


このときは小さな自家用機の中でずっとご一緒でしたから、
真の父母様といろいろなお話をさせていただきました。

そういう中、お父様が驚くほど
日本の歴史に通じておられることを知る場面がありました。

どういうきっかけかは忘れたのですが、
東郷平八郎や乃木希典の名前が上がったときのことです。

お父様は、バルチック艦隊を破った東郷平八郎や、
203高地(中国東北部の旅順にある丘陵。 日露戦争の旅順攻囲戦で最大の激戦地となった)
日露戦争に勝利した乃木希典のことをよくご存じだったのです。

そして、彼らの忠誠心、スピリットを
評価しておられるように思えました。

その会話の中で印象的だったのは、
お父様が「203高地」のことを、
「にひゃくさんこうち」とか「にいまるさんこうち」ではなく、
「にれいさん(駕霊山)」 とおっしゃったことです。

乃木希典が詠んだ漢詩に出てくる言い方を
お使いになったのです。

日本の明治時代に、国を建てるために命を懸けて戦った、
あるいは国の発展のために尽くした人たちのことを
よく覚えていらっしゃるのだなあ、
日本を愛してくださっているのだなあと、
深い感銘を受けた出来事でした。

自叙伝「天地人真の父母様との対話」より
再編集 文責:ten1ko2


日本を本当に愛しておられたお父様。。。
愛することは、関心を持つこと、
日本を研究し尽くしておられたのですね。

今も日本を愛するがゆえに、
霊界からの協助をしておられる
真のお父様であるに違いありません。

エピソードを紹介してくださった
大塚先生に感謝です。


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2025年03月03日

孝進様が捧げた1万曲は、TPへのラブソング 熱いエピソードの数々 《大塚克己*自叙伝》



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大塚先生の自叙伝。
今回は、孝進様とのエピソード
「真の父母様への孝情を胸に
駆け抜けていかれた文孝進様」です。


真の父母様への孝情を胸に 駆け抜けていかれた文孝進様


1985年、文孝進様がW-CARP世界会長に就任され、
同年7月17日から2日まで東京で開催された
第2回「原理研究会世界大学生総会」のために来日されました。

このとき私は、日本CARPの副会長の立場で、
通訳兼ご案内役として侍らせていただきました。

このときのご縁で、以後もずっと覚えてくださり、
折に触れて声をかけてくださるようになりました。

来日中、大会はもちろん、松濤本部での
歓迎会などでもメッセージを語られました。

私が驚いたのは、どんなときでも泣かれ、
涙や鼻水でぐちゃぐちゃになりながら
語られたことでした。

お若い(当時22歳)にもかかわらず、
真の父母様のご心情をつぶさに理解し、
そのご苦労、その願いに
何としても応えたいという
決意がほとばしり出るようなメッセージで した。


ご存じのように孝進様は、真の父母様に対する
親孝行の心情を、音楽に託され ました。

音楽と言っても伝統的なクラシック
などではなく、ロックでした。

当時は、ロックと言えば、激しいビートで、
身を反らせ、顔をしかめながら歌うなど、
抵抗を感じる人が多かった時代です。

特に教会内では、「堕落文化の象徴」のように感じて、
理解に苦しむ人も少なからずいたと思います。


ところが真の父母様は違いました。

真のお父様は孝進様の音楽をお聞きになったとき、
「ああ、これは孝進の先生に対するラブソングだね。
親孝行の気持ちを表したものだね」とおっしゃったそうです。

真の父母様にはそれがさっとお分かりになったのです。


そこで私は、日本の食口たちに
孝進様の心情世界を少しでも理解してもらおうと、
CARPのスタッフと協力して、韓国語の歌詞を
日本語に翻訳し、詩集として出版したのです。

音楽抜きで、歌詞だけを読んでいくと、
「これはお祈りだ」
「こ れは説教だ」
「これは親孝行の心情だ」と分かるのです。

また私は、孝進様の曲を礼拝や
集会のときに流せないかと考えま した。

そこで、音楽を専門にしていた兄弟(メンバー)に頼んで、
激しい曲はバラード風にするなど、
礼拝で流せるようにアレンジしてもらったのです。

それを「ピアノセレクション」として
まとめて、孝進様にお聞かせしたら、
「おおっ、こんなものを作ったのか」
と大変喜んでくださいました。

このようにして、ただ言われたことだけをやるのではなく、
こうしたらより良くなるのではないか、
こうしたら喜んでいただけるのではないかと、
心を尽くすようになりました。

「侍る」ことの本当の意味を、
孝進様と過ごす中で学ばせていただきました。

再編集 文責:ten1ko2


私たち一世は、孝進様のコンサートなどを通して、
孝進様が作られた音楽を聴いたり、     
み言を受ける機会も与えられました。

ただ、大塚先生が語られているように、
ロックは、「サタン文化の象徴」とも言われていたし、
孝進様を批判する声も聞かないことも、
なかったわけではありませんでした。

しかし、歌にも記されているように、
父母様への孝情が、
孝進様の心情の根っこにあります。

今も徹夜精誠などで、歌い継がれているように、
孝情の思いを相続できるということが
あまりにも、感謝でならないのです。

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