2024年06月07日

阿部先生が忘れられない、1960年代草創期 み言は、主との絆を築くもの  《制作の舞台裏》



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▲草創期に原理講義をする阿部知行さん


光言社「制作の舞台裏」より。
『「父母の愛に触れた日々」
「み言」を通して出会うもの』です。


U-ONE TVの動画コンテンツ「阿部知行(777双)が証す
 父母の愛に触れた日々」の配信が、
5月31日(金)から全10回の予定でスタートした。

同シリーズでは、阿部知行(のりゆき)さんに
教会草創期における原理講師や
修練所所長としての経験を語っていただいた。

さらに、阿部さんが韓国滞在中に真の父母様から愛され、
心情的に深い絆を結んだ貴重な体験や教訓もお伝えする。

さて、今回紹介する阿部知行さんの証し映像は、
2021年10月に収録したものである。
撮影当日のコーヒーブレイク中に、
阿部さんがおもむろに語り始めた。

「私は話すことが好きなので、ついついたくさん語ってしまう。
やっぱり60年代の草創期というのは、
なかなか忘れがたいものだよ」


筆者:「そうでしょうね。
まだ何も基盤が整ってない開拓の時代で、
今では絶対に体験できない世界ですね」

「はい、当時は今と違って『再臨のメシヤが
どこに来られて誰なのか』ということは、
なかなか教えてもらえなかった」

筆者:「文鮮明(ムン・ソンミョン)先生のことを
あまり話題にしなかったのですか?」

「そうだよ。だから教会には
まだ真のお父様の写真もなかったんです」

「その時期に一番大切にしていたことは、
お父様のことよりも『統一原理』を
できるだけ多くの人に伝えることでした」

「文鮮明先生のお人柄が明らかになったのは、
実は1965年に文先生が日本を訪問されてからなんだよ」

筆者:「その頃は本当に
『み言』を大切にしていたのですね」


「だから私は『み言』について
このように考えてみました」

「『み言』というものは、真のお父様に
直接出会った人にも、会ったこともない人にも
同じように、お父様との絆を
築いてくれるものだということ」

「例えば、現代人は2000年前のイエス様と
会ったことはないし、イエス様の姿を見たこともない」

「イエス様がどういう人であったか?
何をされた人か? 何を語ったのか?
これを探るためには、キリスト教では
聖書の言葉でしかイエス様に近づく方法はないですね。

クリスチャンは聖書の言葉を語りながら
イエス様と共に歩んでいるという喜びを感じているのです」

筆者:「なるほど。私たちも『み言』を聞いたことで
クリスチャンと共通点があるんですね」


「そうだね、だから私たちの未来の世代にとって、
真の父母様と出会う方法を『み言』を通して
見つけられるようにすることは、
重要な課題になると考えています」

「それがないと、ただの触れ合いになってしまいます。
会って何かをしたという表面的なことだけでは、
真の父母様の愛の世界に入ったとは言えないと思いますよ」

筆者:「確かに私たちは『み言』を通じてのみ、
真の父母様の愛の世界に触れることができます」

「私はクリスチャンなので、イエス様をとても愛しています。
イエス様に直接お会いしたことはありませんし、
共に歩んだこともありません。

しかし聖書を通して素晴らしい世界を知り、
その中でイエス様が私に近づいてくださり、
共にいることを感じることができました。

そのようにして、イエス様を愛することができたのです」

「私たちも同じです。
愛は時空を超えるといわれるのは
本当にそのとおりだと思います。

場所や時間が問題ではありません。
『愛』があると、
あらゆるものを超えて出会えるのです」

「真の父母様が『み言』を通して愛し
近づいてくださる。
その愛に応えて私たちも近づいていけるのか、
これは大きな課題ですね。

そして私たちは日々の生活の中で、
真の父母様の教えを実践し、
愛と思いやりを持って行動することが求められています」

「皆さんも『み言』を通して真の父母様の愛を感じる
喜びをたくさん経験してみてください。

そしてこの喜びを共有し、
父母様から来る真の愛を世界に広めていきましょう」

筆者:「今日は、キリスト教の教えから
学ぶことができて本当に感謝しています」

阿部知行さんの貴重な思い出が
たくさん詰まったこの証し映像を、ぜひご覧いただきたい。

制作の舞台裏から 63
「父母の愛に触れた日々」
「み言」を通して出会うもの
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=24683
(Blessed Lifeより)


阿部先生の証し、視聴しなければ、と思わされました。

確かにイエス様は2000年前の人物。
その方の愛に触れ、命を懸けて信仰を守ってきた
クリスチャンたちが数多くいたわけです。

実体で会えなくても、その人の残したものを通して、
人となりを感じることが出来るのです。

み言の貴重さを改めて感じるし、
また今、実体でおられるお母様との出会いに
本当に感謝しなければ、と思います。

時間の余裕があれば、文字起こししたいですね。


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2024年03月31日

(証し)私の運勢を変えた、初めて出したお父様への手紙 《周藤先生》



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昨年末に亡くなられた周藤先生の
若き頃の証しを紹介します。

劉孝元先生が病気になられた時、
お父様に手紙を書くことにしたのですが──


祝福を受けてから少したったある日、
私たちに非常にショッキングなニュースが入りました。

それは「劉協会長が『ガン』になったので
祈祷してください」ということでした。

劉協会長は韓国では原理を語る立場でありましたし、
私も日本で似たように立場なので、
個人的にはあまり深く話し会った
というのではないにもかかわらず、
気が付いてみたら劉協会長と同じような世界が
自分の中にあることを知りました。

したがって祈りも本当に
真剣にならざるを得ませんでした。

その祈りの中で、先生が
ある時にフッと語られた言葉が浮かんできました。

それは“たとえこの世を失ったとしても
劉協会長は失いたくない”
という言葉でした。

私はなお祈り続けると、今度は
“もし私が代われたら……”
という思いがどんどん強くなってきて、
どうしようもなくなってきました。

それからというもの、私は
その問題を中心として非常に闘いました。

とうとう私は心の底から喜んで
身代わりになろうと決断しました。
そして心の中で思っているだけでなく、
実体化しなければならないということに気が付いて、
先生に手紙を書こうとしました。

私は先生が認めればそれは
そのごとくなることを知っていたのです。

ですから山を見ても川を見ても、
“ああこれでこの世の見納めだ”と思い、
兄弟に会っても、ああこれで終わりかもしれないという、
何とも言えない気持ちでした。

しかし、自分の責任分担のために別の意識になると、
またその本来の意識にもどすまでに、
ものすごい努力をしなければなりませんでした。

それが一、二週間続いて、
まだ手紙を書き終わらないうちに、
劉先生が亡くなられたという知らせが来たのです。

私は“遅すぎた!”と思い
たまらない悔いになってしまいました。

そしてどうしていいかわからなくなり、
どこにも行き場がなく、誰にも打ち明けられないので、
とうとう家内に相談することにしました。
彼女は、私と一緒に泣いてくれました。

後である人から聞いたのですが、
彼女は「その時初めて
私を愛せるようになった」ということでした。

私の中に天を思う気持ちがあるのを見て、
それを愛せるようになったというのです。
彼女は普通の人間的な関係では、
そんなに反応する人ではありませんでした。

私は足らなかったことを詫びるために、
先生に手紙を書きました。

天が必要であるならば、いつでも捧げ物になりたい
という気持ちを書いたのです。

それから不思議に運勢が変わったらしく、
どんどん先生の所にも呼ばれるようになりました。

「証言」より


皆様もこの証しを通して感じると思いますが、
周藤先生は、本当に純粋だなぁ、と思います。

お父様が愛してやまない、劉孝元先生の病気が
治るなら、自分が身代わりになってもいい。
そんな思いをお父様に手紙を書こうとしたのでした。

その手紙は御心なのか間に合いませんでしたが、
そして、亡くなったあとに、さらに
いつでも捧げ物になりたい
とお父様に手紙を書きました。

それから運勢が変わり、お父様の許に呼ばれるようになった
ということですが、生命を奉げたい
というような忠孝の思いが、通じたのでしょう。
命を捨てるものは得ると言いますが…。

神日本天心苑の朱鎭台(チュジンテ)苑長も
まさに周藤先生と同じように、
日本のためならイサクと同じく、殉教も厭わない・・・
それほどの決意をもって歩まれています。

先日の天心苑徹夜精誠でも、
その思いが伝わるような懇切な祈りを捧げていかれました。

霊界におられるお父様もどれほど、
感銘を受けておられるでしょうか。。。

実績を捧げることも貴いことかも知れませんが、
それ以上に純粋な心情を捧げることが
もっと貴いことであることを改めて感じるのです。


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2024年03月01日

無念な思いや葛藤が一度に整理されました 父と母は一体だと悟った瞬間 《真のお母様、感謝します》



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真のお母様(韓鶴子総裁)との出会いの証し集
『真のお母様、感謝します』より
証しを一つ紹介します。


真のお母様は3年間の侍墓(シミョ)生活を終えられた後、
真のお父様聖和3周年記念式(2015年8月30日、
清心平和ワールドセンター〈当時〉)で
次のように語られました。

「お父様、これ以降は心配しないでください。
私たちが必ずや責任完遂いたします。

ですからお父様は、永遠なる本郷苑において、
これまで孤独であった神様、天の父母様を慰労され、
頌栄(しょうえい)の対象として
自由の身となられることを懇求いたします!」



私はこのみ言(ことば)を会場で拝聴し、
「お父様とお母様は本当に一体なのだ」とはっきりと分かりました。

同時に、お父様が聖和される1カ月前の
2012年8月4日に夫を霊界に送って以来、
ずっと抱いてきた無念の思いや葛藤などが整理され、
本当の意味で吹っ切れたのです。

そして、「私も夫の遺志を受け継いで、
夫と一つになって歩んでいこう」と、
改めて決意させられたのです。


2015年12月、「真の父母様招請クリスマス晩餐会」
(25日)に招かれて渡韓しました。

お母様は集った日本の先輩家庭を前に、
40分にわたってみ言を語ってくださいました。

中でも印象的だったのは、
「私がまだ地上に生きているのが、
どれだけありがたいことでしょうか。
そのことを皆さんは分からなければなりません」
というみ言でした。

お父様の願いである全人類の救いのために、
堂々と立たれるお母様と心情を一つにして、
自らの責任を果たそうと決意して帰ってきました。

帰国した翌日の12月27日、かねてから
自宅の物置小屋を改装して準備していた
家庭教会の開所式を行いました。

お母様の激励を受けて、都家の
神氏族メシヤを出発できたことを感謝しています。

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▲天宙聖和3周年記念式でみ言を語られる
真のお母様(2015年8月30日)

【お父様がお母様について語られたみ言】
お母様は、第二教主の
資格がありますか、ありませんか。

大講堂に立って凜々しく、
男性のような度胸をもって
お母様以上に講演できる人は
手を挙げてみてください。

お母様から多くのことを学んだのではないですか。
お母様がここまで立派にできるとは
夢にも思わなかったでしょう。
大いに尊敬しなければなりません。


(『真の父母の絶対価値と氏族的メシヤの道』118ページ)

「お父様、心配しないでください」
都 惠子(あやこ/777双)
(光言社・刊『真のお母様、感謝します』より)

スマホで立ち読み Vol.19
『真のお母様、感謝します』29
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=18428
(Blessed Lifeより)
再編集 文責:ten1ko2


今回、御聖誕日の記念行事に、
元老の先輩たちがお母様に呼ばれ、
特別ツアーをされたそうです。

そこに証しをしてくださったお姉さんが、
参加されているかは定かではありませんが、
お母様のみ言は、とても厳しかったと聞いています。

お母様ご自身も摂理の最前線に立たれているし、
何よりも、一つになっておられる、
お父様の思いを含めてのみ言だったのだろう、と思うのです。

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