「神様は言葉ではなく、
実感を通し、罪を教えて下さる」
だから、心が痛ければ痛いほど、
それが神様のメッセージ。
心が痛くない人は、そのとき
それを蕩減する立場ではない──
蝶野知徳(ちょうの とものり)本部家庭教育部長の
「精誠篇(せいせいへん)」の続きです。
☆
ですから、神様は、自分の罪を、私たちの罪を
言葉で教えないのです。
「神様、私が罪人だということを教えてください。
私はどんな悪いところがあるでしょうか」
と言ったら──
「お前はこんなところが悪い、
こんなことがある、こんな癖がある」
と機関銃のように言われたらですね、
もうなんか信仰生活いやになってくるんですね。
神様は教育のプロなので
祈ったら、実感で教えます。
☆
あるご婦人は「罪がわからない」
といって半年間に祈り続けて、
「自分は人よりもいい人間だ。
罪人だっていうのは理解できない」
と言っておられました。
ところが、半年間祈って、
あるときスーパーに入ると、
食品売り場で、障害を持っている子供さんが
大根とか人参を振り回して暴れていました。
その息子を、お母さんが抱き締めて泣いてる
シーンを見たのです。
まさしくその息子は、
お母さんがなぜ泣いてるかわからない、
障害があるんだからしょうがないでしょう。
しかし、お母さんは、もう自分の力では
どうすることもできない、
そして恥ずかしいのもあるし、情けないのもあるし、
でもお母さんとしてできることは、
泣きながらその暴れる息子を抱きしめるしかない。。。
その時にそれを見たご婦人は、
あの暴れてる息子が自分だと思いました。
自分の罪がわからない、自分が何をやってるかわからない、
このことでお母さんがどれぐらい、
憐れみの愛と哀しみと恥ずかしさと複雑な心で
自分を抱きしめて泣いてるか分かっていない。
実はそのお母さん(の姿)が神様だったんだ、
ということで、そのスーパーで
もう慟哭して、「神様、自分の罪が分かりました」
と、こういう風な実話があります。
☆
そうやって祈祷の答えを得たわけですよ。
私たちも祈祷の答えを、耳で聞こうとするのです。
言葉で聞こうとしますけれども、
言葉で教えられたものは流れていきますが、
実感を通して教えたほうが
その人のものになるのです。
神様は実感を通して教える。
ですからこの時にこの罪感をこの人が感じるためには、
このようなものとしてみるという条件が必要なんですよ。
☆
この瞬間、悔い改める(【悔改】)。
【神は私たちにの中にある罪を、
周りの人を通して見せてくれているのです。
周りの人はその役割を演じていると考えるべきなのです。】
と、これは、金元弼(ウォンピル)先生のみ言です。
「演じている」んですって、皆さん。
「えーそれ嘘でしょう」と思うかもしれません。
実際その人たちが、演じているわけではなく、
本気でやってます。
この目撃したいじめも(スーパーでの出来事も)、
(彼らは)演じているわけではありません。
だけど、私がなぜそれを見るのかという、
自分を中心人物の立場に置くと、どうでしょうか。
自分のために演じているという、
霊的な位置になるというのです。
ここなんです、皆さん。
☆
そして、更に言うならば
【先生は他人を苦しめる人に対して、
原理がこうであるから
こうしてはいけないとは忠告されません。
こういった人の為にいかばかり神は
苦しまれたことだろうかとかと、
神の心情を慰められるのです】と。
さらに段階を超えれば、見た瞬間に、
お父様は神様を慰めるというのです。
これ、【神様の立場を思う】
というのが、さらに上の段階です。
☆
簡単に言いましょうか。
いじめをしているシーンを見たら、
神様を慰めるということです。
お父様は完成されているから
これが反射的にできる。
私たちはみ言で理解してできる。
やがては自然にできる。
だから20年30年の訓練で、人格を成長していく
というよりも、わずか数十日数カ月の
こういう生活によって激変していくわけです。
まるっきり変わってしまいます。
まず家族の見え方が変わります。
心が変わっているのです。
つまり神様を愛する。
人の罪を見て神様の立場を思いながら、
神様を愛する。
これを反射的にされておられるのが、
真のご父母様であられましたよ。
このことを通して
【人間に対する深い愛を持つ
神様の胸の痛みを知る】
痛いですよね、自分が一生懸命作った人間が
こんなことをしているんだから。
神様はどれだけ胸が痛いかと、
【神様の立場を思う】のです、こうやって。
完成人間は、そうです。
私たちは、復帰原理を理解してできるというのです。
何回も言いますが、忘れなければ(できます)。
(しかし、)忘れちゃうんです。
☆
で最後、
【蕩減を通して親子が
心情一体になってゆく摂理】でもあるのです。
いじめを見せられたことで、
神様と私が一つになっていくということもあるのです。
☆
だいたい蕩減というのは、
蕩減されればされるほど、どうなるかというと、
二つのものが一つになっていきます。
カイン・アベル、心と体、神様と人間、
二つのものが一つになっていく。
堕落というのは、一つのものが
二つになったことを堕落といいます。
蕩減復帰というのは、二つになったものを
一つにしていくことです。
ですから内面が蕩減されればされるほど、
心と体が一つなっていきます。
人間関係も一つになっていきます。
☆
一つになっていくということは、
統一のことです。
家庭連合という看板が変わっても、
統一という言葉が残ったというのは、
これは原理のおおい(覆い?)だからです。
私たちの目指すところからだからなんですね。
キリスト教を統一するのではなくて、
家庭の統一であるし、
心と体、私の統一なのです。
蝶野知徳・精誠篇2
父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
☆
2018年に蝶野部長が広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)
スーパーで慟哭した証し。。。
胸に突き刺さるようでした。
このような思いを持つことができれば、
物事に対する捉え方が、全く変わってきます。
これを文先生は、即座に感じることができる、
それは素晴らしいことですが、
私たちも忘れても思い出して
神様を思うように心掛けていけば、
変わっていくことができるということが
とても希望です。
おそらく、これを語られている、
蝶野部長ご自身も、
神様の立場に立って、物事を見つめる、
そのような心情圏に至っておられると思います。
決して自分の感情で物事を判断するのではなく、
これも自己牧会プログラムの取り組みのごとく、
良心を先立たせ実践していくことが
大事なのだと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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