2022年11月19日

「神様、私の罪がわかりました!」スーパーで慟哭した証し 《蝶野部長*精誠篇2》B




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「神様は言葉ではなく、
実感を通し、罪を教えて下さる」

だから、心が痛ければ痛いほど、
それが神様のメッセージ。
心が痛くない人は、そのとき
それを蕩減する立場ではない──

蝶野知徳(ちょうの とものり)本部家庭教育部長の
「精誠篇(せいせいへん)」の続きです。


ですから、神様は、自分の罪を、私たちの罪を
言葉で教えないのです。

「神様、私が罪人だということを教えてください。
私はどんな悪いところがあるでしょうか」
と言ったら──

「お前はこんなところが悪い、
こんなことがある、こんな癖がある」
と機関銃のように言われたらですね、
もうなんか信仰生活いやになってくるんですね。

神様は教育のプロなので
祈ったら、実感で教えます。


あるご婦人は「罪がわからない」
といって半年間に祈り続けて、
「自分は人よりもいい人間だ。
罪人だっていうのは理解できない」
と言っておられました。

ところが、半年間祈って、
あるときスーパーに入ると、
食品売り場で、障害を持っている子供さんが
大根とか人参を振り回して暴れていました。

その息子を、お母さんが抱き締めて泣いてる
シーンを見たのです。

まさしくその息子は、
お母さんがなぜ泣いてるかわからない、
障害があるんだからしょうがないでしょう。

しかし、お母さんは、もう自分の力では
どうすることもできない、
そして恥ずかしいのもあるし、情けないのもあるし、
でもお母さんとしてできることは、
泣きながらその暴れる息子を抱きしめるしかない。。。

その時にそれを見たご婦人は、
あの暴れてる息子が自分だと思いました。

自分の罪がわからない、自分が何をやってるかわからない、
このことでお母さんがどれぐらい、
憐れみの愛と哀しみと恥ずかしさと複雑な心で
自分を抱きしめて泣いてるか分かっていない。

実はそのお母さん(の姿)が神様だったんだ、
ということで、そのスーパーで
もう慟哭して、「神様、自分の罪が分かりました」
と、こういう風な実話があります。


そうやって祈祷の答えを得たわけですよ。

私たちも祈祷の答えを、耳で聞こうとするのです。
言葉で聞こうとしますけれども、
言葉で教えられたものは流れていきますが、
実感を通して教えたほうが
その人のものになるのです。

神様は実感を通して教える。
ですからこの時にこの罪感をこの人が感じるためには、
このようなものとしてみるという条件が必要なんですよ。


この瞬間、悔い改める(【悔改)。

【神は私たちにの中にある罪を、
周りの人を通して見せてくれているのです。
周りの人はその役割を演じていると考えるべきなのです。】


と、これは、金元弼(ウォンピル)先生のみ言です。

「演じている」んですって、皆さん。
「えーそれ嘘でしょう」と思うかもしれません。

実際その人たちが、演じているわけではなく、
本気でやってます。
この目撃したいじめも(スーパーでの出来事も)、
(彼らは)演じているわけではありません。

だけど、私がなぜそれを見るのかという、
自分を中心人物の立場に置くと、どうでしょうか。

自分のために演じているという、
霊的な位置になるというのです。
ここなんです、皆さん。


そして、更に言うならば

【先生は他人を苦しめる人に対して、
原理がこうであるから
こうしてはいけないとは忠告されません。

こういった人の為にいかばかり神は
苦しまれたことだろうかとかと、
神の心情を慰められるのです】
と。

さらに段階を超えれば、見た瞬間に、
お父様は神様を慰めるというのです。

これ、【神様の立場を思う】
というのが、さらに上の段階です。


簡単に言いましょうか。
いじめをしているシーンを見たら、
神様を慰めるということです。

お父様は完成されているから
これが反射的にできる。

私たちはみ言で理解してできる。
やがては自然にできる。

だから20年30年の訓練で、人格を成長していく
というよりも、わずか数十日数カ月の
こういう生活によって激変していくわけです。

まるっきり変わってしまいます。
まず家族の見え方が変わります。
心が変わっているのです。

つまり神様を愛する。
人の罪を見て神様の立場を思いながら、
神様を愛する。

これを反射的にされておられるのが、
真のご父母様であられましたよ。

このことを通して
【人間に対する深い愛を持つ
神様の胸の痛みを知る】


痛いですよね、自分が一生懸命作った人間が
こんなことをしているんだから。
神様はどれだけ胸が痛いかと、
【神様の立場を思うのです、こうやって。

完成人間は、そうです。
私たちは、復帰原理を理解してできるというのです。
何回も言いますが、忘れなければ(できます)。
(しかし、)忘れちゃうんです。


で最後、
【蕩減を通して親子が
心情一体になってゆく摂理】
でもあるのです。

いじめを見せられたことで、
神様と私が一つになっていくということもあるのです。


だいたい蕩減というのは、
蕩減されればされるほど、どうなるかというと、
二つのものが一つになっていきます。

カイン・アベル、心と体、神様と人間、
二つのものが一つになっていく。

堕落というのは、一つのものが
二つになったことを堕落といいます。

蕩減復帰というのは、二つになったものを
一つにしていくことです。

ですから内面が蕩減されればされるほど、
心と体が一つなっていきます。
人間関係も一つになっていきます。


一つになっていくということは、
統一のことです。

家庭連合という看板が変わっても、
統一という言葉が残ったというのは、
これは原理のおおい(覆い?)だからです。

私たちの目指すところからだからなんですね。
キリスト教を統一するのではなくて、
家庭の統一であるし、
心と体、私の統一なのです。

蝶野知徳・精誠篇2 

父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
2018年に蝶野部長が広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)


スーパーで慟哭した証し。。。
胸に突き刺さるようでした。

このような思いを持つことができれば、
物事に対する捉え方が、全く変わってきます。

これを文先生は、即座に感じることができる、
それは素晴らしいことですが、
私たちも忘れても思い出して
神様を思うように心掛けていけば、
変わっていくことができるということが
とても希望です。

おそらく、これを語られている、
蝶野部長ご自身も、
神様の立場に立って、物事を見つめる、
そのような心情圏に至っておられると思います。

決して自分の感情で物事を判断するのではなく、
これも自己牧会プログラムの取り組みのごとく、
良心を先立たせ実践していくことが
大事なのだと思うのです。



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2022年04月28日

子供の行動を変えようとして、失敗してきた親たちへ 《家庭力↑UP講座いいとこどり・多田先生》



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家庭力アップ講座をまとめた
多田 聰夫先生の「通いはじめる親子の心」

blessed lifeにこのように紹介されています。
「本書に出合った時からが
子育ての新しい出発です」

はじめに

文鮮明(ムン・ソンミョン)先生が解き明かされた「統一原理」は、
神様の創造理想が、個人完成、家庭完成、理想世界実現、
すなわち三大祝福の実現であることを明確に説いています。

そして、神様の救いの摂理は、人間始祖の堕落によって失われた、
この神様の創造理想を復帰すること、
三大祝福を復帰することであると説いています。

三大祝福とは、創世記一章28節にあるように、
個性完成、子女繁殖(家庭完成)、万物主管です。

個人として人格を完成し、成熟した後には結婚して
夫婦となって子女を生みふやし、愛に満ちた家庭を築くこと、
そして神様の真の愛で世界を一つの家族にすること、
「神のもとの人類一家族(One Family under God)」の世界をつくることです。


そのようなみ言(ことば)と出会い、愛する子女を失った
神様の涙の心情を知って、私たちは、神様に喜びをお返ししたい、
いまだなされていない神様のみ旨を成し遂げてさしあげたいと、
一生懸命に歩んできました。

ところが、家庭については、子供に対しては、
あまり取り組んでこなかったのではないでしょうか。

み旨を歩む中で、全体目的を優先するあまり、
家庭をなおざりしてきたことが多かったのではないでしょうか。
世界のために投入すれば、自分の家庭は神様が守ってくださる、
導いてくださるといった信仰観を持つ人が多かったように思います。


統一教会の信仰を持ち、祝福を受けた祝福家庭の父母は、
当然、子供に、親と同じように信仰を持ち、
貴い祝福を受けてほしいと願っていす。

神様の祝福を受けて生まれた二世なので、
神様を信じるのは当然であり、
祝福を受けるのは当然と思ってきたことでしょう。

しかし、親と子は同じではありません。
親は十年、二十年と、信仰生活をする中で神様と出会い、
さまざまなことを体験しています。
その上で、神様と真の父母様に、
あるいは祝福に対して確信を持っているのです。

子供たちは、そうではありません。
神様への愛も、心情も、自然に芽生え、育ってくるものではないのです。

父母と同じように、み言と出会い、さまざまな体験を通してこそ、
信仰が育ち、神様の心情を体恤(たいじゅつ)するのです。

たとえ、同じような体験ができなかったとしても、
親の気持ちに共感できたなら、
自分も親と同じような道を歩んでみたいと思うものです。

 
これまで子供に、親の願うとおりになってほしいと、
日常生活の中で、子供を変えようと、
いろいろしてきたのではないでしょうか。

子供の行動を正そうと、あるいは子供の性格を変えようと、
一生懸命に努力してこられたでしょう。
しかし、思うようにできなかったのではないでしょうか。

子供の行動を変えようとするのではなく、
なぜそのような行動を取るのか、
子供の気持ちを理解できる親になろうと考えることが大事です。

しかし、今までの生活習慣が身についているわけですから、
すぐには自分自身を変えることは難しいでしょう。

多くの場合、子供は親が理解してくれていないと感じています。
親も子供のことが理解できないでいます。

しかし、親子の間で「理解する」というのは、
理路整然と説明して理解するというのではないのです。
気持ちを同じように感じてくれたとき、
共感してくれたときに、理解された、分かったとなるのです。


本書は、今日まで全国で行ってきた「家庭力アップ講座」から、
子供への対し方について内容を絞ってまとめたものです。

共感することの大切さ、その方法について提案しています。
実際にそれを実践してみてください。

親子の絆を深めることに、少しでもお役に立てればと願っています。
また、ご意見やご感想、こんな方法もあるといった
ご提案など、お聞かせいただければ幸いです。

 
2014年6月 著者

多田 聰夫・著(光言社・刊
『通いはじめる親子の心〜子供の気持ちに「共感」する』より)

通いはじめる親子の心 1
はじめに


子供を教育して祝福に導く。。。
祝福家庭の食口であるならば、
誰もが願い、取り組んでいることだと思います。

しかし、簡単に導かれる場合もあれば、
投入してもその如くにならない場合もあります。

多田先生の言われるように
「神様の祝福を受けて生まれた二世なので、
神様を信じるのは当然であり、
祝福を受けるのは当然と思ってきた」。。。

私自身もその中の一人であります。
そして、そのようにスムーズにいかないのが現実です。

以前紹介したこともあったかと思いますが、
改めて私も学びなおして、子供に正しく向かっていきたい、
そんな思いをもって、紹介させていただこうと思います。




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2022年03月18日

暴言を吐いた夫の責任ではない?! なぜ私が謝罪すべき 《蝶野部長*精誠篇》H



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蝶野部長のみ言「精誠篇(せいせいへん)
続編になります。


(ようやく立ち直りかけたひきこもりの息子に
夫が暴言を吐いて、台無しにした)
この時に、私の思いが出てくるのです。

こうやって、「私の思い」
この時にもうブルブル怒りに震えるわけです。
(パワーポイント上の「私」が震える)(笑)

自分、この女性(私)の蕩減情報だから、
これ(私自身の持っている蕩減の情報)が
「再生」されていると思ったらいいのです。

簡単に言いますと、この人には
自分が一生懸命愛して育てている息子を
暴言で台無しにする夫に悩む蕩減があるのです。


わかりますよね。
この夫には、このことに関しては、蕩減がありません。

夫は悩んでいません、このことを好きで言っているのです。
このご主人は、堕落性で言ってるのであって、
この人(夫)の蕩減は、また別なのです。

そうでなくて、一生懸命立ち上がろうとした
息子に対して暴言を吐いて台無しにすることに
悩んでいるのは、この妻です。
夫はそのことで悩んでいません。


ですから、「私自身が持っている蕩減の情報と出会って」
それが家庭の中で再現された。
「それが再生されている」
こういうふうに思った方がいいのです。

プロジェクターで映してるぐらいに、
自分のプロジェクター、自分の投影機、幻灯機から
映しているというぐらいに思うのが、
霊的には合うのです。


この女性の失敗は、「人の責任」だと思っている。

でも普通は、当然そう思うでしょう。
宗教的に見なければ、夫ってひどいねー
となるのではないでしょうか。

しかし、これは普通の人の見方であって、
我々はこれではダメだというのです。

そうではなく、「この感情を私が体験するということは、
私にテーマがあるんだ!」
と。


なぜでしょうか?
『もうー!この夫、なんで…』と思う、
これが「私の蕩減すべき情報」だと、いうわけです。

しかも、この夫が暴言を吐いてくれない限り、
その罪を清算する道がないというのです。
わかりますか?

自分では一生発見できません。
だから、自分のご主人が、お釈迦様みたいな
人格者だったら、ほとんど蕩減できないということです。


「私の果たすべき蕩減の情報だから、
この瞬間、私の罪として悔い改め」
たらいいのです。

あ、(私の)血の中にそれがあるのだと。
謝罪」する。
お父様、許してくださいと。

なぜでしょうか?
それは、私が体験するということは、
痛い思いをしているでしょう。

そのほうが、良く祈るのです。
だから、ちょっと極端な表現をすれば、
祈らせるために、痛い思いを
するようになっているのかもしれません。

この時に、謝罪します。

私のその血の中に、血統の中に
蕩減すべき内容の中に、こういったことがある、
この時に内面蕩減すると
このようを思ってください。


どういう風にしたらいいのかというと、簡単です。
たった一言
「許してください」こう言ったらいいんですよ。

「心から言えなくてもいいんでしょうか」
といえば、いいです。
心から言ったほうがいいですが、
心から言えないんだからいいでしょう。

なぜか?
言えないんだから、それは無理をすると、
ストレスがたまるんですよね。

(このことは、後で(次回)お父様のみ言を紹介します)


謝罪。
なんで許すのか、『あんたが謝るんだろう』
という思いがあるでしょう。

でも皆さん復帰原理をよく理解すると、
こういうことがない家庭もあります。

「あなたのご主人いいね、物腰柔らかで、言葉も柔らかで。
ウチなんか、今日こんなことがあったのよ」

「家の主人、全然そんな事言わない」と。
言わないは言わないで、またその家の中では、
別なものがあるのです。

ですから、もし自分が中心人物に立つのであれば、
「私にテーマがあってこれに出会っている」、
つまり「私の責任」です。

だって他の家庭にはなくて、自分の家庭にはあるわけですから、
それは皆さんがいつも良く言ってる
「意味があるよねえ」ということでしょう。


ですから、(ちょっと下の方ですね。この赤い人の方は)
「復帰原理を理解し
中心人物の自覚がある」

自分の罪として、理解する
何でかといえば、私が感じているからです。

そして、神様は順番にいろいろ教えてくれます、段階的に。
いっぺんに教えられると多分潰れてしまうと思います。
先祖数百代のものですから。

自分の血で流れてきたもの、
先祖解怨も、清平も、絶対必要です。
そしてそれをできる限り全てやる、
ということは、大切ではありますが。

生きている私が、成長して完成することによってしか…。
私たちの先祖も私たちの体を借りながら、
成長して完成していきます。

ですから、長生期完成級を成長するのは、
生きている地上の人間を通してですから、
先祖解怨して全部終わりではなくて、
私も成長していかないといけないわけです。


こちら(紫色の方)は、「み言がわからない人」の対応です。

私たちもこういう復帰原理がわからないと、
「み言がわからない人」の内容に加えて、
原理で裁いていくから
どんどん悪霊がついてくるわけです。

蝶野知徳・精誠篇1 
父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
このみ言は、2018年に蝶野部長が
広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られたものです。
(文責:ten1ko2)


「私」に起きている出来事は、すべて意味があり、
「私」の責任、として捉えることが大事なのだ、と思います。

一般的に見たら、夫に問題があるし、
夫を裁きたくなる、妻の気持ちもわかります。

しかし、「私」が中心人物であったら、
受け止める気持ちが変わってくるのではないでしょうか。

ヤコブがハランの地でラバンから試練を受けましたが、
10度騙されても甘受して乗り越えていきました。
そこでの信仰がエサウとの劇的な再会になり、
そこからイスラエルが始まりました。

与えられた環境、出来事をどのように受け止めるか、
とても重要なことだと思うのです。




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