2022年03月18日

暴言を吐いた夫の責任ではない?! なぜ私が謝罪すべき 《蝶野部長*精誠篇》H



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蝶野部長のみ言「精誠篇(せいせいへん)
続編になります。


(ようやく立ち直りかけたひきこもりの息子に
夫が暴言を吐いて、台無しにした)
この時に、私の思いが出てくるのです。

こうやって、「私の思い」
この時にもうブルブル怒りに震えるわけです。
(パワーポイント上の「私」が震える)(笑)

自分、この女性(私)の蕩減情報だから、
これ(私自身の持っている蕩減の情報)が
「再生」されていると思ったらいいのです。

簡単に言いますと、この人には
自分が一生懸命愛して育てている息子を
暴言で台無しにする夫に悩む蕩減があるのです。


わかりますよね。
この夫には、このことに関しては、蕩減がありません。

夫は悩んでいません、このことを好きで言っているのです。
このご主人は、堕落性で言ってるのであって、
この人(夫)の蕩減は、また別なのです。

そうでなくて、一生懸命立ち上がろうとした
息子に対して暴言を吐いて台無しにすることに
悩んでいるのは、この妻です。
夫はそのことで悩んでいません。


ですから、「私自身が持っている蕩減の情報と出会って」
それが家庭の中で再現された。
「それが再生されている」
こういうふうに思った方がいいのです。

プロジェクターで映してるぐらいに、
自分のプロジェクター、自分の投影機、幻灯機から
映しているというぐらいに思うのが、
霊的には合うのです。


この女性の失敗は、「人の責任」だと思っている。

でも普通は、当然そう思うでしょう。
宗教的に見なければ、夫ってひどいねー
となるのではないでしょうか。

しかし、これは普通の人の見方であって、
我々はこれではダメだというのです。

そうではなく、「この感情を私が体験するということは、
私にテーマがあるんだ!」
と。


なぜでしょうか?
『もうー!この夫、なんで…』と思う、
これが「私の蕩減すべき情報」だと、いうわけです。

しかも、この夫が暴言を吐いてくれない限り、
その罪を清算する道がないというのです。
わかりますか?

自分では一生発見できません。
だから、自分のご主人が、お釈迦様みたいな
人格者だったら、ほとんど蕩減できないということです。


「私の果たすべき蕩減の情報だから、
この瞬間、私の罪として悔い改め」
たらいいのです。

あ、(私の)血の中にそれがあるのだと。
謝罪」する。
お父様、許してくださいと。

なぜでしょうか?
それは、私が体験するということは、
痛い思いをしているでしょう。

そのほうが、良く祈るのです。
だから、ちょっと極端な表現をすれば、
祈らせるために、痛い思いを
するようになっているのかもしれません。

この時に、謝罪します。

私のその血の中に、血統の中に
蕩減すべき内容の中に、こういったことがある、
この時に内面蕩減すると
このようを思ってください。


どういう風にしたらいいのかというと、簡単です。
たった一言
「許してください」こう言ったらいいんですよ。

「心から言えなくてもいいんでしょうか」
といえば、いいです。
心から言ったほうがいいですが、
心から言えないんだからいいでしょう。

なぜか?
言えないんだから、それは無理をすると、
ストレスがたまるんですよね。

(このことは、後で(次回)お父様のみ言を紹介します)


謝罪。
なんで許すのか、『あんたが謝るんだろう』
という思いがあるでしょう。

でも皆さん復帰原理をよく理解すると、
こういうことがない家庭もあります。

「あなたのご主人いいね、物腰柔らかで、言葉も柔らかで。
ウチなんか、今日こんなことがあったのよ」

「家の主人、全然そんな事言わない」と。
言わないは言わないで、またその家の中では、
別なものがあるのです。

ですから、もし自分が中心人物に立つのであれば、
「私にテーマがあってこれに出会っている」、
つまり「私の責任」です。

だって他の家庭にはなくて、自分の家庭にはあるわけですから、
それは皆さんがいつも良く言ってる
「意味があるよねえ」ということでしょう。


ですから、(ちょっと下の方ですね。この赤い人の方は)
「復帰原理を理解し
中心人物の自覚がある」

自分の罪として、理解する
何でかといえば、私が感じているからです。

そして、神様は順番にいろいろ教えてくれます、段階的に。
いっぺんに教えられると多分潰れてしまうと思います。
先祖数百代のものですから。

自分の血で流れてきたもの、
先祖解怨も、清平も、絶対必要です。
そしてそれをできる限り全てやる、
ということは、大切ではありますが。

生きている私が、成長して完成することによってしか…。
私たちの先祖も私たちの体を借りながら、
成長して完成していきます。

ですから、長生期完成級を成長するのは、
生きている地上の人間を通してですから、
先祖解怨して全部終わりではなくて、
私も成長していかないといけないわけです。


こちら(紫色の方)は、「み言がわからない人」の対応です。

私たちもこういう復帰原理がわからないと、
「み言がわからない人」の内容に加えて、
原理で裁いていくから
どんどん悪霊がついてくるわけです。

蝶野知徳・精誠篇1 
父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
このみ言は、2018年に蝶野部長が
広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られたものです。
(文責:ten1ko2)


「私」に起きている出来事は、すべて意味があり、
「私」の責任、として捉えることが大事なのだ、と思います。

一般的に見たら、夫に問題があるし、
夫を裁きたくなる、妻の気持ちもわかります。

しかし、「私」が中心人物であったら、
受け止める気持ちが変わってくるのではないでしょうか。

ヤコブがハランの地でラバンから試練を受けましたが、
10度騙されても甘受して乗り越えていきました。
そこでの信仰がエサウとの劇的な再会になり、
そこからイスラエルが始まりました。

与えられた環境、出来事をどのように受け止めるか、
とても重要なことだと思うのです。




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2022年02月06日

正論を言っても解決しない! まず湧いてくる「私の思い」を清算 《蝶野部長*精誠篇》F



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蝶野知徳(ちょうの とものり)本部家庭教育部長
「精誠篇(せいせいへん)」続きです。


「私たちは神様からの本性ではなく、
 ほとんど先祖の血で思い話している!」


というと、ちょっと暗くなる話ですが、
(創造)本性というのは、ほとんど使ってないのです。

ほとんど使ってないというのは、ちょっと語弊があるかもしれませんが、
それぐらい本性ってすごいんです、皆さん。

本性が出てきたら、皆さんはびっくりすることでしょう。
自分ってこんなにスゴいのかといって、
三日三晩ご飯も食べれないぐらい
号泣するというのです、自分がすごすぎて。

そしてその感謝を天に捧げることでしょう。
「神様、このように素晴らしい自分をありがとうございます」
と言って栄光在天するその日が、
個性完成の日だということです。

ご飯を食べられないくらい、自分が素晴らし過ぎて
慟哭して泣くというのです、
皆さん、どう思いますか。

神様が与えてくださった本性の素晴らしさというのは、
「犠牲になりたい」と言って、喉から血が出るほど叫んでいる。。。
そのように、良心の基準がそうだといいます。

(現在の自分からは)考えられない自分があるのです。
それ(本性)を使ったら、皆アボニムやオモニムのようになるでしょう。
イエス様のようになるでしょう。


(しかし、本性を発揮していない)ほとんどがこれです、皆さん。

「そこに原理とか正論を乗せても
 自分の思いが清算、蕩減されていない限り
 蕩減の関係も終わらない!」


教育上の、こういう講義ではいいのですが、
皆様の私生活において、
正しいことを自分の配偶者などに(言うことがあります。)
(例えば)夫婦のケンカではお互い、正論を言うでしょう。
どちらが正しいかで、ケンカします。

でも、自分の血統的な情で、
正しいことを言っても導かれません。

ところが私たちは、『自分の方が正しいので
導かれるべきだ』という思いがあるのです。
それは要求心であって、愛ではありません。
反対です。

ですから、私たちはまず、正しいことを言うという前に
この自分の思いを清算しないとダメなのです。

それなりに、一理あること言いますね、夫婦喧嘩では。
しかし、その思いが失敗しています。

それ(私の思い)で、話したり、行動したりすると、
自分からは、先祖の因縁が出てくるだけなのです。
神様ではない、先祖のものが出てくるということです。


ですから、「蕩減の観点や、神様の願いの観点などと
無関係に湧いてくる私の情や思い、これをどうするか?」

下のところね、「情」と「思い」というものが入ります。

この「情」と「思い」がわくのは、どうしようもありません。
で、み言を聞くと、『あーこれは堕落性だー、
我慢しないといけない』と。

そして、抑えます。
抑えると、どうなりますか?
やがては爆発するようになっているわけですね(笑)。

生ゴミもずっと出さないと?
夏場とか、ガスで膨らんできます(笑)。
膨張力を持つわけです。


それを清算できない、
自分が変われていない!

人を許せないことで悩んでいるように見えますが、
実際は違います。

み言を聞きながらも、許せていない自分に
落ち込むというのです。
食口の悩みは、そこだけなんですよ。

ですから、み言を聞いた人は、悩みが増えるわけです。

だから、「み言を聞いてそのみ言と一つならないと
ストレスが増えるよ」
と、お父様のみ言にもあります。

しかし、こうやって体を従えていくんだと、
うんとこしょ、どっこいしょとやる、
これが信仰だというふうに思って。。。
自分の霊性や、心霊が(どうでしょうか。)

だから、行動は聖人並みなのに、
内面はカインの情だということも多いのです。
ここは少し心配しないといけないのではないでしょうか。

蝶野知徳・精誠篇1 

父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
このみ言は、2018年に蝶野部長が
広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られたものです。
(文責:ten1ko2)


「本性ってすごい
自分ってこんなにスゴいのかといって、
三日三晩ご飯も食べれないぐらい
号泣する」

これは、お父様のみ言ではなく、
蝶野部長が感じられた世界だと思います。

蝶野部長は、ご自分の本性を
心から求め求めて、
精誠を尽くしていかれたのでしょう。

私の思いが
神様、父母様と一つになったら、
すなわち本性を中心としたものになれば、
どれだけ素晴らしいことでしょうか。

そのためのみ言の訓読であり、
祈祷であり、み旨の実践であり、
自己牧会プログラムである。。。

そんなことを思わされます。


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2022年02月03日

「お父様が青年になって一緒に暮らしてあげたい!」 日本の2世への遺言 《竹内大陸副会長》

「尋訪」は「神訪」!



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竹内啓晃大陸副会長のメッセージです。

今行われている「尋訪プロジェクト」について
また、真のお父様が日本の2世(中高生)に
直接語られた貴重なみ言が、掲載されています。


二世園復帰にかける天の願い

真の父母様の勝利の中で共に歩むことができる「今」を、
真のお母様は「摂理の春」「黄金期」とし、
私たちと共に六千年の神の復帰摂理に
終止符を打とうとされています。

お母様は誰よりも、その伝統が今こそ、
未来を担う二世・三世圏へと
相続されていくよう願われています。

真のお母様のそのような心情と
誰よりも一つになって歩まれる方相逸・大陸会長は、
就任当初から「全ての二世・三世が戻ってこられる
教会にならなければならない」と、
成和圏のリーダーたちを指導してこられました。

そして、今夏には全国を巡回しながら、
「二世圏復帰のために公職者たちが
立ち上がらなければならない」と訴えられたのです。


尋訪プロジェクト

現在、二世圏復帰のために本部と現場が
一丸となって取り進んでいるのが「尋訪プロジェクト」です。

日本人には、「尋訪」と言われても、なじみが薄いかもしれません。
その意味は「訪れて尋ねる」ということであり、
具体的には牧会者や教会スタッフが
所属信徒の家庭を訪問することを言います。

それは単なる家庭訪問ではありません。
韓国の教会では、「尋訪」を「神訪」とも表現します。
『人が人の家を訪ねる』のではなく、
『神が人を訪ねる』ことでもあるからです。

教会から足が遠のいた二世の親は、誰もが心を痛めています。
しかし、もっと心を痛めておられるのが、
親である天の父母様(神様)ではないでしょうか。

教会から離れている二世も、神様にとっては愛する子女です。
神様は切なる思いで、その二世たちに
愛を伝えたいと願われているに違いありません。

そのような天の父母様の思いを胸に、
牧会者や教会スタッフは皆様の子女を尋訪する準備をしています。

父母の皆様も、天と同じ思いを抱きながら、
できる限りの捧げて準備していただきたいと思います。

教会スタッフは、二世の子女たちを尋訪する前に、
その父母として面談して状況を確認し、
心を一つにして臨めるよう努めています。

父母の皆様も尋訪者と家庭や子女の事情をよく共有し、
祈りの基台を整えたうえで、
尋訪の日を迎えていただきたいと思います。

きっと大きな天の役事が起こると信じます。


真の父母を代身して愛する親となろう

真のお父様が晩年、韓国の天福宮教会で合唱を捧げた
日本の成和学生(中高生)に語られたみ言をご存じでしょうか。
未来を担う二世たちを見詰められる思いを
吐露されるように語りました。


「このような子女たちを見ると、
 私が青年になって、
 一緒に暮らしてあげたいのです。

 私が火のごとく燃え、狂ったように。
 この子女たちに、そのようなひとかけらの時間でも
 見せてあげられる時代を失ってしまった
 『恨』を抱いて生きていることを、
 皆さんは忘れないでください。

 あなたたちは何よりも貴いこの時代を
 喪失しないように努力しなければなりません。
 先生より、以上に。

 先生は、若い青年期をみんな失ってしまいました。
 もう若くもない。
 先も無いんですよ。

 そのような先生の立場から見れば、
 今から養育されるべき
 青少年たちが自分自身の・・・。

 どうか聴衆の皆さんは、
 このような若い子女たちを守ってくれる、
 神様に代わる父母になってください。

 (家庭が互いに)兄弟、親戚と
 なることを願いながら、
 きょうの祝いの一つの記憶として
 残るように祈りつつ...。

 では、一生懸命に勉強して!
 未来の希望が待っていますから」


(2010年3月7日、天福宮家庭教会)


未来を担う二世・三世たちは、天の父母様が六千年間、
待ち焦がれた息子・娘たちです。

真の父母様が愛してやまない子女であり、
私たちの祝福家庭の結実です。

どうか、二世圏復帰プロジェクトを、
単なる訪問活動、数的目標の測られるものと
捉えないように願います。

父母の愛が、水が流れるように
自然と子女たちに流れていく、
私たちの運動の『真の愛による内的刷新運動』
となるように願ってやみません。

世界家庭2021年10月号
『ぽちゃんぽちゃん石を投げよう
〜私から始まる真の愛の実践
拡がれ日本の隅々まで〜』
(※一部割愛しています)


今回の題目は、お母様が韓国童謡
『ぽちゃんぽちゃん』を元にみ言を語られ、
私たちの精誠と決断が、小川のほとりに波紋を及ぼすがごとく、
日本全体に影響を与えられるように願われたところから
つけられているそうです。

竹内副会長が紹介してくださっているお父様のみ言。
このみ言は、二世青年のために語られた
歴史的なみ言だと思います。

特に最後は日本語で語られていますので、
より心に深くしみ込んできます。
(上の写真は、実際に語られた時のものです)

本当に二世たちを我が子のごとく愛される、
お父様の痛切なる思いを
私たちがしっかりと受け止めていかねばと思います。

先日、太田洪量先生が父母向けのセミナーで、
「荒漠たるサタン世界で二世たちは一人で戦っている・・・
父母の皆さんが守らないでどうするんですか」
涙ながらに訴えておられました。

お父様のみ言も、
胸の奥に突き刺さるようです。
本当にそうです。
子供たちを守ってあげないと・・・

尋訪プロジェクトは、言われて動くものでなく、
本心の叫び、神様の懇切なる願いだと感じるのです。




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