2021年12月23日

(証し)「今日から僕が味方です」家族でボッチ信仰者だった父に 《方相逸大陸会長》



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先日、方相逸大陸会長が語られた証しを紹介しました。
今回は、二人目の証しになります。


独り信仰を貫く父の姿を見て
父の味方になろうと決意した二世

もう一つ、二十一日修練会の証しを紹介します。

この家庭は、六人の兄弟姉妹がいます。

上から三番目に当たる息子さんが今年三月に
二十一日修練会に参加したので(すが)
彼が修練会に参加する前は、
お父さんだけが教会に熱心に通っていて、
お母さんと子供六人は事実上、教会とは距離を置いていました。

そのような中で彼が二十一日修錬会に
参加したきっかけは、実に不思議なことでした。


昨年、いちばん上のお姉さんが一般の男性を家に連れてきて、
「彼と結婚をしたい」と家族に紹介したとき、
お父さんだけが強く反対したのです。

このとき、お父さんは、子供たちに
祝福二世の価値を訴え、説明しました。
ところが、お父さん以外は全員がお姉さんに同調したのです。

それを見て、彼は、「お父さんがかわいそうだ。
なぜ、 こんなに家族の中で孤立してまで信仰を貫くのだろう。
自分くらいはお父さんの味方になってあげたい」
と思ったというのです。


彼は、二十一日修練会で初めて「原理」を聴くような立場でしたが、
修錬会では一つ一つに精誠を尽くしました。

そして、修錬会を終え、
「ようやくお父さんの気持ちが分かるようになった。
今後はお父さんの味方になり、
お母さんと兄弟たちを全員、復帰する」と言って、
帰っていったのです。

家に帰って彼は、その決意をお父さんに伝え、
「教会の寮に入りたい」と話したそうです。
お父さんはとても喜びました。


お父さんは、彼が二十一日修練会に出て精誠を尽くしているときが
チャンスだと思い、何とか長女と向き合いました。

そして、長女は家に連れてきた男性と別れる決意をし、
教会で「原理」を勉強し始め、
祝福に向けて準備を始めていたのです。

お父さんは、後に
「お母さんと二人のお姉ちゃんは自分が何とかするから、
下の妹二人と弟一人は、おまえが一緒に導いてくれ」
と話しました。

彼は決意し、四月上旬に妹二人と弟一人に
それぞれ働きかけました。
そのうち二人が話に相対してくれ、一緒に
教会に行くことができ、教会につながり始めています。

お母さんはもともとはみ言が分かっていますから、
息子から言われる次の日曜日から教会に行くようになりました。


み言は、このように偉大なものです。

私たちが友達や親戚とつきあって、何十年間、
いくら自分なりに話をしても通じません。

しかし、一週間でも修練会に参加して
真の父母様のみ言を学んだ人は、すぐ私たちに
「ありがとうございます」と頭を下げるのです。

神様のみ言、メシヤのみ言が人を変えるのです。



こういうのを「一点突破、全面展開」というのでしょうか。。
息子さん(長男)が、み言に相対したのをきっかけに、
お母さんとほかの兄妹たちもみんな変わっていきました。

やっぱり、一人一人の心には、
「本心」があるのだと思います。

その本心にみ言が響く「時」があるのでしょう。
だから、ただそのための精誠条件が必要なのです。
それが、父母の精誠であり、み言であるのだと思わされます。。。





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2021年12月14日

(証し)「明日死ぬかもしれない」母の最後の願いで、21修に参加した息子は・・・



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21修でメッセージを語る方大陸会長


世界家庭に開催された方相逸大陸会長のみ言より、
「二十一日修練会で完全に生まれ変わった子女」という小題の、
証し部分のみ抜粋して紹介いたします。


証しを一つ紹介します。
大阪に六五〇〇双の日韓家庭の
ある韓国婦人がいます。

家庭を出発して最初に女の子が産まれ、
次に男の子がおなかの中にいるとき、
日本人のご主人ががんで聖和しました。

それは家庭を持って四年くらいしか
たっていない頃だったでしょうか。

しゅうとは、息子が死んだのは嫁のせいだと考え、
「もう、あなたを見たくない。
韓国に帰りなさい」と言いながら、
男の子を身ごもっていたこの婦人を殴ったそうです。

しゅうとから見れば、息子が若くして亡くなったということで、
それは悔しかったことでしょう。

ですからこの韓国婦人は、しゅうとと、
とても仲が悪かったそうです。


しかし、「天の祝福を受けて日本に嫁いだ限りは
絶対にこの家を守るんだ」という思いで、十年、二十年と我慢し、
日本に来て二十七年間、本当に苦労しました。

この韓国婦人は、ここに集っている公職者の皆さんに
負けないくらい篤い信仰を持った方です。

お母さんのそのような天に対するりっぱな信仰を見て育った娘さんは、
ずっと教会に通い続け、祝福を受けました。
そして、三世を生みました。
とても素晴らしいことです。


ところが、息子さんは、自分のお父さんの顔も知らず、
寂しい気持ちで成長しました。

中学まではお母さんとお姉さんと一緒に教会に通ったのですが、
それ以降は行かなくなりました。
家でゲームはばかりしていたといいます。

さまざまなことがあり、お母さんは、
あまりにもこの息子のことを心配して体を壊し、
もう霊界に行くのではないかというところまでいったそうです。

これは、何年も前の話ではなく、先月のことです。

それで息子に対して「私は明日、霊界に行くかもしれない。
最後のお願いだから、(千葉中央修練所で行われている)
孝情天寶二十一日修練会に参加して、み言を学びなさい」
と言ったのです。

息子は、霊界に行ってしまいそうなお母さんの最後の願いなので、
修練会に参加しました。


私は、この青年が参加している二十一日修験会の
十五日目に講話をしに行きました。

そしてそこで、
「初めてみ言を聴いた人、手を挙げてください」
と修練生たちに尋ねました。

すると、四人が手を挙げたのです。
普通、二十一日修練会 は、七日修練会に出るなど、
現場である程度み言を学んでから参加するものです。
ところが、この四人は、それを飛び越えて参加していたのです。

私は、その四人に、「きょうは修練会の十五日目ですが、
ここまでみ言を学んでみてどうでしたか。」
と、順番に感想を聞きました。

すると、最初の三人は、「来てよかったです」
「こんなに素晴らしいとは知りませんでした」
「感動しました」などと答えていました。

そして、最後の一人が、この日韓家庭の息子さんでした。
彼が何と答えのたかというと、
「今回の修練会は、私のために準備されたものです」
と言うのです。


続けて私は、この四人に、
「修練会が終わったら、皆さんの周りにいる
教会に来ていない二世を三人
連れてきてください」と話しました。

すると、彼らのうちの三人は、
それほど決意していないような感じで、
軽く「はい」と返事をする程度だったのですが、
四番目の彼は, 「はい!絶対にやります!」
としっかりと返事をしてくれたのです。


一昨日、聞いたのですが、彼は二十一日修練会終わって家に帰ると、
「お母さん、本当にありがとうございました。
二十一日修練会に行って多くのことを学びました。
お母さんがどれほど偉大な人なのか、今回初めて分かりました」
と言ったそうです。

お母さんは、その場で泣き崩れました。
どれほど、うれしかったことでしょうか。


そして、息子さんが、
「お母さん、僕は二十一日断食をします」
と言ってきたというのです。

二十一日断食は誰でもできるものではないから、やめなさいと言うと、
息子さんは「大丈夫です。
決意はしました」と言いました。

それでその決意で一週間だけ断食をするように言ったのです。
今頃、一週間断食を始めていると思います。


さらに、彼は、なんと机の上にあったコンピュータを捨てました。

彼は「このコンピュータが今までの自分の敵で、
悪なる自分をつくりました。
このコンピュータは要りません」というのです。
なかなか、固い決意です。

今、彼は、朝六時に率先して起きて、 訓読会をし、
夜十一時になると一日をまとめる祈祷会をしようと
お母さんに言うそうです。

なぜなら、二十一日修練会で、朝六時に訓読会をし、
夜十一時に祈祷会をしたからです。

お母さんは毎日、 訓読会のときも祈祷会のときも隣に座りながら、
ずっと感謝と喜びの涙が止まらないそうです。


このように彼を変えたのは、み言です。
み言は命です。

聖書にも、「初めに言があった。
言は神と共にあった」(ヨ ハネ一・1)とあります。

み言を知らずに、いくら二世を教会に連れていって
説教を聞かせても、なかなか感動はしません。
ただ話をしても、人は変わりません。

人を生かすのは天の父母様(神様) のみ言なのです。

世界家庭8月号
「すべての二世を訪ねていきましょう!」
7・7南東京教区出発式でのみ言


本当に素晴らしい証しです。

お母さんは、息子さんを活かすため、
どれほど切実だったでしょうか。

その思いが「病気」という形で
現れるくらいに切実だったのかもしれません。

息子さんは、み言で見事に生まれ変わりました。
私が思うに、祝福の子女たちは、
み言にスパークする素地があるのだと思います。

そして、何よりもお母さんの精誠です。
見事に生まれ変わったのは、
それ相応の条件があった、ということだと思います。

尋訪プロジェクトを通じて、天運の中で、
子女を教会に連結する道が、
開かれていることを感じます。




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2021年08月21日

家庭の雰囲気がガラッと変わる、言葉の使い方 「言葉=愛」だった! 《蝶野部長》



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蝶野部長の〜孝情を育む〜教育エッセーより、
「言葉は愛のためにある」です。


愛を伝えるためにあるもの

夫が妻に、妻が夫に語りかける言葉を子女は聞いており、
語る人の気持ちを感じ取っています。

何を話しているかという言葉の内容の前に、
言葉を発しているその人の気持ちが先に伝わっています。

神様は言葉というものを何のために考えられたかといえば、
“愛のため”に考えられました。
愛するためにあるのであり、愛を伝えるためにあるものなのです。

ふだん使っている家族への言葉が、
ただ物事を伝えるだけの言葉になっていないかを
確認することが大切です。


家族に、夕飯ができたので「ご飯できたよ」と伝えるとします。

この時に、“ご飯ができたという事実”だけを
伝えるのではないということです。
そう伝えながらも、本当は食べる人を「愛したくて」
という思いを伝えなければならないのです。

「あなたの健康と喜びを思って(少ない予算の中で申し訳ないけれど)
心を込めて作りました」と。
配偶者や子女を、食事をもって
“愛したい心”で、「ご飯できたよ」というのです。

このように一つ一つの言葉に愛を込めて発していくならば、
聞く側の心も、その愛を敏感に感じるようになります。
ただ生活のための情報を伝えるだけではないのです。

家庭の雰囲気に影響する言葉の使い方

全ての言葉に愛を込めるならば、積み重ねられた言葉は、
受ける側にとって大きな力となり、愛になるのです。

語りかける側が、愛したくて言葉を発しているのであれば、
すでに語っている私自身の心がうれしくなっているということです。
語る側も、受ける側も、愛のために心が開くようになっています。

家族であれば、足音を聞いただけで、その人の心や、
機嫌が分かるという話があるように、
人間は常に外的なものから内的なものを、
自然に感じ取ってしまっているのです。

家族という関係性を考えるとき、生活の中での
ふだんの言葉の使い方が大きい影響力を持ちます。
交わされる言葉によって、家庭の雰囲気は、変わってしまいます。

言葉の内容や外的な手段だけでは限界があった、
人間関係の根底の部分に影響を与える要素となるのです。

言葉自体を、そもそも神様が何のためにつくられたのか
というところまで遡(さかのぼ)って考え、
ふだんの言葉の扱いを大切にしていくべきです。

そうすることで、例えば「愛している」という言葉でさえも、
その言葉だけに依存せず、本当に愛しているという心が
自然に伝わるような関係をつくりあげていきたいと思うのです。

孝情を育む 13
「言葉は愛のためにある」
家庭教育部長 蝶野知徳


我が家でも、子供たちに、呼びかけます。
「御飯できたよ」

今までは、2階に直接呼びかけると
みんなすぐに降りてきましたが、
今はスマホを見ていたり、ゲームをしていたり。。。

なので、年上の子供に電話をして、
バイトや仕事で家にいない子以外、
全員声をかけてもらっています。

「愛をもって・・・」
と言われると、どうでしょうか。。。

言葉に愛を感じれば、
人は寄ってくるといいますから、
子どもたちもそうかもしれません。

時代が変わったと嘆いたり、
声を掛けてもなかなか来ない子どもたちを
非難する思いがあったのですが、
親としても、面倒くさがらずに、
直接、2階に上がって【愛をもって】呼びかける、
そんな心の姿勢があってもいいのではないか、
そう思わされました。





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