2021年08月21日

家庭の雰囲気がガラッと変わる、言葉の使い方 「言葉=愛」だった! 《蝶野部長》



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蝶野部長の〜孝情を育む〜教育エッセーより、
「言葉は愛のためにある」です。


愛を伝えるためにあるもの

夫が妻に、妻が夫に語りかける言葉を子女は聞いており、
語る人の気持ちを感じ取っています。

何を話しているかという言葉の内容の前に、
言葉を発しているその人の気持ちが先に伝わっています。

神様は言葉というものを何のために考えられたかといえば、
“愛のため”に考えられました。
愛するためにあるのであり、愛を伝えるためにあるものなのです。

ふだん使っている家族への言葉が、
ただ物事を伝えるだけの言葉になっていないかを
確認することが大切です。


家族に、夕飯ができたので「ご飯できたよ」と伝えるとします。

この時に、“ご飯ができたという事実”だけを
伝えるのではないということです。
そう伝えながらも、本当は食べる人を「愛したくて」
という思いを伝えなければならないのです。

「あなたの健康と喜びを思って(少ない予算の中で申し訳ないけれど)
心を込めて作りました」と。
配偶者や子女を、食事をもって
“愛したい心”で、「ご飯できたよ」というのです。

このように一つ一つの言葉に愛を込めて発していくならば、
聞く側の心も、その愛を敏感に感じるようになります。
ただ生活のための情報を伝えるだけではないのです。

家庭の雰囲気に影響する言葉の使い方

全ての言葉に愛を込めるならば、積み重ねられた言葉は、
受ける側にとって大きな力となり、愛になるのです。

語りかける側が、愛したくて言葉を発しているのであれば、
すでに語っている私自身の心がうれしくなっているということです。
語る側も、受ける側も、愛のために心が開くようになっています。

家族であれば、足音を聞いただけで、その人の心や、
機嫌が分かるという話があるように、
人間は常に外的なものから内的なものを、
自然に感じ取ってしまっているのです。

家族という関係性を考えるとき、生活の中での
ふだんの言葉の使い方が大きい影響力を持ちます。
交わされる言葉によって、家庭の雰囲気は、変わってしまいます。

言葉の内容や外的な手段だけでは限界があった、
人間関係の根底の部分に影響を与える要素となるのです。

言葉自体を、そもそも神様が何のためにつくられたのか
というところまで遡(さかのぼ)って考え、
ふだんの言葉の扱いを大切にしていくべきです。

そうすることで、例えば「愛している」という言葉でさえも、
その言葉だけに依存せず、本当に愛しているという心が
自然に伝わるような関係をつくりあげていきたいと思うのです。

孝情を育む 13
「言葉は愛のためにある」
家庭教育部長 蝶野知徳


我が家でも、子供たちに、呼びかけます。
「御飯できたよ」

今までは、2階に直接呼びかけると
みんなすぐに降りてきましたが、
今はスマホを見ていたり、ゲームをしていたり。。。

なので、年上の子供に電話をして、
バイトや仕事で家にいない子以外、
全員声をかけてもらっています。

「愛をもって・・・」
と言われると、どうでしょうか。。。

言葉に愛を感じれば、
人は寄ってくるといいますから、
子どもたちもそうかもしれません。

時代が変わったと嘆いたり、
声を掛けてもなかなか来ない子どもたちを
非難する思いがあったのですが、
親としても、面倒くさがらずに、
直接、2階に上がって【愛をもって】呼びかける、
そんな心の姿勢があってもいいのではないか、
そう思わされました。





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2021年08月03日

誤解が誤解を生むこともある親子関係・・・絶対に子が変わる㊙の祈り 《蝶野部長》



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蝶野知徳・家庭教育部長による子育てについてのエッセーより、
「秘密の愛の祈り」をお伝えします。


  誤解が誤解を生む

子女の心に通じたいという心は、親であれば誰にでもあるものです。
愛が必要だという前に愛したい心が先にあり、
子女からも美が返ってくれば、さらに父母の情が強く子女に向かうものです。

しかし、思うようにいかない時、愛(いと)おしさよりも
いらだちや感情が出てきてしまうことは、
子女を育む過程において誰でも体験することだと思います。

そんな時、み言(ことば)や育児書を通して、
親としての不足を感じて、愛してあげたいという心を
高められる場合は問題ありません。

しかし、反対に自分を責めて気を落として
消極的な接し方になったりすると、その姿を見て、
子女は、「親は自分を愛していないのではないか」
と感じてしまうことがあります。

そうなると子女は親から愛を受けるということに対して
気を遣い、遠慮がちになってしまうことがあります。

そんな子女の様子を見ながら、
「この子はあまり手をかけなくても大丈夫そうだ」と
親が判断してしまったとしたら、
誤解が誤解を生んでしまっていると言えるのです。

基本的に親次第なのです。
愛が嫌いな子女も、親が嫌いな子女も本当はいないのです。

そう見えるとしたら子女が親に不必要な気を遣っているなど、
誤解があるのだと思います。

このようなことは教科書的には誰でも分かるのですが、
問題の起点は何かというと、いつも、
“親自身の心が純粋に開かれていない”ことなのです。
子女ではありません。


  必ず子女に変化が現れる祈りの方法

子女について思い煩う親でも、心だけで子女を思う時には、
冷静にみ言で整理しながら、今度こそ
真実の心だけ見て愛してゆこうと、決意できることもあるでしょう。

そのような内的な基準を利用して、親自身の心を開きつつ、
霊的に子女を愛してゆく祈りの方法を紹介したいと思います。
この祈りは、必ず具体的な恩恵があります。

子女が寝静まった後、子女の傍らで子女の寝顔を見ながら、
その心に向かって祈るのです。

「〇〇君、生まれてきてくれてありがとう」
「愛しているよ」と、
心の中で、その“言葉どおりの思い”で
心ゆくまで語りかけるのです。
ただそれだけです。

霊的な方法ですが、毎日続けてゆくと、
必ず子女に変化が訪れます。

祈る親の心と子女の心とは相対的な関係なのです。
親子で授受作用を深めてゆく場面も与えられるので、
その契機を生かしていただきたいと思います。

『ムーンワールド』で連載中

孝情を育む 12
「秘密の愛の祈り」
家庭教育部長 蝶野知徳

(blessed lifeより)


「子女に変化が現れる祈りの方法」
蝶野部長、ありがとうございます。

親が子供に祈っている姿に、
神様も感動して、何か協助したくてたまらない、
そんな思いになるのではないか、と思います。

具体的な証しでもあったと思うし、
蝶野部長ご自身も実践されたのかもしれません。

今、二世復帰が願われており、
韓国のキリスト教牧師が実践している
尋訪(シンバン)(訪問すること)
を日本でも取り組んでいくように願われています。

家庭連合全体でも二世のことを意識している中ですから、
親自体がもっと積極的にならなければ、と思います。





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2021年07月14日

子どもを信じていますか?! 子の本性(ほんせい)を信じると・・ 《蝶野部長》



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蝶野家庭教育部長による子育てエッセー
今回は、「待っている子女」です。


  親の愛を通して確かめる

自身の存在の根拠が愛であったという体験を通して、
人は生きる力を得るようになっています。

信仰の道においても、神様の愛を確認できた時、
信仰の力がみなぎってくるのと同じように、
子女も自分が愛によって生まれ、愛によって存在している
ということを、親を通して確かめたいと願っています。

親に捨てられ孤児院で育てられたという子でさえも、
「親が自分を手放したのは、そうせざるをえなかった
難しい理由があるに違いない」と、そして
「時が来れば、両親が愛の涙で迎えにきてくれるかもしれない」
と、親の愛を信じたい心を持っているといいます。


  親を信じている子女の愛

親の愛の基準がどのようなものであったとしても、
子女はすでに親の愛を信じています。
生まれながらに、親を信じるという
愛を持って生まれているのです。

信じている心が先にあるのです。
これも神様が本来子女自身に与えてくださっている
「子女の愛」なのです。

しかし、親から愛の投入が途絶えていて、
愛を確認できないと感じる時には、
子女自身の内面にある「親を信じている心」を
裏切ってしまうことになります。

ですから、それが原因となって心を閉ざしてしまうことや、
反発することもありますが、
そのような子女の不安や痛みは、もともとは
「親を信じていた子女の愛」からくるものなのです。

親が子女を愛し、信じているのだという話はよく聞きますが、
子女も親を信じているのです。
それは神様がお創りになった子女の愛というものを
信頼することでもあるのです。

そうすれば、いかに難しく見えるときでも、
子女に対し、どこまでも信じてあげながら、
真実の心を変えないで対することができます。

本性を信じてこそ、愛も復帰されます。

子女は愛を確認できれば、同じ基準のものは
二度と求めないようになっています。

それは、子女自身も完成しなければならないという目的性の中で、
段階的に成長を遂げるようになっているからです。

本性の要求しているものと、自分自身が体験したことが合うと、
納得して、自ら次の段階に進んで上がっていくように
なっているので、親である私たちは、
「子女の愛」を信じ、今見えるものの中から、
子女の本性が求めているものに関心を持って、
それと関係を結ぼうとすることが大切です。

『ムーンワールド』で連載中

孝情を育む 9
「待っている子女」
家庭教育部長 蝶野知徳
(Blessed Lifeより)


子女も親を信じている、
親を信じている心がある、
そうなんですよね。。。

親としては当然、子女を愛しているのですが、
その愛が子女に届いていなくて、
それでもずっと信じて待ってくれている
ということにあまり気づきません。

うまく表現できないのですが、
子どもが親を信じてくれているわけなので、
さらに愛していきたいし、
あきらめることなく、信じ続けていきたい
そう思わされます。

また、私たちも親なる神様に対して、
絶対に信じていかなければ、と思います。

神様は必ず愛してくださっています。
たとえ今は感じなかったとしても、
実感できる時が必ずやってきますので、
信じ続けていきましょう。






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