2023年05月23日

アボジとオモニのネット中継通話、そのきっかけとなったのは 《真のお母様の人生*鄭元周秘書室長》



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鄭元周秘書室長の「真のお母様の人生」8
今回は、『アラスカのお父様が電話で
お母様の講演をお聞きになる』です。


【日本巡回】
アラスカのお父様が電話でお母様の講演をお聞きになる

真の父母様の摂理の中で、世界を
巡回しながら行われた講演会ほど
苦労の伴うものはありませんでしたが、
同時に最も偉大な業績であり、
摂理発展の歴史であるといえます。

1990年以前の世界巡回では、主にお父様が
み言を語られ、お母様はそこに同行されました。

お父様は、夕方の時間に国家的指導者に向けて
講演され、食口(シック/家庭連合の教会員)たちには
夜の集会を通してみ言を下さいました。

1991年9月、アラスカでお父様が突然、
お母様の日本4か都市巡回講演(信徒大会)を
決定なさったとき、準備期間は
1週間しかありませんでした。

お母様のご講演は、それ以前の
1980年代にもありましたが、
お一人での巡回講演はこのときが初めてでした。

お母様は、横で拝見しているのが
痛々しいほど必死に準備なさいました。


9月14日、お父様の熱い愛を受けながら、
お母様は孝進(ヒョウジン)様と共に
アラスカを出発し、日本に到着されました。

東京の本部で食口の歓迎をお受けになりながらも、
お父様の日本入国が許されていないことを
思われてか、お母様は
非常に複雑な心情であられたと思います。

食口の前では慈愛に満ちたほほえみで、
お父様の愛とともにみ言を下さるお母様でしたが、
寝室に入られた後は、ベッドに腰掛けて
静かに祈りながら、人知れず涙を流されました。

そのお姿を拝見したとき、私は、
責任を果たせず父母様の心を痛めてしまった
不孝に対して、胸がつぶれるようでした。

 
でも、しばらくしてお父様に電話されるときは、
明るく語られました。

「お父様、日本に無事到着して、食口に話をしてきました。
一緒に来られたらどれほど良かったか……」。

そして愛に満ちた美しいお声で、
「海に出るときは、服をしっかりと
お召しになってくださいね。
お父様、愛しています」と言われ、
電話を切られるのでした。


そのときは、お母様の初めての巡回講演ということで、
お父様はひたすら講演の時間を待ちながら、
そわそわなさっていたそうです。

当時は、電話中継や映像中継など、
誰も考えることもできませんでした。

ご講演の時間となってお母様が登壇されたとき、
アラスカのお父様から当時の会長の
携帯電話に電話がかかってきました。

どうやら携帯電話を通して音声を
送ってさしあげることになったようで、
携帯電話が大型スピーカーの前に置かれました。

「お父様、お母様のお声がよく聞こえますか」と
お尋ねすると、お父様は非常に喜ばれ、
1時間ほどのお母様の講演(韓国語の講演の後、
朴普熙〈パク・ポーヒ〉会長の通訳が続く)を
全てお聞きになりました。

講演を終えて壇上から降りてこられたお母様は、
お父様が最初から最後まで電話を通して
講演を聞かれたことを知って、大変喜ばれました。

この時に始まった歴史的な電話中継が、
今日の映像中継に受け継がれているのです。

 
その後、本部に戻り、指導者たちから
感想をお聞きになったお母様は、
不足な点があれば鋭く指摘なさり、
食口の苦労した点については
称賛と激励を惜しまれませんでした。

お母様の濃(こま)やかで深い愛を近くで感じると、
食口はさらに一生懸命に頑張らなければ
という決心と覚悟を持つようになるのです。

1992年9月から10月にかけて行われた、
2回目となるお母様の日本巡回講演(7か都市)も
アラスカで突然決まりました。
しかも、日本語で講演なさることになったのです。

普段からお使いになっているわけでもない日本語で、
そのうえ東京ドームのような大きな会場で
講演をしようというのですから、
その準備はどれほど大変だったことでしょうか。

鄭元周(チョン・ウォンヂュ)総裁秘書室長
「韓鶴子総裁還暦記念文集」第2巻に掲載(2003年)
(『TODAY'S WORLD JAPAN』2014年1月号
「証し お父様、子女様、統一家食口のために
歩んでこられたお母様の人生〈後編〉」より)

真のお母様の人生 8
アラスカのお父様が電話でお母様の講演をお聞きになる
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=19587
(Blessed Lifeより)
わかりやすく読んでいただくため、
行区切りや段落等の区切りを再編集しました
さらに括弧書きで注釈を加えたり、
プライバシーに関わる部分は省略等することがあります
文責:ten1ko2


ご自身の準備で精一杯でありながらも、
お父様には、ご心配をかけまいと、
明るく、慰労の言葉をかけられるお母様。。。

お母様の巡回公演のエピソードですが、
本当にお母様の愛の器を感じさせられます。

東京大会に向けてのエピソードは
これまでも様々聞いたことがあることでしょう。

摂理の発展は、「世界巡回」を通して、
成されていった、と秘書室長は語られますが、
もう一つは、「祝福」を通して
摂理が進展していきました。

いずれにしても、歴史を塗り替える
世界的な摂理の一つひとつ、
その背後には、どれだけの父母様の精誠があるのか、
その精誠があったから、成し得たことだったのだ
と、改めて思うのです。




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2023年05月13日

初めての訓読会は、パラグアイ川の狭い船の上だった! 《真のお母様の人生*鄭元周秘書室長》



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▲パラグアイ川を船で踏査される真の父母様
(1997年9月=U-ONE TVから)


鄭元周(チョン・ウォンヂュ)総裁秘書室長の
「真のお母様の人生」よりパンタナールの証し、
「パラグアイ川踏査の船上で
訓読会の伝統が出発」です。

【パンタナール】
パラグアイ川踏査の船上で訓読会の伝統が出発


1997年9月21日、パンタナール
(ブラジル、ボリビア、パラグアイにまたがる熱帯性の湿地帯)開拓のため、
ブラジルのカセレス(Caceres)のホテルに到着しました。
ホテルとは名ばかりの、粗末な宿でした。

その日は、翌日から始まる歴史的な
パラグアイ川踏査のための準備をする日でした。

準備の実質的な責任者はお母様です。
お父様がお使いになる物、召し上がる物、
常備薬など、全て準備なさるのです。

お母様はいつでもどんなときでも合理的に
仕事をなさり、整理整頓も完璧です。

ですから、私だったらたとえメモをしておいても
まともにできないような煩雑な仕事を、
お母様はほとんど自動的にこなしていかれるのです。

船の中はあまりにも狭く、その狭い空間の中で
全てのことをしなければなりません。

お母様は、お父様がお部屋のどこに座って勉強をされ、
トイレはどのように使われ、ということを
一つ一つ考えながら、お父様が
少しでも楽に生活できるよう準備なさいました。


翌22日からいよいよ、パラグアイ川の
最上流にあるカセレスを起点に、
パラグアイ川の踏査が始まりました。

早朝、船が出発すると同時に、
甲板や船室で訓読会が行われました。

蚊とウシバエに体のあちこちを刺されながら、
その日から1日に12時間ずつの訓読会が始まったのです。


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▲船上で行われた訓読会(1997年9月=U-ONE TVから)

踏査では、50キロメートル地点ごとに
杭を打つ作業が行われました。

真の父母様は船から下りて、虫に刺されながら
密林に分け入り、ご自身で杭を打たれました。

そして「ここは私の土地である」と宣言なさり、
写真を撮って万歳を叫ばれるのです。


この期間、羽アリのような虫が
父母様を苦しめました。

船内の床はその虫から落ちた羽が積もり、
ドアの開閉もできないほどになりました。

体を洗うのも狭い船内でしなければなりませんでした。
浄水した川の水を使うのですが、
船の設備からいって完璧な浄水は不可能でした。
ましてや、お湯などは想像だにできませんでした。


ある日、お母様が冷たい水で体を洗った後、
このように語られました。

「食口(シック/家庭連合の教会員)たちは、私が
13人の子供を生んだと思っているけれど、
実際は14人生んだのよ。

統一教会の人たちのために、
私は死ぬ覚悟をして多くの子供を生んだの。

五男と六男の間が5年離れているけれど、
その期間、3、4回、自然流産をしたの。
それは1971年から1975年までの、
お父様がアメリカに来られて最も困難な時期だった。

当時、12歳だった孝進(ヒョウジン)が
お父様を狙う人々に気づいて、
『母さん、僕があいつらを懲らしめてやろうか』
と言うほど、お父様の身辺は危うい状態にあったの。

そのような中、緊張しながらお父様に
侍っていたので、流産せざるをえなかったのよ」

そして、「そのなごりで、今も冷たい水で
シャワーを浴びると悪寒がして、
5分くらい動くことができないのよ」とおっしゃったのです。


そのようにして踏査期間を過ごされたお母様でした。

毎日薬を飲みながらも、そんなそぶりもされず、
常にお父様を喜ばせ、
安らかにしてさしあげようとなさる
お母様の精誠は最後まで変わらなかったのです。

鄭元周(チョン・ウォンヂュ)総裁秘書室長
「韓鶴子総裁還暦記念文集」第2巻に掲載(2003年)
(『TODAY'S WORLD JAPAN』2014年1月号
「証し お父様、子女様、統一家食口のために
歩んでこられたお母様の人生〈後編〉」より)

真のお母様の人生 7
お父様、子女様、統一家食口のために歩んでこられたお母様の人生
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=19500
(Blessed Lifeより)
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真夏でも、冷水でシャワーを浴びれば
悪寒が止まらない。。。
胸痛い流産のことを
きっと、つらい船上生活をともに過ごす食口たちだから、
証してくださったのでしょう。

そんなお母様が、今も、最前線で歩まれているということが、
本当に奇跡的なことであり、
どれほど大変なことでしょうか。。。

常に前を向いて歩まれるお母様に
心からの敬意と感謝の思いでいっぱいです。

ありがとうございます。
愛しています。




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2023年05月04日

金日成との歴史的対談・エサウとヤコブの和解 極秘旅程の裏話2 《鄭元周秘書室長》



230504-1991.1206.jpg▲金日成主席(当時)との歴史的な会談を終えられた真の父母様。
後列右から2人目が鄭元周補佐官
(1991年12月6日、咸興の金日成主席公館)


鄭元周(チョン・ウォンヂュ)秘書室長の証し
前回の続きになります。


12月5日、咸鏡南道(ハㇺギョンナㇺド)の咸興(ハㇺフン)招待所に行きました。
咸興は、お父様が興南(フンナㇺ)に行く前におられた所でもあります。
闇が深くなり始める頃、咸興招待所に到着し、旅の荷をほどきました。
翌6日、いよいよ金日成主席に会うために、
麻田(マジョン)にある主席公館に向かいました。
公館は白い石造りの館で、四角形に造られていました。
金日成主席が立って父母様を待っていました。
その瞬間、「赤い魁首(かいしゅ)、金日成を打倒しよう」
と叫んだ学生時代の雄弁大会の光景が思い浮かびました。

会うや否や、お二人は互いに抱き合われました。
挨拶を交わし、写真撮影を終えてから、
晩餐(ばんさん)会場に向かわれました。


メニューは非常に豪華でした。
食事は一人分ずつ用意されました。
北朝鮮では7日間で21回食事をしたのですが、
一度も同じものを食べることはありませんでした。
毎回、違う食事が出てきたのです。
まず、ご飯の種類が多彩でした。
21食のうち、同じご飯が出てきたことは一度もありませんでした。
お父様に、「どうしてこんなにいろいろなご飯があるのでしょう」
とお尋ねしたところ、
お父様は「北朝鮮には300種類を超えるご飯がある」と語られました。
王宮法によれば、ご飯の種類だけでも
332種類になるというみ言が改めて思い出されました。

餅(もち)も毎食、違う種類が出されたのですが、
中でも、見た目がカステラのようなかぼちゃの餅が非常においしくて、
その味は今も忘れることができません。


金日成主席との会食は、とても和気藹々(わきあいあい)とした雰囲気でした。
金日成主席はお父様を非常によくもてなし、心から尊敬の意を表しました。
金日成主席は凍ったジャガイモで作った荏胡麻(えごま)そばについて、
「文総裁ご夫妻のために特別に注文しました」と説明しました。
金日成主席が「5月に妙香山(ミョヒャンサン)へ遊びに行き、
そこで狩りを一緒にしましょう」と誘うと、
お父様は「アラスカで釣りを一緒にしましょう」と招待されました。


お二人はジュースの味がするクロマメノキ酒で乾杯をなさいました。
その杯は小さなものですが、
それを持っていれば、金日成主席と乾杯したという証しとして、
死刑に値するような罪も赦(ゆる)されるほどの権威があるのだそうです。

お父様と金日成主席はお互いに、
自然な形でメニュー表にサインをなさいました。
お父様は金日成主席に、金日成主席はお父様にサインをしました。
お二人は、随行員にも一緒にサインをしてくださいました。
メニューが書いてある面には金日成主席が、
その裏面の白紙にはお父様がサインをなさったのです。


お母様はこの期間も終始、優雅で堂々としていらっしゃいました。
北朝鮮では、夫人は家にいるだけの存在であり、
外部の行事には現れないのが原則のようでした。
夫人は絶対に夫と並んで歩くことはできず、
常に夫の何歩か後ろを歩かなければならないのです。
そのため、いつも案内員がお母様を制して、お父様との間に立つのでした。
それでもお父様は、常にお母様の手を握って歩かれました。
お母様に対するお父様の配慮は素晴らしいものでした。

鄭元周(チョン・ウォンヂュ)総裁秘書室長
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「証し お父様、子女様、統一家食口のために
歩んでこられたお母様の人生〈前編〉」より)

真のお母様の人生 5
お父様、子女様、統一家食口のために歩んでこられたお母様の人生
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=19307
(Blessed Lifeより)


お互い笑顔で抱き合った、とか、
狩りや釣りを誘い合ったことなど、
大体聞いたことはあります。

それでも、お母さまと手を繋がれて歩かれた」
この件は、お母さまを心から愛し、
天の基準を絶対的に立てられる、
お父様の愛の姿を感じることができます。

また、「7日間で21回食事に毎回、違う食事が出てきた」
というのも、初めて聞きました。

本当に金日成主席が
真のお父様を心からもてなした。
という表れなのだと思います。

このような食事を召し上がられながら、
真の父母様は、貧しい北朝鮮の人たちに
「開放していかなければならない」
という思いを一層強くされていかれたに違いない、
そのように感じるのです。

秘書室長、貴重な証しありがとうございました。


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