2024年04月08日

(証し)神童が再臨主に出会った経緯とその後 《真理の代弁者・劉孝元先生》



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劉孝元(ユ・ヒョウウォン)先生が、
教会に導かれた時の証しを紹介します。


1970 年聖和された劉孝元(ユ・ヒョウウォン)先生の証しです。

劉孝元氏は 1914 年、文師と同じ平安北道の定州郡に生まれ、
幼い時から村や学校で神童といわれた。

定州の五山高等普通学校に通いながら、
内村鑑三の無教会派の集会に参加した。

その後、劉孝元氏は京城帝国大学
(現、ソウル大学校)医学部に入学する。
そのとき、受験科目の数学は満点だったという。

合格の知らせを聞いた故郷では大騒ぎとなり、
多くの家から求婚が殺到した。

だが劉孝元氏は在学中、股関節カリエスにかかり
大学を中退し、治療のため故郷(定州)に帰った。
病魔との闘いはこの時から始まる。

劉孝元氏は、病気ゆえに何度も自殺を試みた。
母親はいつもそんな息子のそばで祈った。

家族の祈りは、祖国の独立と劉孝元氏の
体の快復のためにささげられたのである。

劉孝元氏の祖父も、熱心なキリスト教徒だった。
祖父が近くに教会を建てるまでの六年間は、
毎週日曜日、約 20 キロメートルも離れた教会に徒歩で通い続けた。

このような祖父や父母の篤い信仰の家庭で育った。
劉孝元氏は、幼い時からキリスト教の思想に感銘を受けていた。

闘病生活中、聖書を原語で学び研究し始めたが、
聖書を読めば読むほど解釈において多くの疑問と矛盾にぶち当たった。

例えば、聖書には次のような聖句がある。
「もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、
ほかの頬をも向けてやりなさい。
あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、
上着をも与えなさい」(マタイによる福音書第五章 39、40 節)

“この聖句をそのとおりに実践すれば死んでしまう。
生きているとすれば偽善者だ”
このような嘆きと苦しみの中で、闘病生活を続けた。

そのようにせっぱ詰まったとき、
劉孝元氏は文師と出会ったのである。


ふたりの出会いは、次のような経緯で訪れた。
梨花女子大学校の梁允永女史と
劉孝元氏は親戚であったことと、
その妹が、劉孝元氏が釜山で文師と出会う
きっかけをつくったのである。

「親族に聖書を熱心に研究している人(劉孝元氏)がいるので、
一度訪ねてほしい」と、彼女(梁允信女史)は教会の人に依頼した。
彼女は統一教会の人を案内して、劉孝元氏の家を訪問した。

劉孝元氏は、教会の人の話を聞いて興味を覚え、
その後、釜山の教会を訪ねた。

そのとき、文師は上京していたため不在であったが、
信徒の李鳳雲氏が彼を迎えた。

それは、統一教会が創立される半年前(1953 年 11 月)のことである。

劉孝元氏は李鳳雲氏に、
「文鮮明先生が語られた内容の本があれば、
見せていただきたい」と語った。

李鳳雲氏は、文師が直接、紙に鉛筆で書かれた
『原理原本』(教理の骨子に当たるもので、
五冊のノートにまとめられていた)を劉孝元氏に貸し与えた。

『原理原本』は、一年の期間をかけて文師が
1952 年 5 月 10 日に書き上げたものである。


劉孝元氏は『原理原本』を読みながら、
感動で胸が震え、感嘆の声を連発した。
喜びと希望が満ち溢れてきたのである。

劉孝元氏は、何度も何度も読み続けた。

聖書を原語で読んでも理解できなかったことが、
見事に『原理原本』の中で解かれていたのである。

劉孝元氏は自分が今後やるべきことを悟り、
喜びと責任と使命感に燃えたのだった。

劉孝元氏は文師と会う前に、『原理原本』を読んで
自分の生涯の行くべき道を決めた人物である。

『原理原本』の内容が、いかに劉孝元氏を
感動させたかは量り知れない。

劉孝元氏が、後に文師と初めて出会ったとき、
ふたり 21 時間余り、互いにその場を離れなかった
ということからも、そのことをうかがい知ることができる。

生死をかけて真理を求めてきた劉孝元氏と、
そのような人物を探し求めてきた
文師が巡り会ったのである。


1953 年 12 月 24 日から 21 日間(12 月 24 日から
翌年 1 月 18 日までという記録もある)、
文師は劉孝元氏をはじめとする数人に直接、講義をした。
このとき、文師は寝る時間も惜しんで語り続けた。

講義は、一人でもいれば続けられた。そのため、
文師の講義を聞いていた人たちは、
トイレに行くときは合図を出して、
一斉にトイレに行ったほどである。

この講義が終わった後、劉孝元氏が
新しく教会に来る人に講義をするようになった。

再編集 文責:ten1ko2


劉孝元先生は、その後、原理原本を基に、
私たち信徒が愛読している
原理講論を執筆されます。

原理原本は、理論的、というよりは、
感情のこもった書物でした。

しかし、原理講論発刊により、
とても理論的に体系化されました。

決して、人間一人で成し遂げられるような
そのようなものではありません。

劉孝元先生は「原理」をノートに一冊書くごとに
涙を数百回流したといいます。

最近、原理講論を読むということはありませんでしたが、
ある先輩から、この証しを紹介され、
改めて、原点に帰らなければならない、
そう思って、記事にさせていただきました。

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2023年09月02日

「この若者たちを記憶してください」 日本留学時代に歩いた道 《日本を愛した文先生の足跡》



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日本留学時代の話を交えながら語られる文先生
(1965年10月8日、東京都中野区野方・早成寮)

 
昨日は、真のお父様(文鮮明先生)の
聖和(逝去)11周年でした。

「日本を愛される文先生の足跡」
今回は、早稲田、高田馬場の特集です。


1965年10月8日、文鮮明(ムン・ソンミョン)先生は
東京都中野区野方にあった早大原研寮(成和寮、後の早成寮)を訪問されました。
そこで日本留学時代のことを話されたのです。

「早稲田の高田馬場の道を、
 先生は一日に2回ずつ歩いたよ。
 よく歩いた。
 今も歩いてみたらなんだな、月が出ておるよ。

 それを思うと今晚近い所へ来たんだから昔を思い出す。
 一度歩きながら、神に対して祈った日本での情が
 日本の一角に成しえられた感謝の念を抱きたい、
 先生、こう思う。  
 
 もしもそういうことをできずして国に帰ったならば、
 君たちがそういう気持ちでもって、
 早稲田の戸塚町を、高田馬場から歩いてほしい。
 わかりますか?

 そこにある角道、そこにある電信柱、
 そういう君たちの記憶に慣れている所には
 先生の涙があることを思っても、
 それは間違いないでしょう」


(『日本統一運動史』、p71〜72)


そして「この早稲田の若者たちを
記憶してください」
と祈られました。

その日、成和寮は文先生によって早成寮と改名され、
「天宙成寮 早成勇士」という揮毫を下さいました。


帰り際に、文先生はテーブルの上に用意されていた
上等なリンゴやバナナを、集まっていた一人一人に手渡してくださり、
ご自分は粗末な小さなリンゴをひとつ手に取り、
「先生はこれを頂いて行きますよ。
本当はこれがおいしいんだよ」
と言われました。

そして先生の車にいつまでも手を振っているメンバーたちに、
窓から手を出され、車の屋根をバン、バン、バンと
たたいて行かれました。

学生時代、下宿された三橋家を訪問

学生時代、文先生は東京都淀橋区戸塚町1丁目
(現在の新宿区西早稲田2丁目)の
三橋(みつはし)孝蔵・イトさん宅の2階に下宿しておられました。

早成寮訪問に先立つ65年1月29日、
文先生は下宿先であった三橋家を長時間かけて捜され、
三橋イトさんと劇的な再会を果たされました。

留学時代は文先生にとって、メシヤとしての使命を
全うされるための深刻な準備の期間だったのです。

「文総裁はこの原理を捜すために、
 満身創痍(そうい)になって、一日に12時間も
 14時間も祈祷したことが何年も続きました。
 …原理の本には血と汗と涙が絡み合っています」


(『真の御父母様の生涯路程』@、p199)。


原理の解明のみならず、品川の貧民街や新宿の裏町に行かれたり、
川崎の造船所で労働されたり、あらゆる体験と研究をされたのです。

韓国人蔑視(べっし)と差別の強かった
戦時中にもかかわらず、三橋家は
快く文先生に下宿を提供され、温かくお世話されたのでした。



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「天宙成寮 早成勇士」という揮毫を下さった  学生時代の下宿先の家主、三橋イトさんとの再会
(1965年10月8日、早成寮)           (1965年1月29日)


(光言社『グラフ新天地』384号[2000年7月号]
「日本を愛される文先生の足跡」より)
【文鮮明総裁聖和節記念】
日本を愛した文先生の足跡 3
〜 早稲田 〜


早稲田の学生時代、お父様は
涙を流さない日はなかったといいます。

45度以上、頭を上げることなく
罪人のように生活されながら、
原理の解明のためにひたすら精誠を尽くされた
その土台があり、統一教会は出発しました。

その後、世界宣教は、日本から始まり、
西川勝(韓国名:崔奉春)宣教師が派遣されました。
西川先生が日本で活動された場所が
何と早稲田、高田馬場の地でありました。

最初に礼拝を捧げた時計店、雄鶏舎は、
くしくも、お父様が下宿された
三橋家の徒歩5分のところにあったとのこと。

西川先生があらかじめご存知で
早稲田の地から宣教を出発されたのではありません。
すべて天の導きの中でなされていかれたのでした。


昨日は、お父様の聖和11周年でした。
教会長の記念礼拝があり、参加させていただきました。

み言を聞きながら思ったことは、
「お父様は韓国人であるけれど、
それはあくまでも、戸籍上のことである。
日本を愛してこられたお父様は、
日本人以上に日本人であると感じる。

でも、いろんな国の人も同じように愛されておられる。
やはり、お父様は世界人なんだなぁ」
ということを感じました。

心から日本を愛し、世界を愛してくださった、
そんなお父様に改めて感謝いたします。




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2023年08月25日

「勝敗を決する十字架の峠、世界の栄光となれ」 大阪篇《日本を愛した文先生の足跡》



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聖歌指導をされる文先生(1965年2月2日)


今日は、3万双、36万双の祝福記念日、
おめでとうございます。

それとは、全然関係ありませんが、
文鮮明(ムン ソンミョン)、真のお父様が
初めて大阪を訪れた時の証し。
「日本を愛した文先生の足跡」大阪特集を紹介します。

大阪は勝敗を決する十字架の峠


1965年2月2日、午後7時になって、ようやく文鮮明(ムン・ソンミョン)先生
ご一行が大阪教会に到着されました。

当日、寺田町の教会には80人ほどの老若男女が集まり、
午後1時ごろから聖歌を歌って、お迎えする準備をしていたのです。

「お父様(文先生)、お帰りなさい」の言葉に迎えられ、
車から降りられた文先生は2階に上がられ、
しばらく祈祷された後、歓迎会に臨まれました。

 
文先生は大阪について次のように語られました。


「東京は東のエデンの園を表し、
 名古屋は名高い古い屋敷を表し、
 ここ大阪は大きな峠を思わせます。

 ゆえに大阪の地は勝敗を決する十字架の峠であり、
 この地の復帰が、日本あるいは世界の
 栄光の峠になることを願います」

「大阪は皆が一つの家族という感じが強い所です。
 神を中心として心情がつながれていれば、
 国境も何も問題ではありません。

 先生は(ある意味では)日本人です。
 日本を真に愛する者が真の日本人であり、
 世界を、天宙を愛する者は、世界人であり、
 天地に公認される者となることができるのです」




その後、文先生は「次(いばら)なる道の復帰路程」と題して、
3時間余りにわたってみ言を語られました。


伝道するのは自己の完成のため


午後11時半、ようやく食卓に着かれた文先生は、
松本道子地区長(当時)の手料理をおいしそうに召し上がられました。

翌3日、文先生は出発前にもみ言を語られました。


「なぜ伝道するのでしょうか。
 誰のために伝道するのでしょうか。
 天宙復帰には己が完成勝利しなければならず、
 伝道は(最終的には)己のためにするのです。

 我々の勝利のためには最低12人の(信仰の)子女を
 産まなければなりません。
 それが蕩減であり、神の宴に招かれる礼服です」




文先生は「天地復帰之願」「勝越大阪之峠」
「統一の勇士群世界を制圧す」と揮毫(きごう)されました。

また大阪城内に聖地を決定され、高松へと向かわれました。


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▲揮毫される文先生(1965年2月3日)
▲聖地決定(大阪城内、1965年2月3日)
▲聖地決定の後、大阪市立博物館の前を歩かれる文鮮明先生ご一行(1965年2月3日)


(光言社『グラフ新天地』389号[2000年12月号]「日本を愛される文先生の足跡」より
参考/成約新聞1965年3月15日特集号、『日本統一運動史』)

日本を愛した文先生の足跡 7
大阪は勝敗を決する十字架の峠

(blessed lifeより)
再編集 文責:ten1ko2


大阪に対して、お父様は特別な思いで、
見つめていらっしゃることを感じます。

お父様が日本を愛し、一つ一つの地に対して、
心から愛する心情をもっておられることを
感じることができました。

お父様を慕う心情をもって、
9月1日に迫ってきた聖和節を
迎えていきたいと思います。




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