2023年08月25日

「勝敗を決する十字架の峠、世界の栄光となれ」 大阪篇《日本を愛した文先生の足跡》



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聖歌指導をされる文先生(1965年2月2日)


今日は、3万双、36万双の祝福記念日、
おめでとうございます。

それとは、全然関係ありませんが、
文鮮明(ムン ソンミョン)、真のお父様が
初めて大阪を訪れた時の証し。
「日本を愛した文先生の足跡」大阪特集を紹介します。

大阪は勝敗を決する十字架の峠


1965年2月2日、午後7時になって、ようやく文鮮明(ムン・ソンミョン)先生
ご一行が大阪教会に到着されました。

当日、寺田町の教会には80人ほどの老若男女が集まり、
午後1時ごろから聖歌を歌って、お迎えする準備をしていたのです。

「お父様(文先生)、お帰りなさい」の言葉に迎えられ、
車から降りられた文先生は2階に上がられ、
しばらく祈祷された後、歓迎会に臨まれました。

 
文先生は大阪について次のように語られました。


「東京は東のエデンの園を表し、
 名古屋は名高い古い屋敷を表し、
 ここ大阪は大きな峠を思わせます。

 ゆえに大阪の地は勝敗を決する十字架の峠であり、
 この地の復帰が、日本あるいは世界の
 栄光の峠になることを願います」

「大阪は皆が一つの家族という感じが強い所です。
 神を中心として心情がつながれていれば、
 国境も何も問題ではありません。

 先生は(ある意味では)日本人です。
 日本を真に愛する者が真の日本人であり、
 世界を、天宙を愛する者は、世界人であり、
 天地に公認される者となることができるのです」




その後、文先生は「次(いばら)なる道の復帰路程」と題して、
3時間余りにわたってみ言を語られました。


伝道するのは自己の完成のため


午後11時半、ようやく食卓に着かれた文先生は、
松本道子地区長(当時)の手料理をおいしそうに召し上がられました。

翌3日、文先生は出発前にもみ言を語られました。


「なぜ伝道するのでしょうか。
 誰のために伝道するのでしょうか。
 天宙復帰には己が完成勝利しなければならず、
 伝道は(最終的には)己のためにするのです。

 我々の勝利のためには最低12人の(信仰の)子女を
 産まなければなりません。
 それが蕩減であり、神の宴に招かれる礼服です」




文先生は「天地復帰之願」「勝越大阪之峠」
「統一の勇士群世界を制圧す」と揮毫(きごう)されました。

また大阪城内に聖地を決定され、高松へと向かわれました。


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▲揮毫される文先生(1965年2月3日)
▲聖地決定(大阪城内、1965年2月3日)
▲聖地決定の後、大阪市立博物館の前を歩かれる文鮮明先生ご一行(1965年2月3日)


(光言社『グラフ新天地』389号[2000年12月号]「日本を愛される文先生の足跡」より
参考/成約新聞1965年3月15日特集号、『日本統一運動史』)

日本を愛した文先生の足跡 7
大阪は勝敗を決する十字架の峠

(blessed lifeより)
再編集 文責:ten1ko2


大阪に対して、お父様は特別な思いで、
見つめていらっしゃることを感じます。

お父様が日本を愛し、一つ一つの地に対して、
心から愛する心情をもっておられることを
感じることができました。

お父様を慕う心情をもって、
9月1日に迫ってきた聖和節を
迎えていきたいと思います。




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2022年11月04日

この時、解放されていなければ、私はいなかった 奇跡の解放劇 《金元弼先生》




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1950年10月14日、死の収容所、興南から
劇的に解放された前後のお話です。

金元弼(ウォンピル)先生のみ言、
新しい章「興南解放と釜山伝道」より
「歴史的な解放の日」です。


この戦争(6.25動乱)が起こったのと前後して、
牢屋の中でお弟子になっていた人の中には、
北韓のキリスト教連合会の会長をしていた
有名な一人の牧師がいました。

彼は(文鮮明)先生に一生侍って働く決意をして、
自分の身に何事か起こると、
常に先生に相談していました。

興南から四キロくらい離れた本宮に
刑務所の分所がありました。

そこの仕事は非常にたやすいということで、
年も取っているので、先生に
「私は、そこは非常に仕事がたやすいというので、
移ろうと思いますけれども、先生の意見はいかがですか」
とアドバイスを受けることしたのです。

先生は彼に、「ここにいる方がいいですよ」
と勧めてあげました。

彼は、興南はなかなかつらいと思っていたのです。
それで先生から言われても、
自分の思いのままに分所に移りました。


次に、牢屋で最初のお弟子になった金さんが、
先生のところへ来て、
「私も大変なので、分所に移りたいのですけれども、
どうしたら良いでしょうか」と聞きました。

先生は、「お前が本当に行きたいのならば、
行くがよかろう。
もし何事か変わったことがあった場合には、
そこから逃げ出すようにしなさい」
と注意をしてあげました。


動乱がますます進むうちに、
戦いの情勢は逆転して、
UN(国連)軍は海から興南に上陸することになりました。

牢屋では、囚人を別の所に移さなければなりませんでした。

しかし、戦いが急に不利になってきたため、
収容しているたくさんの人たちを連れていくことができないので、
仕方なく処刑しなければならなくなりました。

そこでついに手を出したのが、この分所でした。
その分所の人たちを全員トラックに乗せて、
裏山に運んでいって残らず銃殺にしました。

その時、先生から行かない方がいいと
言われていた牧師は、犠牲になったのです。

ところが、金さんは、トラックに乗せられて走っている間に、
どうにかして逃げなければいけないと思い逃げたのです。
そして無事に南まで帰ってきました。

牧師さんはみ言のとおりにせずして銃殺され、
全さんはみ言のとおりにして救われたのです。


その次に手を出したのが、
先生の収容されている興南でした。

夜になると、一人一人、
部屋の前で番号を呼ばれます。
そして、この人たちを別の所に移す
といって安心させて、裏山に連れて行くのでした。

囚人たちにシャベルを持たせて穴を掘らせ、
次に機関銃で皆殺しにして、そこに埋めたのでした。

先生には全員が処刑されるということが分かりました。
運ばれていって、ある時間が経過すると、
銃殺する銃の音が大きく聞こえ、
それによって銃殺された
ということが分かったのです。

その時の先生の心はどれほど緊張したかということを、
私たちは推し量れると思います。

一つの部屋から次の部屋へと、
先生の部屋までどんどん近寄ってきたのです。
十月十三日には先生の部屋から何人か呼ばれました。

ところが、それを最後に、国連軍が上陸してきたので、
その時点で共産主義者は、
それ以上処刑する時間がなくて
逃げ出すようになったのです。

それで先生は奇跡的に脱出することができたのです。
それが1950年10月14日のことです。

このようにして先生は
歴史的な解放の日を迎えるようになったのです。


皆様もよく御存じのように、サタンは先生を
自分の思うままに自由にすることができたので、
この牢屋にまで入れたのでした。

けれどもサタンは
先生を讒訴することができませんでした。

私たちがサタンの侵入できるある条件を
提起しない限りは、サタンは
紙一枚であっても侵すことはできないのです。

先生の歩まれる道は、天が助けざるを得ない、
そして霊界が協助せざるを得ない道である
と私は思います。

先生は苦労の中にあっても、それを
自分の苦労とせず、神の苦労の身代わりとして、
天宙の身代わりとして、世界のすべての、
あるいは霊界すべての人々の苦労の代表として歩まれました。

そのように、神から見てもサタンから見ても
感動せざるを得ない、
そういう心情の内容をもっていらっしゃいました。

ですから、先生が危ないところに立てば立つほど、
神が人を遣わしてそれを免れるようになさっても、
サタンは讒訴できないのです。

サタンも先生を見る時、讒訴条件がなかった場合、
先生を後にして逃げなければならないということになるのです。

先生は神を感動させ、そしてサタンを感動させ、
そういう人間としての勝利の基準を立てたのですから、
その先生を慕う私たちも、
こういう路程を勝利の基準としながら
歩かなければならないと思います。

第六章 興南解放と釜山伝道
歴史的な解放の日より
信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題


興南の解放の奇跡は、韓総裁の自叙伝にもあるように、
文先生様のためでもあり、
また、韓総裁のためでもあったといいます。
そういう意味では、
神様の摂理はなんとも奥妙であると感じます。

そして、この時、文先生とともに助かったのは、
自分の判断で物事を決めた人ではなく、
先生の指示通りに動いた人でした。

そして、先生ご自身も
貴い精誠を尽くしていかれ、
サタンが讒訴できない条件をたてられたので、
神様が救い出されたのでした。

真の父母様と一つになることが、どれほど重要であるか、
そのことを改めて教えていただきました。





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2022年08月24日

家庭連合(統一教会)のデマが、今も信じられている理由  




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風雨に曝(さら)され、火に焼かれても、
絶対に燃えて死ぬ木に
なるわけにはいきませんでした






一ヵ月前に掲載した記事の続きを紹介します。

文鮮明先生が無実の罪で収監された西大門刑務所
それは、まさしく愛で屈服させるという、天の勝利にふさわしいものでしたが、
先生の所内での様子や、釈放前後のお話です。


(1955.7.4)文鮮明師が西大門刑務所に入ったとき、
刑務課長は文師を見てあざ笑った。
「統一教会が何だかんだ言っても、結局はこのありさまだ」

このとき文師は、次のように決意している。

「わたしがここにいる間に、必ず彼らを屈伏させる」

「屈伏させる」という意味は、人格的行動を通して
自然に尊敬の念を持たせることを示している。


収容所の中では、文師のうわさが広がっていた。
同師は人々から何と呼ばれても、何も答えず静かに座っていた。

約二週間が過ぎると、文師に対する態度が少しずつ変わり始めた。
それは、囚人たちが朝早く起きてトイレに行こうとすると、
文師はいつも祈祷していたからだ。

刑務所の中にはさまざまな人々がいた。
ある牧師は文師を見るとひどい剣幕で、
「おまえの教えとは、一体全体何だ?」と食ってかかってきた。
このような牧師も、やがては文師の人格に触れ親しくなった。


囚人の中には、皆から厄介者扱いされていた人がいた。
「こんなやつは死んだほうがいい」と、
人々から思われていた囚人である。

だれからも嫌われていたその男に、
文師は接触しながら彼をたしなめた。

「文さんが来てから、あの男が変わった」
「彼は文さんの言うことなら従う」
このようなうわさが、刑務所内に立ち始めた。


人々はこのような文師の姿と、収監されている信徒たちと
同師との触れ合い、さらには先に述べた
面会に来る信徒たちとのようすを見て、
「世間では、あのように統一教会の悪口を言って
反対しているが、文氏はできた人物だ」と、
文師に対する見方が変わっていったのである。

文師は、囚人たちに対して常に父母の心情を持って接した結果、
彼らから尊敬を勝ち取ったのだった。


刑務所内では、不思議なこともあった。

文師の知らない所で、自分だけで餅を食べた囚人がいた。
ところが、どうしたことか
その餅が喉に引っかかって飲み込めなくなったのだ。

その後、男はこの話を文師にしようとしてやってきたが、
その男がその話を言う前に、同師はそのことを知っていた。
文師はその人になぜ朝、食べた餅が喉に引っかかったかを説明した。

さらに、ある囚人に天使が現れて、
「おまえは何番のあのかたの所に行ってあいさつをせよ。
そして、差し入れがあれば全部ささげなさい」と叱りつけた。


文師の無罪判決の記事は、どの新聞も
人々が見過ごしてしまうような
小さなものでしかなかった。

文師の逮捕やスキャンダルを大きく扱ったときと比べると、
あまりにも落差があった。

信徒たちは、マスコミを通して文師と統一教会の悪い印象が
払拭されることを願ったが、その期待は完全に裏切られた。

そのため、文師が無罪であったことを知らない人も多かった。
大勢の人々の心に残ったものは、
「統一教会」が、いかがわしい教団であり、
「文鮮明」教祖は淫らな人物というイメージである。


(1955年)十月四日、午後九時四十分、文師は釈放された。

三か月ぶりに教会に戻った文師は、
出迎えた信徒一人ひとりと握手をして
彼らにねぎらいの言葉を述べた。
それを聞いて教会員たちは涙を流した。

文師は切ったリンゴを彼らに一つひとつ渡したあと、
夜が明けるまで語り続けた。


梁允永女史は、そのとき文師が語られた言葉の一部を、
次のように記憶している。

「わたしが韓国だけで裁判を受けると思っているのか! 
これから世界的な裁判の場がわたしの前に迫ってくる。
しかし、わたしは神様の御旨を成し遂げる時まで
少しも屈することなく、
ひるまず、この道を行く」

文師は、言葉で表すことのできない
苦難の道を歩んだ信徒たちを愛し慰め、
これから行く道を示されたのである。


十月九日(日)聖日礼拝が行われた。
文師の説教の題目は「真理は
すべてのものを捨てることから出発」であった。

十月十日(月)「文鮮明先生出獄歓迎会」が、
ソウル・青坡洞本部教会の二階で開催された。

その日文師は、教会員に
ポップコーンとリンゴを親しく分配された。

「受難の源流」より


刑務所に入った時には、あざ笑われた先生でしたが、
自叙伝には、人々が先生の姿に屈服し、
面会に押し寄せる食口の様子を見て感嘆したと書かれています。

釈放の日には刑務所長と課長らが
丁重に見送り、彼らも3ヵ月後には
教会の信者になっていたということです。

先生は、ダンベリーの時もそうですが、
西大門刑務所に入られる時も、
すでに予想しておられたのでしょう。。。
しかし、『わたしは神様の御旨を成し遂げる時までこの道を行く』
その決意は凄まじいものでありました。

さらには、「わたしがここにいる間に、必ず彼らを屈伏させる」
この決意も揺るがないものでした。
真の愛によって、囚人たちを自然屈服させていく精神、
これは今の私たちにおいても相続すべきものだと思います。

今、困難な時ではありますが、改めて私たちも
決意していく内容ではないか、そのように感じます。

先日、家庭連合本部からのプレスリリース(公式発表文書)の
内容について記事を作りました。
参考にしてください。
(上にも同様のリンクを貼っています)
家庭連合(旧統一教会)の公式発表と、会長記者会見映像一覧


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自叙伝のみ言

デマによって後ろ指をさされ、
(もてあそ)ばれた痛みを忘れることはできません。

大勢の人が私を激しく責め立てて、
三千里半島に私の体が立つ場がなくなっても、
一切を耐え忍んで乗り越えてきましたが、
その悲しみは今も心の片隅に物寂しく残っています。

風雨に曝(さら)され、火に焼かれても、
絶対に燃えて死ぬ木になるわけにはいきませんでした。

焦げた木の枝にも春が訪れるように、
新芽は必ず生えてきます。

強い信念を心に抱き、堂々と歩いて行けば、
世の中も正しく私を理解してくれるでしょう。


「平和を愛する世界人として」
第三章より



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