2022年06月12日

われらに国境はない、民族もない・・・ 主から日本への手紙 《ピックアップ統一運動史》 



220612-19650128.jpg


1965年に真のお父様(文鮮明師)が日本に来られた後、
次の巡回先、アメリカから
日本のメンバーたちに送られてきた
お手紙を紹介します。


『東京の食口へ

 皆様の有難き歓迎歓送を思う立場になりまして、
 今は東京食口達を目に浮べつつ慕っております。
 
 滞在中はいろいろ世話になりまして、
 何と(も)申し訳なく思うと共に、
 心深く有難く思う次第であります。

 先生がおられるために
 いろいろな思わざる忙しい日々を送った事と思い、
 皆が疲れておることを思って申し訳ないです。

 食口達よ、東京を中心として全国巡回してみると、
 今後の日本の食口達の責任の重大な事を
 切々と感じました。

 今から力を出して復帰の勇士となって働けば
 大(おおい)なる成果を望む事が
 出来ると感じました。

 日本の一億のためにいろいろ誓いと決意を払って
 最後の勝利へと進むように心から思い、
 また祈っております。

 特に久保木協会長、頑張ってくれよ。
 耐えしのんで最後まで戦い抜くように頼みますね。

 12日羽田飛行場を発ちまして、
 その12日朝5時頃
 桑港(サンフランシスコ)に着きまして、
 米国の食口の迎えに応じたところ、
 本当に神に感謝しました。

 統一教会の食口は皆同じ様な
 群れである事を切に感じました。
 我らに国境はありません。
 民族もありません。
 ただ神の国の子女であるのみです。

 全部が皆々と同じであると共に
 韓国の食口と同じな所は我らでなければ持っていない
 尊い動きでありました。

 米国に来まして日本の事を伝えると、
 こちらの食口達は、皆なに負けないように
 心かまえております。
 日本も米国に負けてはならないと思います。

 先生は19日より3月24、5日までに米国南部全州を
 巡回する路程をきめております。
 忙しい日々を思って心から新たな緊張を感じます。

 旅行中なのでいろいろな消息を伝える事が
 容易じゃないと思いますから、
 その間何よりも健康に留意して
 良好なる実績を残すように
 心から祈りつつ遠い所から慕ってます。

 元気でやってくれ、ではさようなら

 2月16日 先生より』

blessed lifeに紹介されていたものを
わかりやすく現代仮名遣い(かなづかい)に直して
紹介させて頂きました。
文責:ten1ko2 


仮名遣いのみ、現代のものにしましたが、
元の文章は、下に添付しています。

そこからお父様の肉筆の手紙を
感じ取っていただければと思います。
できることなら、その手紙を
手に取って見てみたいですね。

お父様の手紙は、当時の食口たちへの
励ましのメッセージでした。

それだけではなく、今の私たちにも、
霊界から、「頑張れよ」
と励ましてくださっているような気がして、
紹介させていただきました。



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「続・日本統一運動史」
真の父母様が「母の国」である日本に向けて語られたみ言や、教会員たちの涙の証しなど、1965年以降の「知らなかった」エピソードをお届けします!


『東京の食口へ
 皆様の有難き歓迎歓送を思ふ立場になりまして、今は東京食口達を目に浮べつつ慕って居ります。滞在中は色々世話になりまして、何と申し訳なく思ふと共に、心深く有難く思ふ次第であります。先生が居られるために色々な思わざる忙しい日々を送った事と思い、皆が疲れて居ることを思って申し訳ないです。食口達よ、東京を中心として全国巡回してみると、今後の日本の食口達の責任の重大な事を切々と感じました。今から力を出して復帰の勇士となって働けば大なる成果を望む事が出来ると感じました。日本の一億のために色々誓いと決意を払って最后の勝利へと進むように心から思い、又祈って居ります。

 特に久保木協会長、頑張って呉れよ。耐えしのんで最后まで戦い抜く様に頼みますね。12日羽田飛行場を発ちまして、其の12日朝5時頃桑港に着きまして、米国の食口の迎えに応じたところ、本当に神に感謝しました。統一教会の食口は皆同じ様な群である事を切に感じました。我等に国境はありません。民族もありません。ただ神の国の子女であるのみです。全部が皆々と同じであると共に韓国の食口と同じな所は我等でなければ持っていない尊い動きでありました。米国に来まして日本の事を伝えると、こちらの食口達は、皆なに負けない様に心かまえております。日本も米国に負けてはならないと思います。

 先生は19日より3月24、5日迄に米国南部全州を巡回する路程をきめて居ります。忙しい日々を思って心から新たな緊張を感じます。旅行中なので色々な消息を伝える事が容易じゃないと思ひますから、其の間何よりも健康に留意して良好なる実績を残す様に心から祈りつゝ遠い所から慕ってます。

 元気でやって呉れ、ではさようなら

 2月16日 先生より』

歴史編纂委員会・編著(光言社・刊
『日本統一運動史〜文鮮明先生御夫妻と
日本の統一教会および統一運動の歩み』より)
第四章 真の御父母様との一体化時代
二、第一次世界巡回路程期間
(1)真の御父様からの御手紙
1. 2月16日の御手紙

続・日本統一運動史 17
真の御父様からの御手紙
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=15529
(blessed lifeより)


※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)


2022年06月04日

変わらない心情で! 韓国のお父様のお側で療養 《松本ママ奮戦記》完



220604.jpg


日本家庭連合の初穂、
私たちの信仰の母である、松本ママの証し、
今日で最後になります。


「統一原理」を知ってから十数年、疲れを知らず、
あらゆる困難を信仰で乗り切ってきましたが、
1973年1月6日水垢離(みずごり)のあとで
とうとう倒れてしまいました。

無理を重ねてきたので疲れがたまっていたこともありますが、
私は遺伝的に心臓が弱かったのです。
それは、倒れるまで自分でも知らずにいたことでした。

若いころに、肺を病んで医者から6カ月の安静を言い渡された時、
「統一原理」を聴いて“これで死ぬなら死んでもいい”
という気持ちで、病気を省みず神様のために働いてきました。

ところが、無理をしたら死ぬと言われたにもかかわらず、
十何年たっても死にもせず生きているものですから、
それ以来、少々の病気は信仰で克服できると確信してきました。

ですから、体がだるく頭ががんがん痛くても、
病院に行くなど思いもつかないことだったのです。

そして、病気になるのは自分がたるんでいるからだ、
自分が怠けているんだと自分自身を責め、
痛がっている肉体の訴えを否定して、
ただひたすら心を神様の方へ引っ張っていこうとしていました。

けれども実際は、血圧が上がっているために
頭痛やだるさが出ていたのです。
それを知らず、寒い時に水垢離などしたものですから、
脳血栓(のうけっせん)になって倒れてしまったのでした。

手が上がらなくなり、
「乱れた格好で倒れるのはいやですから、
ガウンを着せて縛ってください」
と言ったきり意識を失ってしまいました。

板橋病院に運ばれ、脊髄(せきずい)に注射をして
やっと意識が戻ったのですが、もしこの時
意識が戻らなかったらもうだめだったそうです。


退院してからも左の足はしびれていました。
ちょうどそのころ、アメリカにずっとおられた文先生が、
韓国に帰られる途中、日本に立ち寄られました。

そして「今まで無理してきたからね」と言って、
一緒に韓国に連れていって一室を与えてくださり、
先生の食事係の人が私のために、
野菜食を作って食事療法をしてくれたのです。

そうして約半年間先生のそばで治療して日本に帰ってきました。
こうして食事療法と信仰と天の愛によって、
左足をひきずりながらも何とか動けるようになったのです。

(その後、アメリカにおける3つの大会に参加し
*前回の記事参照 勝利をこの目で見た際の)
この喜びは私の体にいい影響を与え、
血の循環も良くなって、目に見えて快復していきました。

ところが、私はとても行動的な性格の人間なので、
何か考えたり感じたりすると、
すぐ行動に移さずにはいられません。
それでつい無理をしてしまうのです。

そこで、月に一度、私の体に合うという
大陸の気候を求めて、ソウルに静養に行くことにしました。

いつも限界ぎりぎりまで動いてしまい、
全身が痛くても息絶え絶えに飛行機に乗るのですが、
飛行機が金浦(キムポ)空港に降りるやいなや、
金魚が汚れた水から清い水に移った時のように
気持ちが良くなり、生き返った心地がするのです。

そうして医者の言うとおりに食事療法をしながら、
神様の願いに生きようとひたすら努力してきました。

 
私は神様の命令がある時は、たいてい前もって分かります。
ですから、いつでも備えをして待っています。

そして、私は私なりに、自分の手腕、自分の方法で
神様のみ旨をやっていきたいと思うのです。

今私は六十五歳ですから社交伝道を心掛けています。
伝道でも何でも若い人には絶対負けたくありませんし、
いつでも模範を示していきたいと思います。


今までの私の歩みを振り返ってみると、
苦労も喜びもいろいろありましたが、
天命に対してはどこまでも従順に、
変わらない心情で歩んできました。

長い信仰生活の間には、人間ですから強い時もあれば、
調子の悪い時、たるむ時もあります。
必ず強弱があるはずです。
一番大切なことは、初めから終わりまで変わらない心情です。

変わらない心情をもっていれば、
絶対にこの道から外れることはありません。
いえ、できないのです。

天のお父様の摂理や悲しい心情を
この心と体で知ってしまった以上、
どうしてこの道から離れることができるでしょうか。

死んでも離れることはできません。
たとえ体が動かなくなっても、祈りだけはしよう、
こういう心情できょうまで歩んできました。

 
1980年4月、先生が還暦を迎えられたので
私は独りでアメリカに行ってきました。

先生はとても喜んでくださり、
ぐっすり(ゆっくり?)休んで行きなさいと言ってくださいました。
その後ソウルでお会いした時にも同じことを言われました。

けれども私は、3日休んだら10日ぐらい休んだような、
1週間休んだら1カ月休んだような気がして、
兄弟たちが一生懸命働いているのに、
私がこんなことをしていていいんだろうか、
救いを求めている人がたくさんいるのに……
という気持ちになってくるのです。


文先生を見てください。

先生は天啓を受けてから還暦を迎えるきょうまで、
一片の個人的楽しみもなく、
食べることも眠ることもしないで、
天より与えられた使命をいかに成そうかと心を砕き、
私たちの救いのために血と汗と涙を流してこられたのです。

その天の願いを完成するまでは、
60歳になっても休むことができないのです。
鉄の意志力をもって、今もなお
先頭に立って働き続けているのです。

罪汚れた私たちを「統一原理」によって復活させ、
手をとり足をとって導き新しく生まれ変わらせてくださった先生。

日本で伝道された青年たちが、アメリカをはじめ
世界の各地で活躍している姿を見る時、
神の国への希望がわいてくるのです。

これからは若い皆さんの時代です。
天の願いに向かってまっすぐ進んでいる
先生の道を自分のものとして、
一歩一歩着実に歩いていこうではありませんか。

先生の御恩に報いるために、私も自分の責任は
最後まで果たして死にたいという意気込みで、
力の限りを尽くしています。

(完)

松本 道子(1916〜2003)・著(光言社・刊
『信仰は火と燃えて―松本ママ奮戦記―』より)
「世界に広がる救いの輪」

信仰は火と燃えて 17
世界に広がる救いの輪
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=14060
(blessed lifeより)


好評のうちに連載してきた
『信仰は火と燃えて―松本ママ奮戦記―』は、
1981年頃語られたものをもとに、
聖和後に出版されたのだと思います。

その本には、西川(崔奉春)先生がお言葉を
寄せておられますので、また紹介いたします。

肉体の限界を超え、神様を愛し、
み旨の最前線を貫き通された松本ママ。
まるで火の玉のような人生でした。

神様はよくぞこのような義人を
草創期に導かれるよう、
準備してくださったと思います。

日本家庭連合の発展は、
松本ママなくしてはあり得ませんでした。

松本ママ、今まで貴重な証しをありがとうございました。
決して同じような基準で歩むことはできませんが、
心情を相続して頑張っていきます。

霊界で私たちの歩みを見守ってくださり、
(足りないところだらけでしょうが)
叱咤激励をお願いいたします。




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松本道子(1916〜2003)
日本の女性の初穂として開拓伝道などで大きな業績を残す
1960年4月 入教 紹介者 崔奉春宣教師
1960年8月16日 増田勝氏と共にUC初の40日開拓伝道
1967年6月17日 日本統一教会本部の三役事として松本道子さん、金成治子さん、林信子さんが決定。
 み言「三人の役事は一つの心となって日本の中心である久保木会長を助け、そのために天に祈り、何事においても四位基台を造成して相談しながら御旨に従事しなければならない」
1968年5月11日 宝塚に「重生祈祷院」開設。山路みち子さん、熱海房子さん、佐藤初子さんら重生祈祷院開設の際に、松本道子役事が10日間の断食精誠祈祷を捧げる
1998年12月8日 特別天地祝福式(大母様)第1次独身祝福者霊・肉界祝福式を受ける(千葉ポートアリーナ)
2001年11月12日 真のお母様が本部教会を訪問され、松本道子さんを慰労される
2003年10月25日9時45分 入院先の一心病院で87歳で聖和

  

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2022年05月31日

3万(+2万)名 マディソン・スクェア・ガーデン、真のお父様の目には涙が! 《松本ママ奮戦記》



220531-46moon_web_Sept. 18, 1974 at New YorkÃ-s Madison Square Garden.jpg
NY マディソン・スクェア・ガーデン大会 1974.9.18


松本ママ奮戦記『信仰は火と燃えて』は、
いよいよ終わりに近づきました。
最終話の「世界に広がる救いの輪」を
2回に分けて紹介します。


1974年アメリカのマディソン・スクェア・ガーデンで、
先生の大講演会が開かれました。

(1973年に脳血栓で倒れたのですが、なんとか回復し)
この時にはまだびっこをひいていましたが、
私はどうしても先生の講演を聴きに行きたくて、
「なんとかしてほしい」と懇願すると、
本部の人たちが奔走して、春日千鶴子さんを
付き添いにつけてアメリカに行くことが
できるようにしてくれたのです。

当日は、2万人もの人が入りきれずに場外にあふれ、
大変な混雑でした。

その中で、二列目のスペシャル席で西川先生と
並んで座らせていただき、胸をわくわくさせて
文先生が出てこられるのを待っていました。


(ひとみ)をじっとこらして先生の顔を見上げると、
その目にはなんと涙があふれているではありませんか。

その涙を見ると、これまで先生が歩んでこられた
険しい涙の道が、走馬燈のように浮かんできました。

16歳のときに天の啓示を受けてから、
生きて十字架の道を歩いてこられたのです。

涙と汗と血を流し、神様のみ旨のために
歩んでこられた先生は、韓国、日本に土台を築き、
ついに現代のローマであるアメリカヘと渡られたのです。

そして、苦労に苦労を重ねてアメリカの人々を伝道し、
その土台の上でこの日、3万人の聴衆を前にして
講演をするまでになったのでした。


この大会は、50州を講演して回った
最後の締めくくりとしての大会でした。

韓国でお会いした先生は、
本当にかわいそうなお父さんでした。

ところが、今やアメリカまで来て、
会場からあふれんばかりの聴衆を前にして、
「キリスト教の新しい未来」というテーマで、
堂々と講演をしているのです。

この日を、天の父はどれほど待っておられたことでしょう。
また誰よりも、先生御自身が待っていたこの日なのです。
この喜びの日を迎え、天の父の喜びを感じて、
感極まって涙を滝のように流しているのでした。

講演会は大成功のうちに終了し、
私の心は喜びに満ちていました。

そして、“ああ、先生はこれからますますアメリカで活躍される。
私も寝てなんかいられない!”と
すぐ日本に帰国したのでした。

 
1976年には、ヤンキー・スタジアムで
さらに大規模な講演会が催されました。

その時も参加しましたが、天のみ旨が
アメリカでどんどん発展しているのを見て、
私はうれしくて仕方ありませんでした。

人に支えてもらわなければ歩くこともできない身で
ありながら、道を歩いているとうれしくて、
自分が病気だなんて忘れてしまうほどでした。

ヤンキー大会の時には、大変なハプニングがありました。
昼まで天気が良かったのに、
突然嵐のような雨が降ってきたのです。

ヤンキー・スタジアムには屋根がありません。
私はどうなることかと驚き、
「天のお父様、この日をあなたは待っておられたのに、
どうして雨を降らすのですか」と祈っていました。

兄弟たちは雨の中で歌を歌い始めました。
どうすることもできない状況の中で、
大会の責任者である神山さんが
「先生、だめです」と泣いて訴えると、
先生は「そんなこと言うんじゃない」と
とても怖い顔をされました。

この時は、先生にとっても
深刻なひとときだったのでしょう。

ところが大会の開始時間が近づくと、
嵐のような雨がうそのように晴れ上がり、
星まで見えてきたのです。

まるで奇跡を見ているようでした。


こうしてヤンキー大会も5万人の人を集めて
大成功のうちに終わり、その4カ月後には、
ワシントン・モニュメントにおいて、
なんと30万人の人を集めてフェスティバルが開かれたのでした。

そこには世界中の人々が集まり、
気絶せんばかりのすばらしさでした。

イエス様はどんなにかローマにおいて、
このような大会を開きたかったことでしょう。

その恨みを晴らすかのように、
先生は世界中の人々を前にして、
神様の心情と願いを堂々と語られたのでした。

この先生の力強い言葉は、人々を励まし希望を与えました。
こうして多くの人々が復活していく姿を
見ることは、私にとって限りない喜びでした。

この喜びは私の体にいい影響を与え、
血の循環も良くなって、目に見えて快復していきました。

松本 道子(1916〜2003)・著(光言社・刊
『信仰は火と燃えて―松本ママ奮戦記―』より)
「世界に広がる救いの輪」

信仰は火と燃えて 17
世界に広がる救いの輪
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=14060
(blessed lifeより)


マジソンスクエアガーデンでの大会は、
お父様のアメリカでのデビュー戦、
といったようなものでした。

お父様を間近で見られた松本ママが、
お父様の涙をみられた、と言われていますが、
そのようなお父様だったとは、今まで知りませんでした。

お父様においては、やはり、感慨深いものが、
あったのだろうと思います。。。

松本ママの信仰手記の最終話より、
今日は、真ん中の部分を抜き取って、
ご紹介しました。

次回は、お話が前後しますが、1973年に
松本ママが倒れられた時のお話からお送りします。




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