2022年05月23日

55年ぶりの韓国で体験した天と地の世界 泣きながら祈られる真の父  《松本ママ奮戦記》



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▲韓国で(1968年2月)


松本ママ『信仰は火と燃えて―松本ママ奮戦記―』より
今回は、「親子のきずな」です。

親子のきずな

(大阪では)多くの人々が集まってくるようになると、
寺田町にあった教会もいよいよ狭くなってきました。

そこで、もう少し大きい所に移ろうと鶴橋に家を見つけ、
汚い長屋をあちこち直して、さあ、行こう!
と意気込んでいる時、突如として
東京に帰るようになってしまいました。

ちょっと拍子抜けした感じでしたが、もう大阪の基盤も
ほぼでき上がっていたので、すぐ東京に上がってきました。
1966年の秋のことでした。

東京での私の仕事は巡回師でした。
小河原節子さんと二人で北海道から九州まで、
弥次喜多の親子版のようにして回りました。

「パパ」と呼んで慕ってきた西川先生は、前年、
アメリカの開拓のため、
韓国からサンフランシスコに行ってしまわれました。

今まで、すべてを委(ゆだ)ね、頼ってきた先生が
アメリカに行ってしまうと、何か無性に寂しくて、
心の中にぽっかりと穴が開いたようでした。

ちょうど子供をほっぽり出して、
親がどこかに行ってしまったような気持ちで、
その寂しさをこらえながら、一生懸命巡回して回ったのです。

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▲アメリカに帰られる西川先生をお見送りして(羽田空港・1967年3月29日)

その後、1968年に韓国に行く機会が訪れました。
そのころには、兄と姪(めい)も入教して重要な任についていました。

私が統一教会に入教した時、(キリスト教の)牧師の話を真(ま)に受けて、
異端だといって6年間反対し続けてきた兄でしたが、
姪が「統一原理」を聴き始めたので、
とうとう兄も一緒に聴くようになったのでした。

そして、自分の耳で聴いてみて初めて、自分の妹は
偉大なことをやっているんだということを悟り、
即座に自分も入教したのでした。

私にとって、ソウルに行くのは生まれて初めてのことでした。
韓国の片田舎で生まれ、そこから、いきなり東京に来て
以来55年間、伝道のために名古屋に行ったり
大阪に行ったりしたことはありましたが、
それ以外はどこへも行かず、
まさに江戸っ子として育ってきたのです。

初めて祖国の都へ行くというだけでも
感動で胸がいっぱいなのですから、
その上に同じ志をもって意気投合し、
兄と姪と連れだって行くのは、まさに感慨無量でした。

 
3月の最も寒い時でした。
この時韓国では、市民劇場を借りて
統一教会の合同結婚式が行われました。(430双)

この世のものとは思えない華麗で荘厳な結婚式を
目の当たりに見て、私は驚きのあまり胸が詰まり、
感激の涙をおさえることができませんでした。

その中には、日本の責任者である久保木夫妻と
(私の)姪も加わっていました。

結婚式が終わると、それぞれのカップルは
再び韓国全土に散っていきました。

私たちは、ソウルの教会の近くにある家に
泊まることになっていました。

私たちのためにわざわざ空けてくださったもので、
周りには統一教会創立のころから苦労してきた
大先輩がたくさん住んでいました。

そこでまず驚いたのは生活の貧しさでした。
その生活ぶりはひどく惨めなもので、
日本では私もずいぶん苦労したつもりでしたが、
私の苦労など及びもつかないもののように思われました。

天上のことのように華麗な結婚式と
あまりに貧しい生活、韓国に着いてからは、
何から何まで驚きの連続でした。

 
そのころ文先生は、結婚した教会員の教育のために、
全国を巡回していらっしゃいました。

釜山(プサン)から順々に、教会がある所へはすべて行かれました。
そして、先生がソウルの近くの水原(スウォン)という所に来られた時に、
私は先生のお話を聴きたくて、
兄と一緒にはるばる出掛けて行ったのです。

雪の降る夜、ジープに乗って
水原の教会に着いたのは午後6時ごろでした。

先生は8時ごろ到着され、すぐお話が始まりました。
それは私が韓国語で聴いた初めての話で、
聴いているうちに今までにない不思議な気持ちになってきました。

先生に会うのは今回が初めてではないのですが、
日本で会った時とは全く違う近さ、親しさを感じたのです。

日本に来られた時の先生は、
自分とはとても遠い人のような気がしました。

“あの人がこの偉大なる原理を解かれた人だ”という
畏敬(いけい)の念が先立ってしまい、
すべてを見抜かれているようで、
目を見るのが怖く、いつも下を向いていました。

偉い人だ、怖い、とただそれだけで、
慕わしい思いなどわいてくる心のゆとりがなかったのです。
パッと見る時の目が怖くて、
毎日縮みあがってぺこぺこするだけでした。

  
ところが、この日は違っていたのです。

先生は韓国中を巡回してきたので、声はかれ、
目は引っ込んで、体全体が疲れているようでした。
目の下には隈(くま)ができていて、会った瞬間、
「ずいぶんお疲れのようだな」と思ったほどでした。

先生と一緒に巡回してきた教会の指導者の人たちは、
もう疲労困憊(こんぱい)してしまって、
こっくりこっくり居眠りをしています。
けれども先生だけは、カッと気力を出して語っているのでした。

先生の話は言葉が早く、聴き取りにくいのですが、
一つ一つの言葉の響きが
とても懐かしく親しみを感じるのです。

もちろん話の内容もすばらしいものでしたが、
それよりも韓国の親しい言葉が、
理屈ぬきでひしひしと私の胸に迫り、
何か温かいものが伝わってくるようでした。

先生は、集まった人々に向かって、
厳しくしかったり決意を促しながら、
時々足の裏をたたいていました。
ずっと立ち続けているので足の裏が痛いのです。

その疲れた様子を見ているうちに
「あんなに疲れてかわいそうだなあ」
という思いが込み上げてきました。
それは疲れた父を思いやるような気持ちでした。

  
すると、その気持ちにたたみかけるように、
先生のお祈りの声が聞こえてきたのです。

「天の父よ」と親しく呼ぶその声音(こわね)
そしてさっきまで厳しくしかっていた先生が、
とても優しい声で、僕(しもべ)が主人にお願いするように
礼儀を尽くして、神様に語りかけているのです。

「ここに集ったあなたの子供たちは、
 あなたの願いを知って、それを全うすることに
 青春を賭(か)けてきました。

 食べるものがなく、着るものがなくても、
 こぶしを握って裸で走ってきたのです。

 どうかここに集まったあなたの子供たちをあなた自ら祝福し、
 最後まであなたの前に忠誠を尽くすことができるように、
 あなたの天軍、万軍をつかわして助けてください」


と切々と神様に訴え、私たちのために
執り成しの祈りをしているのです。

先生は泣きながら祈っていました。

その祈りを聴いていると、私のために祈ってくださっている
ということがひしひしと感じられて、有り難くて絶叫して泣きました。
声を張り上げることができないので、
口を押さえてウンウンとうめくように泣いたのです。

  
お祈りが終わると、
「さあ、食事をしましょう。
日本から来たメンバーはこちらへいらっしゃい」
と呼んでくださいました。

御夫人が心配して、疲れているのだから
早く食べて休んだほうがいいと勧めましたが、
「いや、いいんだ」とおっしゃって、
一人一人におかずを分けて、一緒に食事をしてくださったのです。

 
私は、その先生の姿をじっと見つめて、
いい知れぬ懐かしい思いにかられていました。

この方はなんと偉大な人なのだろう。

いくら神様からこの世の人々を救ってほしいと
啓示を受けたからといって、
縁もゆかりもない全くの他人の私たちのために、
朝から晩まで語り続け、目に隈ができ、
声がかれて足の裏が痛くなっても、大地をたたいて泣きながら、
この子たちを祝福してくださいと天にすがるように祈り、
また私たちに対しては、最後まで神様の願いの地上天国を建設し、
人類を救わなければならないと厳しく叱咤(しった)しつつ、
み言(ことば)を与え、悪いところを削り落として、
立派な人間につくりあげようと苦労されているのだ。

こうして普通の人では考えられないような、
人智を越えた苦労を思った時、
“この人こそ私の真(まこと)の親だ”という強烈な思いが、
実感として胸に迫ってきたのでした。

この人こそ私の真の救い主だ、本当のお父様だ。
私の永遠の生命を保証し責任をもってくださる、
私の悪い思いをみなぬぐい去り、立派な神の娘として
成長させてくれるこの人こそ本当のお父様だ!

私は心の中で、何度も何度もそう叫んでいました。

すると、自然にわき上がってくる思いに心は燃え、
この感謝の気持ちをどう表現していいか分からず、
9回も10回も先生に敬礼しながら、
私はただ涙にむせぶばかりでした。

そして、ようし! これから日本に帰って、私は命を懸けて働くぞ!
という決意がふつふつとわいてくるのでした。


この時まで、先生はあまりにも偉くて怖い人でした。

けれども、韓国に来て、実際に先生がやっておられることを見、
涙で語る言葉と執り成しの祈りを聴き、
私たちのために疲れている姿を見た時に、
震いつきたいほどに先生が恋しく、慕わしくなってきたのです。

そして、この方こそ私のお父様だ、
永遠の命の親だということをはっきりと知ったのでした。

この出会いによって、それまでとは全く違う、
親子という深い心情のきずなを結ぶことができたのでした。

  
日本に帰る前に、兄と二人で母のお墓参りに行きました。

母はクリスチャンでしたから、二人で墓の前にひざまずいて、
「お母さん、あなたは十字架の道を歩んできましたが、
私たちは、そういうお母さんに導かれて、
十字架の道を越えて神の創造目的を全うしようとする
世界基督(キリスト)教統一神霊協会に入りました。
ありがとうございました」と報告したのでした。

お世話になった兄に背いて家を飛び出した時は、
兄にはずいぶん反対されました。

けれども今は、
天国建設のための神の偉大なるみ旨の道を、
二人そろって歩んでいるのです。

その幸せをかみしめながら、
希望に満ちて日本へと帰ってきたのでした。

松本 道子(1916〜2003)・著(光言社・刊
『信仰は火と燃えて―松本ママ奮戦記―』より)
「親子のきずな」

https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=13976
信仰は火と燃えて 16
(blessed lifeより)


松本ママが韓国で出会われた真のお父様。
叱咤しながらも、貧しい生活で苦労して歩んでいる、
韓国の食口たちに対して、
とりなしの祈りを捧げられる真のお父様でした。

松本ママが日本で多くの精誠を立てられたので、
神様がお父様の真の姿を見せてくださったのかもしれません。

私たちがいつも拝見する真の父母様も
いつもは堂々としておられますが、
背後においては、「私」の歩みを見られて、
とりなしの祈りを捧げてくださっているのだ、
そんな思いにもさせられました。




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2022年05月14日

神のために命を捧げると誓ったわけ・・奇跡の証し  《松本ママ奮戦記》



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松本ママの「信仰は火と燃えて」より、
「奇跡」というタイトルの証しです。


クリスチャンセンターで、毎週月曜日に行われる
早天祈祷会では、祈祷のあと、
みんなで朝食をとりながら茶話会のひとときがもたれ、
毎週一教会ずつ、自分の教会を紹介し、
(あかし)をしあっていました。

その順番が私にも回ってきたのです。

牧師の中には「松本にやらせるな」と
強硬に主張する人もいましたが、
賛成してくれる人も多く、その人たちが
「この次は松本さんの担当になっていますから」
と言ってくれたのです。

それで牧師たちもしぶしぶながら承諾し、
統一教会の宣伝はしないという約束で、
私は証をさせてもらうことになりました。

牧師たちは、一応承諾はしたものの、
それを発表したあとでも、私がこの時とばかりに
統一教会の宣伝をするのではないかと
随分気を揉(も)んだようです。

けれども私としては、初めからそんな気はありませんでした。
私はクリスチャンに、
神様の心情を伝えたかっただけなのです。

当日は、120人ほど集まったクリスチャンの前で、
神様の愛についての話をしました。

自分の身に起こった実際の出来事を例にとりながら、
神の愛は親の愛を通して知ることができる
ということを次のように証したのです。

 
私がまだ化粧品のセールスマンをやっていた時のことです。

終戦の混乱の中で、激しい生存競争に勝ち抜くために
誰も彼もが必死になっている時代でした。

私は、朝鮮人というハンディを背負いながら、
何よりもまず実力をつけようと人一倍努力していきました。
そして、売り上げを伸ばすために行われる
販売競争で第一位になったのです。

それまでは朝鮮人ということで様々な差別がありましたが、
私はついに一流セールスマンになり、
会社の中でもとても優遇してもらえるようになりました。

そして、その販売競争のあと、
会社で慰安旅行に行くことになったのです。


ところが、私がその旅行に出掛けたその日、
旅先に娘が自殺を図ったという電報が届いたのです。

「ケイコキトクスグカエレ」

その電報を見るや、あまりの衝撃に手はぶるぶる震え、
顔から血の気が引いていくのが分かりました。
なぜ? なぜそんなことを!
娘が自殺するなど思いもよらなかったのです。

私は旅先からすぐ、娘が運ばれた病院へと急ぎました。
早く、早くと焦る気持ちの中で、彼女は
なぜ死のうなどと思ったのだろう、と考えました。

貧乏だから人生を悲観して自殺を思いたったのだろうか。
あれこれと考えてみるのですが全く見当がつかないのです。
顔は青ざめ、生きた心地がしませんでした。

 
病院に着いてみると、娘は
臨終を迎える人たちの入る病室に入れられていました。
死ぬのを待っている、死の直前の人を入れておく部屋なのです。

娘の顔をのぞき込むと、大きな目を見開いて、
瞳孔(どうこう)が開いた目で天井を凝視(ぎょうし)していました。

体は硬直し、のどには痰(たん)がからんで
かすかに息をしているだけで、まさに死の直前の状態でした。

その恐ろしいような娘の変わり果てた姿を見た時、
私はショックで息が止まるほどでした。

その瞬間に分かったのです。
娘がなぜ死ななければならなかったか、
私は娘の顔を見た瞬間、
ああ、何か失敗したな、と直観しました。

 
そして、ここまでの事の成り行きに思いをめぐらした時、
私の心には娘に対する
恨みのような思いがわき上がってきたのです。

愛する者に裏切られたような、
さみしさと憎しみとが入り交じった複雑な気持ちでした。

「あなたは私の娘よ、私の子供よ。
あなたはお母さんにさよならの一言も言わないで死んでいくの。
私がこれまでどれほどあなたに尽くしてきたか、
どんなにあなたを愛したか、あなたのために
一生懸命働いて努力している私を残して、
自分で自分の生命を絶とうなんて、何事ですか」

私は、もう悲しくて、くやしくて、無我夢中で叫びつつ、
薄情な娘にすがって泣きました。
泣きながら、助かってくれるように、
(よみがえ)ってくれるようにと願ったのです。

「あなたは私の気持ちを考えず、私を裏切り背いたけれども、
誰が何と言おうとあなたは私の子供なのよ。
私の娘なのよ。
私を捨てて行かないでちょうだい。
お母さんは、あなたのためにこんなに苦労して、
こんなに愛しているのよ、
お母さんの心を知ってちょうだい」

そういう思いを込めて「敬子、敬子」と
泣きながら呼んだのです。
三日三晩、私は泣いて祈りました。

 
病室の寝台の周りをぐるぐる回りながら、
土下座してイエス様を呼んだのです。

「これは私の罪です。
私は娘を盲目的に愛するだけで、神様を
教えることもせず、信仰も与えることができませんでした。

私は17歳で結婚し、28歳で未亡人になってから
きょうまで、いろいろ悪いこともしてきました。
私がそういう多くの罪を犯したために、
今娘がこんな目に遭うのでしょうか。

私は天罰を受けているのです。
私を許してください。
神様、私を許してください。

どうか娘を助けてください。
娘を助けてくださるなら、私はこの身を
一生あなたに捧げましょう。

私はあなたのために生命をささげます。
一生神様のために働きます」

  
その時は娘を助けたい一心で、
神様の前にとてつもないことを言っていました。

もはや医者にも見放され、そこにはもう誰もおらず、
死にかけた娘と私だけが取り残されていました。

三日三晩、寝ないで泣き続けたので、
顔が腫(は)れ、次第に体中が腫れておかしくなってしまいました。

それでもかまわず、私は大きな声で
「敬子!」と呼びながら神様に祈り続けたのです。

その悲しい祈りの声が、
病室の隅々にまで響いていました。

病院には多くの人が入院していましたが、
私が死人の部屋で泣き叫んだり祈ったりしているものですから、
入院している人たちは眠れないのです。

そんなこととは知らず、私はただ夢中で、
子供を救うために、寝台の周りを回りながら祈り続けていました。

  
すると、三日目の朝、
もう助からないはずの娘の目が動いたのです。

私は驚いて、転がるようにして部屋を出て
医者を呼んできました。

医者が電燈を目に当ててみると、
確かに目が動いていました。
奇跡が起こったのです。

それから病院中が大騒ぎになり、
注射をしたり酸素吸入をしたりして、
四日目の朝ようやく蘇ってきたのでした。

もうだめだと宣告されて四日目に、
完全に目が覚めて意識が戻ってきたのです。

 
おしめを洗うために、洗濯場までの長い廊下を
歩いていくと、みんなが私の顔を見ていました。

私は、会う人ごとに、
「私の娘は生き返ったんですよ。
死んでいた私の娘は蘇ったんですよ」
と言って歩きました。

するとその人たちは、
「夜な夜なあなたの泣く声、祈る声を聞いていました。
娘さんよりあなたが泣いている姿のほうが
かわいそうで、あなたのその祈りがかわいそうで、
私たちも祈ったんですよ」と言うのです。

何の関係もない人が、泣いている私を見るに見かねて、
祈ったというのです。
異常なほどに嘆き悲しむ姿を見ていて、
みんな、私のために祈ったというのです。

「あのお母さんの祈りを聞いてやってください」
と言って祈ったということを聞いて、
私は心から感謝しました。

  
私の娘は、私の祈りと
みんなの祈りによって生き返ったのです。

その後、娘は一週間ほどで退院することができました。

娘は、自分の生命を絶つようなことをして
親を裏切り、親不孝をした子供でしたが、
私はすべてを許しました。

そして、ただひたすら帰ってきてほしいと祈ったのです。
これが親の心というものでしょう。

堕落した人間の親であってもこのように深い愛情があるとするなら、
神様においてはいかばかりでしょうか。

神様は、私たちがどんなに罪を犯しても、
すべてを許し、早く神様の懐に
帰ってきてほしいと願っておられるのです。

娘の死を目前にして、私は
自分の中にわき起こってくる様々な思いを通して、
深い親の愛、神様の愛を知ったのでした。

 
イエス様は、
「あなたがたは目を覚まして一生懸命伝道しなさい。
神の国のために働きなさい」とクリスチャンに対し、
いろいろなことを言われています。

けれども、私たちはその言葉を守っていないと思うのです。
もし私が娘に神様の存在を教え、信仰を教えていたら、
娘は自殺などしなかったでしょう。

私が眠っていたので、娘は一人で苦しみ、
何の解決もできぬままに死を選んでしまったのです。

幸い娘は奇跡的に助かりましたが、
世の中には同じような人がどれほどたくさんいることでしょうか。


私たち神を知る者は、神様の存在を伝えなければなりません。
それがイエス様の願いです。

私たちは眠っていて神様の心を痛めてしまいました。
けれども、私たちが悔い改めて神様のために立ち上がるなら、
神様はきっと私たちを許して、笑顔で受け入れてくださるでしょう。

私はそう確信します。

神様は私たちの親なので、決して私たちを捨てることができません。
私たちがどんなに神様の期待と愛を
裏切って離れていったとしても、胸の痛みをこらえながら、
私たちを許し救おうとされるのです。

私たちが本当に神様の子供であるなら、
どんなことがあっても神様の願いに生きなければなりません。

今、悔い改めて立ち上がる時が来ているのです。
皆様、神様の願いの前にいかに自分が足りないかを
悔い改めて、立ち上がろうではありませんか。


私の証が終わると、
みんな大きな拍手をして握手を求めてきました。

心の中では警戒しながらも、私が
統一教会の宣伝ではなく個人の証をしたので、
恐る恐る握手を求めてきたのです。

これによって、また一歩
クリスチャンの心に近づくことができたのでした。

松本 道子(1916〜2003)・著(光言社・刊
『信仰は火と燃えて―松本ママ奮戦記―』より)
「奇跡」
(blessed lifeより) 15
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=13894


松本ママの娘さんの証し、
初めて知りました。。。

本当に『奇跡』ですね。

真のお父様が解かれた新しい真理、
『統一原理』は、万民のための
救いのみ言、福音のみ言であります。

誰もが聞いたらどんなにいいだろうか、
本当に心からそう思います。

しかし、教会に対する中傷、
お父様に対する批判などが一つの壁となって、
み言を聞くことができないのです。

松本ママは、娘さんの証しを通して、
神様の心情を深く伝えていかれました。
本当に素晴らしいと思います。

天一国時代を迎え、さらには、
『天の父母様聖会』という
大きな傘が誕生した時を迎えました。

この傘に一緒に入っていただけるように、
松本ママの勝利の証しを
相続していきたいと思います。


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2022年05月10日

文先生が、マラリアでも仕事を休まなかった理由 〜死の収容所で〜 《金元弼先生》



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金元弼(ウォンピル)先生のみ言。
今回は、「犠牲と奉仕にサタンは屈服」です。

 
(文)先生は二年八か月という間、
牢屋(興南刑務所)でどういう仕事をされたか、
お話ししたいと思います。

朴(正華)さんは、先生が天の愛する、
天に遣わされた方であることを知りました。

それで、先生が刑務所の中で働かれる仕事が
あまりにも厳しいと感じ、また弟子ですから、
先生が苦痛を受けるのは自分の苦しみのように感じました。

そこで先生に、彼は総監督でしたから、
「そういう苦しいことをしてはいけません。
私が話をすれば、非常にたやすい仕事に就けますから、
是非ともそちらを選ぶように……」と言いました。

しかし先生は、「この刑務所の中で一番つらい仕事は何か」
とお聞きになり、その一番つらい仕事を
喜んで自らお選びになったのです。

 
サタンはいろいろな形で一番近い人を通して
試練をしてくるのです。

神によって導かれ、み旨を知って従ってきた人たちが
勧めることならば、喜んで受け入れなければ
ならないように思うのですが、
先生はそうはなさらなかったのです。

復帰摂理の中で、神のみ旨のために
すべてを尽くして死んでいった
たくさんの先祖、先人、先者たちがいることを考え、
先生は最も難しい仕事を探し求めて、
その仕事に誰よりも尽くしきることをお決めになったのです。

それによって、今まで死んでいった
すべての人たちの恨みを解放し、
蕩減復帰するという一念でいらしたのです。

死んでいった人たちは、神のみ旨のために
苦しみながらも、成功を見なかったのです。

ですから、先生はそういう人と同じような
難しいところで勝利することによって、
すべての人たちが解放されていくのだと考えたのです。

  
皆さん、ある人が非常に寂しい中にあって、
その成そうとしたことを成しえずして、
勝利しえずして霊界へ行ったとしましょう。

そういう人の恨みをどのようにしたら解放できるでしょうか。
それは、その人が苦しんだのと同じ立場に立った人が、
それを勝利することで解放されていくのです。

自分にはできなかったことを、この人がやってくれたのだから。

考えてごらんなさい。
サタンと闘って負けたとします。
代わりの人が立って闘いましたが、
また負けてしまいました。

この人たちは同じ目的をもってやっているのです。
そして最後の人が闘って勝利しました。

そしたら、この人たちが十人だとすると、
人は違うけれども、サタンと闘うという
み旨を中心として見たら、同じ目的の人なのです。

ですから、最後の人が勝利することによって、
勝利できなかった人たちの恨みは、
全部払われていくというのです。
自分が勝利したという立場に立っていきます。

  
では皆さん、第一のアダム、第二のアダム、
第三のアダムについて考えてごらんなさい。

第一のアダムは失敗しました。
第二のアダムも完全には成功しませんでした。
それゆえに恨みがあるわけです。

しかし、第三のアダムが勝利することによって、
第一のアダムも第二のアダムも
全部が勝利したという立場に立つのです。

  
収容所、刑務所は地獄と同じであり、
その地獄の中でも一番難しいところを勝利することによって、
今まで勝利できずに復帰摂理の中で倒れていった人の
すべての恨みを晴らしてあげようというのが先生の立場でした。

それで、一番難しい仕事を見付けて、
それを勝利しなければならなかったのです。

先生が二年八か月の間に
三回の模範労勧賞をもらったということは、
先生は完全勝利することができたということです。

それは、サタンが先生を認めたことになるのです。

 
私たちはこのように神様から、メシヤから、天使から、
そして人々から、「あなたこそ真の子女です」
という認定を受けなければいけないのです。

さらにサタンから認められなければいけません。

ですから私たちが三六〇軒の人々から
「あの人は本当に神の子です。
間違いありません」と認められなければ勝利できません。

 
そしてサタンから認められるためには、
サタンができないことをしなければいけません。

サタンには、犠牲、奉仕ということはありません。
だからこそ、犠牲となり、奉仕する人の前には、
サタンもそれを認めざるを得なくなるというのです。

自分ができないことをするから、
サタンは認めるというのです。

 
皆さん、愛というのは、ちょうど明かりのようなものです。

昆虫が明かりを求めて集まるごとく、
すべての人はもっと明るい所に集まります。

明かりとは高い愛をいうのであり、
高い愛のある所には、すべての存在が集まってきます。

愛は生命、満足、理想すべての根本になりますから、
サタンも好みます。

ところがサタンは、愛を生命視できても、
犠牲の愛を行うことはできないのです。
天使長は自己中心の愛から始まり、犠牲的愛、
為に尽くす愛をなしえなかったという労働であったのです。

 
そういう中で先生も天然痘にかかり、夏にはマラリアにかかりました。

マラリアというのは、マラリア蚊に刺されるとなるのですが、
その病気は、一日熱が出たらまたすぐ悪寒がして震えがきます。
そしてまた熱くなって震える、そういう現象を起こします。

それが十日間余りも続いたのです。

 
共産主義の方針は、「働かざる者は食うべからず」であり、
それが標語、生活哲学のようになっていました。

病気であっても働かなければ、平常と同じ分量はもらえません。
食料を減らされるのがつらくて、いくら痛くても、
痛みを感じながらも出て行って、働かなければなりませんでした。

そういう人たちとは違って、先生は
どういう難しいことがあっても必ず出て
責任を果たさなければならないという一念で、
一日の欠勤もなく働かれました。

先生は、これは人間始祖の堕落の報いから来るものである
と思われ、それを感謝して受けて、
過去の義人聖人たちがみ旨の道を歩みながら
悲惨に死んでいったことを思い、
彼らの恨みを晴らしてあげなければならないとい一心で
その苦難を耐えていかれたのです。

  
先生は天宙の蕩減という問題を御自身で受け、
これを成し遂げなければならない立場です。

そのために、そういう苦労を
一個人の苦労として受けたのではなく、
天宙的な苦労としてこれに対したのです。

その場合、この労働というものは、
天宙的労働として先生の身を悩ませたということを
考えなければならないと思うのです。

義人聖人たちが歩んだ十字架の路程を
勝利でもって貫かなければ、そういう人々の恨みを
解くことはできないと考えておられたのです。

もし先生がこれを勝利できないとするならば、
歴史の中、摂理の中で死んでいった人を
誰が蕩減し、恨みを晴らしていくのだろう、
ということを考える時に、先生は
死に物狂いでそれを勝利しなければならなかったのでした。

これが勝利できなければ神の復帰の摂理は成らない、
という気持ちで、どんなことがあっても
朝五時には起きて体を整え、その仕事を果たしていかれたのです。

  
刑務所から労働する興南工場まで、
三、四キロメートルの距離ですが、行列をつくって行きます。

先生を訪ねたとき、私が見ていたら、
五、六人が横に並び、そして縦隊になっていました。

お互いに手を握らせ、顔は絶対に
下向きにして行かなければなりません。
両側には、武装した看守がつきます。

なぜ手を握らせるかというと、脱走できないようにするためです。
人の手で作られた柵みたいなものです。

もし一人が逃げ出したら、その両側の人が
罰を受けるようになります。

そして顔をなぜ下向きにさせたのかといいますと、
工場は社会の中にありますから、牢屋から工場へ行く間に、
一般の人たちがいるのです。

それでそういう人たちと何か目で合図したり、
連絡ができないようにするためなのです。

  
朝六時の起床時間に起きると、
マラリアにかかったときは、歩いても足に
力が入らないので、自分も知らずに
ガタンと踏み誤って倒れることが、何回もあったのでした。

そして、本当にひもじい時には、
非常に粘り気のあるつばが、よだれみたいに出てきました。

そういう仕事の連続の中で、
先生は歯を食いしばって責任を果たされたのです。

先生は模範労働者として、模範賞を三回も
お受けになったということを見ても、
どれくらい熱心に仕事をなさったか、
苦労されたかということがお分かりになったと思います。


その当時、日曜日の仕事は全部休みでした。
一緒にいた金(元徳)さんが牢屋から出られて、
私と会った時に、彼は次のように話してくれました。

「人々は日曜日には疲れに疲れて、
みんな昼間も寝転んでいるけれども、
自分は牢屋に一緒にいながら、
めったに先生が寝るのを見ることができませんでした。
いつも先生は座って瞑想をしておられました」というのです。

先生は、その刑務所の中で働いている
数多くの人々の誰よりも、一番険しい苦難を
勝利しなければならないという心構えでおられたので、
日曜日も休まずに、いつも瞑想にふけっておられたのです。

先生はそういうふうに苦労しても、
今まで苦労してきた人々の恨みを
解放してあげなければならない、
そのためには十字架の路程を勝利で
貫かなければならない、そういう決心を
一日も忘れたことはないというのです。

 
そうした中で、先生の心を最も悩ませたのは、
一か月に一度反省文を書くことでした。

共産党の理念にかなった生活が
できなかったことに対する反省文です。

「私は共産党の理念のために忠節を尽くします」
と書かせるのが、反省文の目的でした。

先生は二年八か月の間、自分の手で
そういうことを書かないようにすることが、
難しいことの中でも、さらに難しいことでした。

それは心になくても、共産主義を
賛える文章を書かなくてはならないからです。

その文章を書くことは、神を否定することに
近いことなのですから、それはできないことです。

それで先生は、出所されるまで
その反省文を書かなかったというのです。

とても書き難かったので、
先生御自身は書かれずに、
周りの人が代わって書いたのです。

平壌開拓から興南解放
第三章 興南監獄での伝道
「犠牲と奉仕にサタンは屈服」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題


興南でのお父様の歩み。。。
内外ともに、勝利を打ち立てられた歩みでした。

誰よりも苦労と犠牲の道をいくことで、
救われる人たちがいることを知っていたので、
どんな困難も乗り越えていかれたお父様。

たった一人、孤独な道を歩むとしても、
犠牲の道、十字架の道を行かれた
イエス様や義人聖人たちとともにおられたからこそ、
克服することができたのだと思います。

休みの日にはずっと祈っておられた
ことからみても、神との交流で
力を得ていたのに違いありません。

私たちも、苦労の道、誰も理解しえない道だったとしても、
先祖の身代わりで歩んでいるのであり、
今や過去のすべての人たちの代表の立場です。

一挙手一投足、勝利された真の父母様も
乗り越えていかれたのだ、
そんな思いをもっていきたいと思うのです。




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