松本ママ『信仰は火と燃えて―松本ママ奮戦記―』より
今回は、「親子のきずな」です。
☆
親子のきずな
(大阪では)多くの人々が集まってくるようになると、
寺田町にあった教会もいよいよ狭くなってきました。
そこで、もう少し大きい所に移ろうと鶴橋に家を見つけ、
汚い長屋をあちこち直して、さあ、行こう!
と意気込んでいる時、突如として
東京に帰るようになってしまいました。
ちょっと拍子抜けした感じでしたが、もう大阪の基盤も
ほぼでき上がっていたので、すぐ東京に上がってきました。
1966年の秋のことでした。
東京での私の仕事は巡回師でした。
小河原節子さんと二人で北海道から九州まで、
弥次喜多の親子版のようにして回りました。
「パパ」と呼んで慕ってきた西川先生は、前年、
アメリカの開拓のため、
韓国からサンフランシスコに行ってしまわれました。
今まで、すべてを委(ゆだ)ね、頼ってきた先生が
アメリカに行ってしまうと、何か無性に寂しくて、
心の中にぽっかりと穴が開いたようでした。
ちょうど子供をほっぽり出して、
親がどこかに行ってしまったような気持ちで、
その寂しさをこらえながら、一生懸命巡回して回ったのです。
▲アメリカに帰られる西川先生をお見送りして(羽田空港・1967年3月29日)
☆
その後、1968年に韓国に行く機会が訪れました。
そのころには、兄と姪(めい)も入教して重要な任についていました。
私が統一教会に入教した時、(キリスト教の)牧師の話を真(ま)に受けて、
異端だといって6年間反対し続けてきた兄でしたが、
姪が「統一原理」を聴き始めたので、
とうとう兄も一緒に聴くようになったのでした。
そして、自分の耳で聴いてみて初めて、自分の妹は
偉大なことをやっているんだということを悟り、
即座に自分も入教したのでした。
私にとって、ソウルに行くのは生まれて初めてのことでした。
韓国の片田舎で生まれ、そこから、いきなり東京に来て
以来55年間、伝道のために名古屋に行ったり
大阪に行ったりしたことはありましたが、
それ以外はどこへも行かず、
まさに江戸っ子として育ってきたのです。
初めて祖国の都へ行くというだけでも
感動で胸がいっぱいなのですから、
その上に同じ志をもって意気投合し、
兄と姪と連れだって行くのは、まさに感慨無量でした。
☆
3月の最も寒い時でした。
この時韓国では、市民劇場を借りて
統一教会の合同結婚式が行われました。(430双)
この世のものとは思えない華麗で荘厳な結婚式を
目の当たりに見て、私は驚きのあまり胸が詰まり、
感激の涙をおさえることができませんでした。
その中には、日本の責任者である久保木夫妻と
(私の)姪も加わっていました。
結婚式が終わると、それぞれのカップルは
再び韓国全土に散っていきました。
私たちは、ソウルの教会の近くにある家に
泊まることになっていました。
私たちのためにわざわざ空けてくださったもので、
周りには統一教会創立のころから苦労してきた
大先輩がたくさん住んでいました。
そこでまず驚いたのは生活の貧しさでした。
その生活ぶりはひどく惨めなもので、
日本では私もずいぶん苦労したつもりでしたが、
私の苦労など及びもつかないもののように思われました。
天上のことのように華麗な結婚式と
あまりに貧しい生活、韓国に着いてからは、
何から何まで驚きの連続でした。
☆
そのころ文先生は、結婚した教会員の教育のために、
全国を巡回していらっしゃいました。
釜山(プサン)から順々に、教会がある所へはすべて行かれました。
そして、先生がソウルの近くの水原(スウォン)という所に来られた時に、
私は先生のお話を聴きたくて、
兄と一緒にはるばる出掛けて行ったのです。
雪の降る夜、ジープに乗って
水原の教会に着いたのは午後6時ごろでした。
先生は8時ごろ到着され、すぐお話が始まりました。
それは私が韓国語で聴いた初めての話で、
聴いているうちに今までにない不思議な気持ちになってきました。
先生に会うのは今回が初めてではないのですが、
日本で会った時とは全く違う近さ、親しさを感じたのです。
日本に来られた時の先生は、
自分とはとても遠い人のような気がしました。
“あの人がこの偉大なる原理を解かれた人だ”という
畏敬(いけい)の念が先立ってしまい、
すべてを見抜かれているようで、
目を見るのが怖く、いつも下を向いていました。
偉い人だ、怖い、とただそれだけで、
慕わしい思いなどわいてくる心のゆとりがなかったのです。
パッと見る時の目が怖くて、
毎日縮みあがってぺこぺこするだけでした。
☆
ところが、この日は違っていたのです。
先生は韓国中を巡回してきたので、声はかれ、
目は引っ込んで、体全体が疲れているようでした。
目の下には隈(くま)ができていて、会った瞬間、
「ずいぶんお疲れのようだな」と思ったほどでした。
先生と一緒に巡回してきた教会の指導者の人たちは、
もう疲労困憊(こんぱい)してしまって、
こっくりこっくり居眠りをしています。
けれども先生だけは、カッと気力を出して語っているのでした。
先生の話は言葉が早く、聴き取りにくいのですが、
一つ一つの言葉の響きが
とても懐かしく親しみを感じるのです。
もちろん話の内容もすばらしいものでしたが、
それよりも韓国の親しい言葉が、
理屈ぬきでひしひしと私の胸に迫り、
何か温かいものが伝わってくるようでした。
先生は、集まった人々に向かって、
厳しくしかったり決意を促しながら、
時々足の裏をたたいていました。
ずっと立ち続けているので足の裏が痛いのです。
その疲れた様子を見ているうちに
「あんなに疲れてかわいそうだなあ」
という思いが込み上げてきました。
それは疲れた父を思いやるような気持ちでした。
☆
すると、その気持ちにたたみかけるように、
先生のお祈りの声が聞こえてきたのです。
「天の父よ」と親しく呼ぶその声音(こわね)、
そしてさっきまで厳しくしかっていた先生が、
とても優しい声で、僕(しもべ)が主人にお願いするように
礼儀を尽くして、神様に語りかけているのです。
「ここに集ったあなたの子供たちは、
あなたの願いを知って、それを全うすることに
青春を賭(か)けてきました。
食べるものがなく、着るものがなくても、
こぶしを握って裸で走ってきたのです。
どうかここに集まったあなたの子供たちをあなた自ら祝福し、
最後まであなたの前に忠誠を尽くすことができるように、
あなたの天軍、万軍をつかわして助けてください」
と切々と神様に訴え、私たちのために
執り成しの祈りをしているのです。
先生は泣きながら祈っていました。
その祈りを聴いていると、私のために祈ってくださっている
ということがひしひしと感じられて、有り難くて絶叫して泣きました。
声を張り上げることができないので、
口を押さえてウンウンとうめくように泣いたのです。
☆
お祈りが終わると、
「さあ、食事をしましょう。
日本から来たメンバーはこちらへいらっしゃい」
と呼んでくださいました。
御夫人が心配して、疲れているのだから
早く食べて休んだほうがいいと勧めましたが、
「いや、いいんだ」とおっしゃって、
一人一人におかずを分けて、一緒に食事をしてくださったのです。
☆
私は、その先生の姿をじっと見つめて、
いい知れぬ懐かしい思いにかられていました。
この方はなんと偉大な人なのだろう。
いくら神様からこの世の人々を救ってほしいと
啓示を受けたからといって、
縁もゆかりもない全くの他人の私たちのために、
朝から晩まで語り続け、目に隈ができ、
声がかれて足の裏が痛くなっても、大地をたたいて泣きながら、
この子たちを祝福してくださいと天にすがるように祈り、
また私たちに対しては、最後まで神様の願いの地上天国を建設し、
人類を救わなければならないと厳しく叱咤(しった)しつつ、
み言(ことば)を与え、悪いところを削り落として、
立派な人間につくりあげようと苦労されているのだ。
こうして普通の人では考えられないような、
人智を越えた苦労を思った時、
“この人こそ私の真(まこと)の親だ”という強烈な思いが、
実感として胸に迫ってきたのでした。
この人こそ私の真の救い主だ、本当のお父様だ。
私の永遠の生命を保証し責任をもってくださる、
私の悪い思いをみなぬぐい去り、立派な神の娘として
成長させてくれるこの人こそ本当のお父様だ!
私は心の中で、何度も何度もそう叫んでいました。
すると、自然にわき上がってくる思いに心は燃え、
この感謝の気持ちをどう表現していいか分からず、
9回も10回も先生に敬礼しながら、
私はただ涙にむせぶばかりでした。
そして、ようし! これから日本に帰って、私は命を懸けて働くぞ!
という決意がふつふつとわいてくるのでした。
☆
この時まで、先生はあまりにも偉くて怖い人でした。
けれども、韓国に来て、実際に先生がやっておられることを見、
涙で語る言葉と執り成しの祈りを聴き、
私たちのために疲れている姿を見た時に、
震いつきたいほどに先生が恋しく、慕わしくなってきたのです。
そして、この方こそ私のお父様だ、
永遠の命の親だということをはっきりと知ったのでした。
この出会いによって、それまでとは全く違う、
親子という深い心情のきずなを結ぶことができたのでした。
☆
日本に帰る前に、兄と二人で母のお墓参りに行きました。
母はクリスチャンでしたから、二人で墓の前にひざまずいて、
「お母さん、あなたは十字架の道を歩んできましたが、
私たちは、そういうお母さんに導かれて、
十字架の道を越えて神の創造目的を全うしようとする
世界基督(キリスト)教統一神霊協会に入りました。
ありがとうございました」と報告したのでした。
お世話になった兄に背いて家を飛び出した時は、
兄にはずいぶん反対されました。
けれども今は、
天国建設のための神の偉大なるみ旨の道を、
二人そろって歩んでいるのです。
その幸せをかみしめながら、
希望に満ちて日本へと帰ってきたのでした。
松本 道子(1916〜2003)・著(光言社・刊
『信仰は火と燃えて―松本ママ奮戦記―』より)
「親子のきずな」
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=13976
信仰は火と燃えて 16
(blessed lifeより)
『信仰は火と燃えて―松本ママ奮戦記―』より)
「親子のきずな」
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=13976
信仰は火と燃えて 16
(blessed lifeより)
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松本ママが韓国で出会われた真のお父様。
叱咤しながらも、貧しい生活で苦労して歩んでいる、
韓国の食口たちに対して、
とりなしの祈りを捧げられる真のお父様でした。
松本ママが日本で多くの精誠を立てられたので、
神様がお父様の真の姿を見せてくださったのかもしれません。
私たちがいつも拝見する真の父母様も
いつもは堂々としておられますが、
背後においては、「私」の歩みを見られて、
とりなしの祈りを捧げてくださっているのだ、
そんな思いにもさせられました。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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