2022年04月02日

釣りで運勢が見える、釣れた人に大役を アボジに釣られた私 《小山田先生の自叙伝》



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小山田先生の自叙伝。
「神様の心情圏に通じる釣り」と
「真のお父様に釣られた、『私』」です。

神様の心情圏に通じる釣り

改めて、真の父母様にとって
釣りとは何かを考えてみます。

真のお父様は、
「精神統一を成し、生死を超えてやる。
 ほかのことを考える余裕がない。
 だから釣り竿の竿先を見ながら、宇宙を描くのである」
とおっしゃいました。

真の父母様は、正眼の構えで
竿先をご覧になるのです。
その瞬間、「神様の心情圏と通ずる」
というのです。


さらに、釣りは
「人の運勢を見る身近な方法だ」と指摘されます。

釣りをしてみると、運がある人、
ない人の違いがはっきり分かります。
技術は二の次で、まず運があるかどうかが重要です。

それは釣り竿によっても違います。
きょうはこの竿に運があり、こちらの竿にはないというのです。

大きな魚が釣れるならば、運があることが分かるのです。
そして、大きな魚を釣った人には、
大きな仕事を任せるというのです。

真のお父様に釣られた、私

私は約五十年間、釣りをしてきましたが、
私の釣りの師匠は真の父母様です。

かつて、ベルベディアでの 礼拝のあと、
お父様が「きょう、釣りに行きたい者?」
とお尋ねになったので、私が手を挙げました。

お父様は、いかにも軽蔑するようなまなざしで
私をご覧になり、「おまえなんか、
船に乗れば嘔吐(おうと)して
甲板を這いずり回るのが関の山だ」とおっしゃったのです。

頭にきた私は、「いくらメシヤであっても、
言って良いことと悪いことがある」と思ったのです。

しかし、それが、お父様の釣りでした。
私が釣られた、のです。

私は、いつもお父様から叱られ、頭にくることで
釣られてきた、のです。
お父様は本当に私たちのことをよくご覧になっています。


船上で私は「酔うものか」と強く意識していました。
すると、徐々に体が慣れて酔わなくなりました。

おなかに水分が溜まっていると酔います。
酔わないためには、余分な水分を取らないことです。

また、波で船が揺れる角度も影響します。
揺れる場所にも慣れることです。


かつて久保木会長からは
船酔いのつらさをよく聞かされました。
それであえて「釣りをしよう」という気にはなれませんでした。

聖書に「あなたの見た水、すなわち、
淫婦のすわっている所」(ヨハネの黙示録十七章5節)と書いてあることから、
クリスチャンで、泳ぎの下手な私には
海に行きたいという思いは湧いてきませんでした。

しかし、真の父母様が釣りをされるのには
何か大きな理由があるのではないか、
機会があれば私も釣りをしてみたいと思っていたのです。


私は周りから、「お父様のいる所を、
いつもついて回るのが小山田だ」と言われました。

そのことを聞かれたお父様は、
「なぜおまえを連れて回るのか。
おまえは何ももたない男だ。
何もない男だから、先生に
ついて回ったことだけが、おまえの宝物だ。
それでおまえを連れて回るのだ」
とおっしゃったのです。

第十章 人類の食糧問題を解決する海洋摂理
神様の心情圏に通じる釣り
真のお父様に釣られた、私


釣り竿の竿先を見ると、
「神様の心情圏と通ずる」
と言われる真のお父様。。。

釣りをしないので、全く分からないのですが、
それが釣りの境地なのだと思います。

また、お父様に「釣られた」小山田先生の証しは、
前にも一度紹介したことがあるかもしれません。
まさにお父様は「釣りの天才」ですね。

私たちも見えないお父様=神様に「釣られて」
ここまでやってまいりました。
これからも、神様の御意のままに
歩んでいきたいと思います。




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posted by ten1ko2 at 12:51 | Comment(0) | お父様と海・釣り 自然・万物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月21日

平和を愛する世界人、釣りの世界でもNo1 になれた理由 《金元弼先生》





1976年に、日本で語られた
金元弼(キム・ウォンピル)先生のみ言
「神を慰める者となりましょう」より、
『誰が主人となるか』です。


昨年のことです。
海に出て、魚釣りをしたことがありました。

この魚釣りに関しては摂理的意義があったことは
御存じのことですので話しませんが、
ニューヨークの幹部の人たちを連れて出掛けられました。

もう本当に元気な人でもそれが十日、二十日と
何日も続きますと、先生が今釣っているのに
部屋の中に入ったり出たり、休んだりするのです。

この船の中で誰が最後まで残るのだろうか、
と心の中で思いながら、熱心に釣っていました。

ところが、その連れ立った者は全員くたびれて、
「海に行こう」と誘うと「何か用事がある」
と言って行かなかったり、行っても
疲れて休んだりしているというのです。

ずっと見つめてみたら、船長がいました。
その一人の人がいつも同じ顔ぶれなのです。
その人だけが残ったのです。

そこで先生は岸に着きました。
そうしたら彼は、まあこれで休むことになった、
と気を楽にしたらしいのです。

ところが先生は、陸に着いたらすぐにお食事を終わらせて、
すぐまた船に帰っていきました。
するとさすがのその人も、本当に疲れたということで、
もうよしましょう、ということになったというのです。


先生は、そういった人々に比べますと、
年を取っておられますが、
若者がいくら力を尽くしても耐えきれないという
その限界を超えるまでは、
御自分からはやめなかったというのです。

そのように、私たちから考えてみたら
くだらないことのように思うかもしれませんが、
先生は釣りをするにしても何をするにしても、
すべてのことに対して心を尽くし、
あるいは力を尽くされます。

誰にも耐えることのできない心をもって
尽くさなければならないと思われて対しておられるのです。


先生は、すべての国にたくさんの宣教師を送って、
命令だけをして黙っておられるのではありません。
先生は、世界の人々が心を尽くす以上の高い次元で、
休まず心を尽くしておられるのです。

家庭では誰が主人になるかといいますと、
主人は中心であり、親ですから、普通は親がなっています。

しかし、もし子供の中で、他の兄弟よりも親よりも
家庭を大切にし、家庭のために尽くす子供がいるとすれば、
その家庭の主人、その中心は、その子供になるわけです。
親があっても、親の責任を子供が果たしうるというのはそのことをいうのです。
幼い子供であっても、親がその家の中心になれずして、
あるいは兄さんがなれずして、末っ子の弟がなることがいくらでもあるのです。

同じように、み旨を知っている私たちは、
教会長だから教会の主人であると言います。
もちろん形状的にも性相的にも主人でしょう。
しかしもしその教会長が、中心でありながら、
その教会を大事にすることができなかったとします。
教会の人々も全部がそうであるとするならば、
その教会の主人は誰がなるでしょうか。
誰もなれません。
その主人は、サタンがなるというのです。

世の中でも、親兄弟がみんな家を大事にしないとしたら、
他の人がその家を大事にします。
下僕が大事にしたら、その家の主人は誰がなるのですか。
下僕がその家の主人になるというのです。
世の中には、そういうことがいくらでもあります。

教会長であるからこそ、誰よりもその教会を愛さなければいけません。
ところが、それをせずに、その教会を支えるために
教会長以上にその教会を愛し大事にする兄弟がいるとするならば、
その人によってその教会は支えられていくのです。

『伝統の源流−主と歩んだ教会創立以前の道』
金元弼
(「神を慰める者となりましょう」 
一九七六年四月四日東京教会)
※本書は、『信仰と生活第二集伝統の生活化』
を改題したもの


お父様の精誠の基準というものは、
本当に頭を下げざるを得ないものだと思います。

かつてアブラハムが象徴献祭に失敗したのは、
鳩を裂くのは、僕に任せたからだということでした。
牛や羊は裂いたのに、鳩は裂かなかった・・・
本当に小さなことをおろそかにした、というのです。

真の父母様は、大きな摂理を動かされる方ですが、
半面、コツコツと小さな精誠を積み重ねていかれました。

私たちも主人意識をもって、
精誠の積み重ねをなしながら
教会を愛するものになっていきたいと思います。




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2018年05月22日

嵐の中の航海「お父様と一緒に死ぬなら本望」?! 《真のお母様は幸運の女神》3



fishingTM2.jpg


真の父母様と釣りの証し。
今日が最終回です。


1989年春、真のお父様が考案された
新型漁船「ファイバーグラスボート」が出来上がり、
聖別式が行われました。

式が終わると、お父様が、
「さあ、マグロを取りに行こう」
とおっしゃいました。

新型漁船の責任者は
港周辺を試運転するつもりでいましたが、
いきなり本番です。


急遽、ロングライン(はえなわ漁の漁具)を積み込んでいると、
港の緊急警報が鳴り響き、
「ハリケーン接近」と聞こえてきました。
港口を見ると、漁船が次々に帰港していました。

その光景を見た責任者は、
慌てて真のお母様のもとへ駆け寄り、
真のお父様の出港を止めていただこうとしました。

ところが、おふたりはほほえみながら
休憩所から出てこられて新型漁船の前に着くと、
お母様がお父様に
「行ってらっしゃい」とおっしゃっているのです。

韓国の先生に確認すると、
「大丈夫だ。
真の父母様が手をつないで祈祷してくださった」
と言っていました。

港を出るとき、他の漁船は必死に
帰港しているのに、こちらは出港です。
複雑な心境ではありました。


外海に出ると、急に波風が強くなり、
ついに大波が漁船にぶつかって、
波の上に乗せられたり、
波間に落とされたりしました。

何しろ初航海の船ですから、
万が一どこかに不具合が起きれば、
粉々になって嵐の海に沈むのです。
そう思った瞬間、死の恐怖に襲われました。

誰もが真っ青になって沈黙した瞬間がありましたが、
真のお父様だけは穏やかな表情で
瞑想しておられたのです。

そのお姿を見て、ふと、
「お父様と一緒に死ぬんだったら本望じゃないか」
という思いが湧きました。
すると、死に対する恐怖心がすーっと消えたのです。

数分後、韓国の先生が
「お父様と一緒だ!すごーい」
と叫びだし、みんなで元気に
「イエース、ワンダフル」
と答えていると力が湧いてきました。

こうして嵐の海を乗り越えることができたのです。


嵐が去った後、はえなわ漁の仕掛けを
二時間だけして引き上げると、
メバチマグロやさまざまな魚が
掛かっていて大漁となりました。

港に戻ると、真のお母様が
満面の笑みで迎えてくださいました。

私は後になって気づきました。
あの死の恐怖心を乗り越えられたのは、
真の父母様が手をつないで
祈祷してくださった賜物だったということをです。



真の父母様は、荒天であっても、
絶対に大丈夫であると確信していたのでしょう。
というよりも、もしかしたら嵐が来ることも
わかっていたのかもしれませんが、
何があったとしても行かなければならないという
覚悟をもって海に出られたのでしょう。

ご父母様が心を一つにし
祈って出発したことは、必ずなされていくのだと思います。

そして、この先輩の通過した心情というのは、
み旨の道に通じるのではないかと思います。

どんな困難な状況であったとしても、
真の父母様と絶対的に一つになれば、
必ず道が開かれるし、勝利できるのだと。

真の父母様は先がお分かりになるけれど、
私たちはあまりにも無知なので、
これからの摂理がどのようになるか、
目の前のことだけを見ていると
不安にさえなったりします。。。

しかし、「摂理の春が来た」と語られるお母様。
今は黄金期であると。
勝利を確信しておられるお母様と一つになって、
み旨の道を突き進んでいきたいと思うのです。







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〜このブログの文字が小さいというご指摘について〜

いつも当ブログを愛読して頂き、ありがとうございます。
ごもっともなご意見なので、
即変更していきたいところですが
このsesaaブログのサービスでは、
通常のサイズと拡大と、縮小の
3タイプのサイズしかありません。

大きくするとなると拡大ですが、
pc用の画面で、1行24文字までになり
一つ一つの記事がとても長くなってしまいます。
いずれ大きくすることも検討したいと思いますが、
今しばらくは、これまでのサイズのままにしていきたいと
思いますので、小さくて不自由をおかけしますが、
皆様の方で、表示を拡大するなど
工夫して頂けるとありがたいです。

*Windowsの場合
Windowsマークと;(+のキー)で簡単にズームになります
ダイヤグラムが出るので、そこで
2倍にしたり戻したりすることができます



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