2024年10月07日

バナナの皮ひとつにも、捨てる前に掛ける言葉がある ごみ出しで幸運を引き寄せる 《浅川先生》



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久しぶりに浅川先生の紹介です。

「幸福を引き寄せる家庭の生活習慣」



「あなたはごみだ。だから捨てたのだ」
と言われたら、誰もが気分を害します。

「ごみ」「捨てる」の言葉には、
「不用で害になる」という情感が込められています。
そのため、人に対しては言ってはならない言葉です。

ところが、万物には平気で言っています。
ごみ捨て、ごみ箱、ごみ回収、
燃えるごみ・燃えないごみ、粗大ごみ……。

では、「ごみ」と呼ばれた万物は傷つかないでしょうか。

すべての万物には心があって、
人々に語りかけているのです。

人が愛情も感謝もなく食材を食べようとすると、
「食べ物が『口の中に入っていかない』と言って、
ぶるぶると震え……『私は悔しい』
と言いながら大声で叫ぶというのです。

彼らもみな、愛のために生まれたのです」

(『愛天愛人愛国』116ページ)


と文鮮明(ムン・ソンミョン)先生は語られています。


バナナを食べ終わって皮を放置すれば、
悪臭がただよい、ばい菌が繁殖して、
生活に害をもたらします。

だから、「燃えるごみ」と称して捨てるのですが、
皮は、人に中身を食べさせるために、
苦労と精誠を捧げたのです。

夏の暑い日差しを浴び、風雨にさらされながらも
中身を守って育てたのです。
バナナの中身は皮の精誠の結実なのです。

だから、皮に対して心から感謝すべきです。

邪魔だから焼却するのではなく、
人間の食生活を豊かにするために、
天から来て使命を果たしてくれたので、
天にお送りするのです。

天から来たので天に送り返すのです。
焼却とは昇天儀式なのです。
ごみ箱は「送り箱」、回収日は「お見送りする日」、
回収車の奏でる音楽は“天送鎮魂歌”です。


文先生は言われます。

「自然を大切にして愛することは、
神様を愛することと同じです。

神様がつくられたすべての存在を、
愛の対象として感じなければなりません」
(『平和を愛する世界人として』341ページ)


◎ポイント
天命を果たした万物を、感謝して天に送る。

浅川 勇男・著(光言社・刊
『幸福を引き寄せる家庭の生活習慣』より)
第一部 幸福を引き寄せる朝の生活
ごみ出しは昇天儀式

https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=26175
幸福を引き寄せる家庭の生活習慣 12
(Blessed Lifeより)
*実行すれば誰もが幸せに。
身に付けたい生活習慣を紹介します!
再編集 文責:ten1ko2


ゴミ出しすることも、
幸福を引き寄せることができる・・・

私たちは、無意識のうちに行動していることが多いと感じます。
感謝の心情で生活していると、
当たり前のこと、小さなことにも、
感謝の思いで行動できる、ということなのだと思います。

何事も心掛けが大事だなと思うのです。
余談ですが、ゴミ係ですし、なおさらですね。

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2022年07月22日

「ありがとう」を言えば幸せがやってくる、悪口を言うと・・・?! 《浅川先生》




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浅川先生の講話より、
「言葉で愛する」です。

言葉で愛する

神様は人間に言葉を与えてくださいました。

では、何のために言葉を語るのでしょうか。
それは、隣人と家族を幸福にするためです。
神様は、愛するために言葉を与えてくださったのです。

食べるためだけなら、口があればよく、言葉は必要ありません。
犬や猫は言葉が語れなくても食べて生きています。


それゆえ、愛ある言葉、美しい言葉のみを語るべきなのです。
人が聞いて幸福な気分になる言葉のみを語るべきなのです。

文鮮明先生は、

「愛の心、真実をもって接しなければなりません。
 話をするにしても、一日に良い言葉を
 三回ずつ継続して言ってみてください」


(『愛天愛人愛国』59ページ)
と言われています。

 
ところで、良い言葉を三回どころか、
何千回も唱えて幸福になったおばあさんがいました。

そのおばあさんは毎日、「自分ほど不幸な人はいない」
と愚痴をこぼしていました。

「同じ町内に嫁と孫が住んでいながら、一度も
自分の家に訪ねてきてくれたことがない」と嘆いていたのです。
そのため、毎日、嫁の悪口を言い続けていたのです。

ところが、ある時、
「こんなことをしていてもどうしょうもない。
むしろありがとう、と言い続けてみよう」
と思ったそうです。

それで、朝起きてから
「ありがとう、ありがとう」と言い続けたそうです。

すると、奇跡が起こったというのです。
一日千回言ったとき、一人の孫が訪ねて来たのです。

おばあさんは感動して、こう思ったそうです。
「ありがとう千回で孫一人。
そんならもっと回数を増やしたら、ひょっとして……」。

それから一日三千回以上唱えたそうです。
驚いたことに、孫三人と嫁まで訪ねてきて、しかも、
おばあさんへのお小遣いがベースアップしたそうです。

それで孫にプレゼントができるようになったそうです。
今では、何万回も唱えているそうです。


「ありがとう」という言葉は
不幸な時ほど効き目(?)がありそうです。
不幸な時に感謝できる人は天国人というべきです。

しかし、なかには、言葉を使って不幸になる人もいます。
ひょっとすると、大半の人がそうかもしれません。

文鮮明先生は言葉の恐ろしさについて語られています。

 
「もし言葉を一言間違えれば、
 その言葉を言った人も苦痛を受け、
 その言葉を聞く人も苦痛を受けるのです」


(『愛天愛人愛国』61ページ)



ひとたび口から出た悪い言葉は、もはやその人の所有物ではなく、
悪魔の所有物となり、不幸のために活用されるのです。

そのため、悪い言葉や陰口を語った人が
まず不幸になるというのです。

ゴミは市が回収してくれますが、
悪口という見えないゴミは回収してくれません。
悪口の回収日などないのです。

生ゴミが悪臭を放つように、
悪口は悪霊を解き放つのです。

悪口は不幸の種まきになるのです。
しかも、直ちに不幸な出来事を実らせます。

神様が幸福のために与えてくださった言葉で
不幸になるほど愚かなことはありません。

浅川 勇男・著
(光言社・刊『心の書写〜文鮮明師自叙伝に学ぶ〜』より)
【第四章】愛天愛人愛国愛人─人を愛する生活
言葉で愛する


「ありがとう千回で孫一人」
興味深い証しですね。

反対に、「口は禍の元」、という言葉もあります。

政治家など、ちょっとした言葉の表現で、
言質を取られ、やり玉にあげられています。
批判する人たちほど、
そういう言葉に敏感なのかもしれません。

他の動機で言っているのに、
言葉のみで判断されてしまうこともあるでしょう。

言葉の背後には、「思い」があります。
だから、言葉を受け取ることは、
思いを受け取ることと同じだと思うのです。

良い言葉の背後には良い思いがありますが、
悪い言葉の背後には、
悪なる思いがあるということになります。

悪い言葉は、言われた方だけでなく、
言った側にもダメージがあるとのこと。

「悪口のゴミは、回収不可能」
肝に銘じていかないといけないですね。
言ってしまったものは取り消せないのです。

今はあらゆるメディア、ネットでも
拡散できますから、社会にもゴミがあふれる
ことになってしまいますね。

悪口の習慣がついている人は、
ずっとごみの中にいるということでしょうか。

「いつも笑顔でいなさい。
感謝していなさい」と言われるように、
それを習慣づけることで
「ありがとう」という言葉が
自然に口から出てくるのかもしれません。

さらに意識して賛辞や
「ありがとう」などの
素晴らしい言葉を発していきたいと思います。




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2021年08月12日

疲れて帰宅すると、妻が夕飯も作らずイビキをかいて寝ていたら・・・ 《浅川先生》



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浅川先生の自叙伝書写。
今回は、「夫は妻を至誠の限りを尽くして愛する」です。


夫が家に帰ってきたら、妻が夕食の準備もせず、
いびきをかいて寝ていたらどうですか?

短気な夫であれば、激怒して妻をたたき起こすでしょう。
その結果、妻は安眠を妨害されたことに怒り、
夫婦げんかになってしまいます。

実は、夕食を作りたかったのに、過労で
ついつい寝てしまったのかもしれません。
妻には妻の言い分があるはずです。

しかし、仕事で疲労困憊(こんぱい)した夫の夕食を
作る気持ちにならず、テレビドラマを見すぎて
寝てしまったとすれば、夫は、
妻の無責任さを怒ってもいいように思えます。

ところが、文鮮明先生は、そんな場合でも、
妻を怒鳴ってはいけないと言われるのです。

「家に帰ってきたとき、
 妻が横になって寝ていたとしても、
 『私が責任を果たせなかったので
 待っていないのだなあ』と、
 そのように考えてみたことがありますか。
 御飯も作らず、昼寝ばかりしていても、
 そのように考えなければなりません」


(『愛天愛人愛国』70ページ)


夫に、妻の苦労を理解せず、要求ばかりしていた、
愛の不足を反省しなさいと諭(さと)されているのです。
妻が夫の夕食を作る気になれないのも、
夫が妻を愛する責任を果たしていない結果だというのです。

妻は、夫の限りない愛情を感じれば、要求されなくても、
喜んで夫のために生きるのです。
夫は愛の主体、妻は愛の対象なのです。

だから、
「夫は、至誠の限りを尽くして
妻を愛さなければなりません」

(同、69ページ)
というのです。


◎ポイント

妻の不作為は、夫の愛不足の結果である。

浅川 勇男・著
(光言社・刊『幸福を引き寄せる家庭の生活習慣』より)
第三部 幸福を引き寄せる夕べの生活

幸福を引き寄せる家庭の生活習慣 46
夫は妻を至誠の限りを尽くして愛する

(blessed lifeより)


「妻の不作為は、夫の愛不足の結果である」
なかなか厳しいみ言ですね。。。

浅川先生が語られている妻の例題、
いびきこそかいていませんが、
我が家にも似たようなことがあり、
また、恥ずかしながら夫の態度も、
似たようなことがあったりします。。。

夫婦というのは、
愛を与えあう存在のはずですが、
要求もしやすいのかな、と思います。

本当に、自分の問題であると、
心から感じる私になれるよう、
愛の器を広げていかなければならない、と思うのです。





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