2021年08月12日

疲れて帰宅すると、妻が夕飯も作らずイビキをかいて寝ていたら・・・ 《浅川先生》



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浅川先生の自叙伝書写。
今回は、「夫は妻を至誠の限りを尽くして愛する」です。


夫が家に帰ってきたら、妻が夕食の準備もせず、
いびきをかいて寝ていたらどうですか?

短気な夫であれば、激怒して妻をたたき起こすでしょう。
その結果、妻は安眠を妨害されたことに怒り、
夫婦げんかになってしまいます。

実は、夕食を作りたかったのに、過労で
ついつい寝てしまったのかもしれません。
妻には妻の言い分があるはずです。

しかし、仕事で疲労困憊(こんぱい)した夫の夕食を
作る気持ちにならず、テレビドラマを見すぎて
寝てしまったとすれば、夫は、
妻の無責任さを怒ってもいいように思えます。

ところが、文鮮明先生は、そんな場合でも、
妻を怒鳴ってはいけないと言われるのです。

「家に帰ってきたとき、
 妻が横になって寝ていたとしても、
 『私が責任を果たせなかったので
 待っていないのだなあ』と、
 そのように考えてみたことがありますか。
 御飯も作らず、昼寝ばかりしていても、
 そのように考えなければなりません」


(『愛天愛人愛国』70ページ)


夫に、妻の苦労を理解せず、要求ばかりしていた、
愛の不足を反省しなさいと諭(さと)されているのです。
妻が夫の夕食を作る気になれないのも、
夫が妻を愛する責任を果たしていない結果だというのです。

妻は、夫の限りない愛情を感じれば、要求されなくても、
喜んで夫のために生きるのです。
夫は愛の主体、妻は愛の対象なのです。

だから、
「夫は、至誠の限りを尽くして
妻を愛さなければなりません」

(同、69ページ)
というのです。


◎ポイント

妻の不作為は、夫の愛不足の結果である。

浅川 勇男・著
(光言社・刊『幸福を引き寄せる家庭の生活習慣』より)
第三部 幸福を引き寄せる夕べの生活

幸福を引き寄せる家庭の生活習慣 46
夫は妻を至誠の限りを尽くして愛する

(blessed lifeより)


「妻の不作為は、夫の愛不足の結果である」
なかなか厳しいみ言ですね。。。

浅川先生が語られている妻の例題、
いびきこそかいていませんが、
我が家にも似たようなことがあり、
また、恥ずかしながら夫の態度も、
似たようなことがあったりします。。。

夫婦というのは、
愛を与えあう存在のはずですが、
要求もしやすいのかな、と思います。

本当に、自分の問題であると、
心から感じる私になれるよう、
愛の器を広げていかなければならない、と思うのです。





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posted by ten1ko2 at 10:24 | Comment(0) | 浅川先生 自叙伝書写 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年07月15日

囚人たちが一番恐れるのは・・・ 人生最強の言葉は「ために生きる」 《浅川先生》



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浅川先生の自叙伝書写講話。
「意味のある人生を生きる」です。


加藤諦三(たいぞう)・早稲田大学名誉教授は、著書の中で
「私はアメリカの刑務所の中で、囚人たちに
『何を一番恐れるか』と聞く調査をしたことがある。

彼らは何と言ったか。
『最も恐れているのは意味のない人生です』
と答えた人が圧倒的に多かった」(『失敗を越えることで人生は開ける』12ページ)
と述べています。


意味のある人生とは、どのような生き方なのでしょうか?
文鮮明先生は「ために生きる人生」だと言われます。

聖書に「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、
それはただ一粒のままである。
しかし、もし死んだなら、
豊かに実を結ぶようになる」
(ヨハネによる福音書12章24節)
とあります。

自分の命に固執して自己中心的に生きれば、
自分だけの人生になりますが、
自分の命を人のために捧げれば、
豊かに実を結ぶというのです。

人生の価値と意味は、私の行動によって
幸せになった人々がもたらしてくれるのです。
ために生きた人が多いほど、人生の価値と意味が高まります。

限られた時間の中で、意味のある人生を送るためには、
時間を大切にしなければなりません。

誰にも、時間は平等に与えられています。
一日は二十四時間、一年は三六五日。
誰にも共通に与えられている時間を、
ために生きて有意義なことに費やすべきです。


「自分よりも人のために、
 自分の家庭よりも隣人のために、
 自分の国よりも世界のために
 生きなければなりません」


(『平和を愛する世界人として』257ページ)


「時間を必要度に応じて細かく刻み、
 一瞬でも無駄に使わずに一生懸命働けば、
 その人生は本当に貴いものになります。

 人が一本の木を植えるとき、
 自分は二本、三本の木を植えるのだ、
 という勤勉で誠実な姿勢を持って生きるべきです」
(同、256─257ページ)



◎ポイント
時間を大切にし、勤勉で誠実に、ために生きる。

浅川 勇男・著
(光言社・刊『幸福を引き寄せる家庭の生活習慣』より)
第二部 幸福を引き寄せる昼の生活
意味のある人生を生きる

幸福を引き寄せる家庭の生活習慣 41
意味のある人生を生きる

(blessed lifeより)


お父様の人生哲学ともいうべきものですね。
私の人生、一挙手一投足が何のためにあるのか、
改めてただされました。

与えられた環境、仕事、公的な責任分担(役目)も、
天のみ旨を推し進めるためのものであると同時に、
私たちの人生に彩りを与えるものであり、
幸福につながるものです。

そして、私たちの歩みは、個人や家庭の幸せだけでなく、
世界平和にも直結します。
微力な者であっても、
歴史の黄金期である、今このときに、
精誠に精誠を重ねていきたいと思うのです。




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2021年06月27日

「幸福は私を待っている」・・なのに幸せに至れない理由 《浅川先生の自叙伝講話》



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久々ですが、
浅川先生のみ言を紹介します。
今回は、「待っている幸福に出会えない理由」です。


人は幸福を求めて生きています。
人生の目的は幸福になること、と言っても過言ではありません。

結婚するのも、
子供を生んで育てるのも、嫁を迎えるのも、
幸福になるためではないでしょうか。

ところが、なかなか幸福になれないのが現実です。
幸福を必死に求めて、不幸になっています。
なんだか、幸福が自分を避けているみたいです。

では、幸福は求めれば求めるほど逃げてしまうのでしょうか。
まるで、捕まえようとすると飛んでいってしまう蝶(ちょう)のように……。

いいえ、そうではありません。
文鮮明(ムンソンミョン)先生は
「幸福は常に私たちを待っています」
と、断言しています。

幸福は逃げも隠れもせず、むしろ、
今か、今かと私たちが来るのを待っているのです。

人生をマラソンに例えてみましょう。
ゴールはスタジアムの定位置にあり、決して動くことはありません。
ひたすら、最初のランナーの到着を待っています。
ゴールが動いたり、隠れたりはしません。
不動です。

では、なぜ、幸福を求めてスタートしたランナーは、
ゴールにたどり着かないのでしょうか。
答えは簡単です。

ランナー自身が道を間違えたか、途中で走ることをやめたかです。
幸福のゴールが動いたのではないのです。
正に、「幸福のゴール」の立場から言えば、
待ち人来たらず、なのです。

何が人生のランナ─に道を迷わせたのでしょうか。
文鮮明先生はこれを、“欲にくらんだ目”だと言われます。
走者自身の我欲が行く道を阻んだのです。


「幸福は常に私たちを待っています。
 それでも私たちが
 幸福を探しだすことができない理由は、
 欲望が行く道を阻むからです。
 欲に眩(くら)んだ目は
 前を見ることができません」
(自叙伝339ページ)


我欲のせいで幸福への正しい道を見失ったのです。
不幸へ直進する道に迷い込んでしまったのです。
車の運転であれば、「目的地へ右折」標示を見間違えて左折して、
さらに「この先、崖にて通行禁止」の標示を直進して
転落するようなものです。

そればかりではありません。
「我欲」に捕らわれた人生の運転手は、
目先の幻想に惑わされて人生を浪費するのです。
文鮮明先生も言われています。


「たったいま地面に落ちかけた
 黄金のかけらを拾おうとして、
 その先にある大きな黄金の山を見ることができず、
 ポケットに入れることにあくせくし、
 ポケットが破れたことも分かりません。
 ……利己的な人生は、
 自分のために生きているように見えますが、
 究極的には自分を破壊する人生です」

(自叙伝339〜340ページ)


かけらにすぎない断片に人生の大半を消耗して、
ポケットの穴から断片がこぼれ落ちていることに気がつかないのです。

「幸福になろう」という欲望は悪ではありません。
人間として当然のことです。
しかし、他人に犠牲を強いてまでも我欲を満たそうとすれば、
結局、不幸になってしまいます。

人を不幸にさせれば、怨(うら)みを買います。
一時期、繁栄しても、無残に転落してゆくのです。
歴史を見れば、卓越した指導力をもつ権力者が多く登場しました。
しかし、自分や一族だけの権勢を誇示しようとして、
結局、破滅しています。

利己的な人生を歩んで自分と家族を破滅させてしまうのは、
歴史的な人物だけではありません。
私たちの人生でもあることです。

「殺人、強盗は極悪人のやることだ」と思うのは間違いです。
ニュースを騒がす犯罪事件の主犯も、かつては善良な人だったのです。
何かのきっかけで、欲に目がくらんで、
「自分を破壊する人生」に転落したのです。

どんな人間にも自己中心的で過分な欲望が潜んでいます。
目がくらんだ欲望が何かの機縁で噴出して人生を破壊させてしまうのです。

浅川 勇男・著
(光言社・刊『文鮮明先生の自叙伝に学ぶ〜心のあり方』より)
第六章 家和して万事成る
「待っている幸福に出会えない理由」


心のあり方 27
(なお、この記事に記載されている
「自叙伝『平和を愛する世界人として』」のページ数は
創芸社出版のものです。)
blessed lifeより



「人間は、何人といえども、
不幸を退けて、幸福を追い求め、
それを得ようともがいている」

食口であれば、誰もが知っている
総序の書き出し部分です。

私も願い、人類誰もが願いますが、
その通りになっていないのが現実です。

ゴールを神様が示してくださっています。
しかし、たどり着けないのは、
自己中心的な欲望に苛まれてしまうからです。

浅川先生は、また
「蝶を引き寄せる花にならなければならない、
すなわち、幸福を呼び寄せるためには、
真の愛の実体になる必要がある」
そのことも強調されますね。

ゴールにしっかりとたどり着けるよう、
しっかりとした信念を持つと同時に
義なる歩みを積み重ねなければならないと
改めて思うのです。




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あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
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さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
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