2020年07月06日

いつでも無料『幸せ教習所』、最高の教官は・・・?! 《浅川先生・自叙伝講話》



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浅川先生の、真のお父様の自叙伝講話より
「良心は幸福の先生」です。


では、人生を正しく導く先生はどこにいるのでしょうか?

もう子供も孫もいる人は、父母も、先生も、
友人も数少なくなっています。

真の幸福教習所があれば、すぐにでも
行きたいところですが、ありません。

(まこと)の父母、先生、友人がいなければ、
幸福になれないのに、どこにもいない。
どうしたらいいのでしょうか?

心配ご無用です。
幸福に導く真の先生はいます。

それもあなたのすぐそばにいるのです。
いつでも会えます。
そして的確に指導してくれます。
あなたが謙遜に耳を傾ければ、ではありますが……。

それが、あなたの良心なのだと
文鮮明(ムンソンミョン)先生は言われるのです。


「自分の最も親しい先生は自分の良心です。
 最も親しい友人よりも貴く、
 父母よりも貴いものが自分の良心です」


(自叙伝、234ページ)


私たちを最も愛し幸福に導こうとしている真の先生。
それが、「良心」だというのです。


運転免許や英会話習得のように教習所に通って、
授業料も払わなくてよかったのです。
ある意味では、とってもお得なことではありませんか。

必要なことは、良心に耳を傾ける謙遜さと、
それを実践する勇気さえあればいいのです。

良心は、私たちの事情を熟知していて、
直ちに「これをしなさい、それはしてはならない」
と指導してくれます。

時には温かく、時には厳しく指導してくれます。


したがって、真の幸福になるためには、

「『良心』に、『私は今、
 正しく生きているか?』
 といつも尋ねなければなりません」


(同、234ページ)

それゆえ、良心が「やるな」と絶叫しているのに、
あえて実行すれば、良心を泣かせることになります。

自分のために二十四時間働き続けている良心を
悲しませ、傷つけることになるのです。
それは、自分の人生を不幸にすることになるのです。

文鮮明先生は

「良心を悲しませることは、
結局、自らを悲しみに陥れることです」

(同、234〜235ページ)

と警告されています。


ところで、良心は、いつも
「真の愛に生きなさい。
 自分を犠牲にして、神様と人のために生きなさい」
と命じます。

この良心の命令に、私たちは素直に従えないときがあります。
なぜなら、もう一つの心があるからです。
私を不幸に陥れる心、すなわち自己中心の心です。

この心は自分のために人を犠牲にすることさえ要求します。
「自分さえよければいいではないか」と強調します。
この心を、良心に逆らう心なので、邪心といいます。

邪心は、人のために生きようとすると、
「面倒くさい」、「何の得になる」、「時間の無駄だ」、
「疲れる」、「ばかくさい」、「もっと自分を大切にしろ」
などとささやきかけ、良心の行く手を妨害します。

確かに、良心の命じることは、「ばかくさい」、
「何の得にもならない」ことが多いのです。

 
文鮮明先生の若き日の逸話があります。

「学校に行く途中、息も絶え絶えの人に
 出くわしたことがあります。

 かわいそうに思うと足が止まってしまい、
 その人を背負って二キロほど離れた
 病院に向かって走り出しました。

 運良く財布に入っていた学費の残りで
 治療費を払うと、
 あとはもうすっからかんです。

 今度は自分の学費が払えなくなり、
 学校から督促を受けることになりました。
 それを見て、友人がお金を
 一銭、二銭と集めてくれました。
 その時の友人は生涯忘れられません」


(同、121ページ)
文鮮明先生は常に良心に従って生きてこられて、
「平和を愛する世界人」になられたのです。

浅川 勇男・著
(光言社・刊『心の書写〜文鮮明師自叙伝に学ぶ〜』より)
【第七章】私は今、正しく生きているか
良心は幸福の先生


自己牧会プログラムでも紹介しているように、
良心は誰にでもあるものであり、
良心を中心として行動することにより、
善なる生き方を送ることができるし、
平和な世の中、天国実現への道が開かれます。

ただ、お母様も語られているように、
「万民が天の父母様を知らなければならない」のです。
なので、厳密に言えば、神様を中心とした良心、
すなわち本心を中心に生活することが必要であると思います。

真の父母様の言われる「良心」と「本心」は一致しています。
しかし、私たちの「良心」は、原理講論によると、
「自分が善であると考える」ものです。

神様の願われる「良心」
正確に表現すれば、「本心」に従って、
生きる者になっていきたいですね。。。




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posted by ten1ko2 at 08:32 | Comment(0) | 浅川先生 自叙伝書写 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月02日

参拝・礼拝に出掛けなくても、神と自然を満喫できる?! 《浅川先生 自叙伝講話》



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STAY HOME!☆☆☆
新型コロナウィルスの
終息を心からお祈りします☆


「観光に出掛けなくても、自然を満喫できる?!」
ということで先日紹介しましたが、
浅川先生の自叙伝書写講話の続き、
「自然は神様の贈り物」です。


私たちが、自然に囲まれながら生きているのに、
価値を認めず、感動がないのは、
自然万物の本質的意義が分かっていないからです。

文鮮明先生のみ言によると、自然万物には三つの意義があります。

第一には、自然万物は、
神様の愛の贈り物、プレゼント、なのです。

親なる神様が子女である人間の幸福のために下さった贈り物なのです。
それゆえ、全ての自然万物には神様の愛が込められています。


ある貧しい家の子供がいたとします。
学校から帰ってきて机の上を見ると、一本の鉛筆が置いてありました。

子供はその鉛筆を握り締めて泣きました。
貧しさの中で必死に働く母親の
精いっぱいの誕生日プレゼントであることを悟ったからです。

私たちが通り過ぎる道端の木や草は神様の愛のプレゼントで、
親の愛が込められているのです。


「道を歩いていて一株の草を見ても、
 涙を流すことができなければなりません。
 一本の木を抱きかかえて
 泣くことができなければなりません。

 一つの岩、一瞬の風にも、
 神様の息遣いが隠されていることを
 知らなければならないのです。

 自然を大切にして愛することは、
 神様を愛することと同じです」

(自叙伝316ページ)


もし、私たちが、全ての自然万物に神様の愛を感じられるなら、
仕事や学校の道筋で、愛で満たされるのです。

神様と自然と言えば、私たちは神社にお参りに行くことがあります。
参拝者は、手をすすぎ、社の前で、
合掌して、神様と向き合います。
では、神様は、神社の社にしかいらっしゃらないのでしょうか。

鳥居をくぐって参道を歩くと、両脇に、杉の木などが、
(りん)としてそびえたっています。
風がそよぎ、木のささやきが聞こえます。
この静寂の中に、神様の愛が込められているのです。

参道そのものが、神様の愛との出会いなのです。
神社に限らず、教会に行くとき帰るとき、
既に、道端で神様の愛に出会っているのです。

浅川 勇男・著
(光言社・刊『文鮮明先生の自叙伝に学ぶ〜心のあり方』より)
第十二章 一つの岩、一瞬の風にも神様の息遣いが隠れている
自然は神様の贈り物

『平和を愛する世界人として』のページ数は
創芸社出版のものです


自然万物一つ一つに
親なる神様の心情を尋ね求める、
その心情世界が重要である、と感じます。

お父様の自叙伝に
「一つの岩、一瞬の風にも、
神様の息遣いが隠されている」
と書かれている、ということは、
お父様ご自身がそのような体験をされたからです。

一株の草や一本の木を見て、
涙を流されるお父様の感性の鋭さ、
自然を通して神様の心情を求める世界、
本当に相続していかなければならない、と思うのです。





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posted by ten1ko2 at 07:30 | Comment(0) | 浅川先生 自叙伝書写 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月26日

Stay home ! 観光に出掛けなくても、自然を満喫できる?! 《浅川先生》



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天正宮の花*

大宇宙のあらゆる存在物は、
一つとして
神の心情の外で
生まれたものはありません。
木の葉一枚揺れることにも
宇宙の息遣いが宿っています。

自叙伝「平和を愛する世界人として」より


浅川先生の自叙伝書写講話。
今回は「自然との交感を楽しむ人」です。


人は誰でも幸福を求めて生きています。

そのため、時として仕事や家事の忙しさから解放されて
自然を満喫しようとします。
心の疲れを解きほぐそうとします。
自然を観光しに行きます。

観光は、“光を観る”と書きます。
文字どおり、人生の「光」を「観る」ために行くのです。

日本には、たくさんの素晴らしい観光地があります。
北海道の大自然、箱根、芦ノ湖、富士山、そして、九州の雄大な阿蘇山。

では、有数の大自然でしか、光を観ることはできないのでしょうか。
観光地に行っても、必ず、家に帰らなければなりません。
翌日から、仕事と家事が待っています。

もし、大自然の観光しか、心を解放することができないならば、
人生のほんの一時しか、幸福を満喫できません。
富士山の山頂に庵を立てて住むわけにはいかないのです。


しかし、ご安心ください。
文鮮明(ムン ソンミョン)先生は、「全て」の自然との触れ合いが、
人間を幸福に導くと言われます。
観光地の素晴らしい大自然だけではなく、全ての自然と言われるのです。

観光地が箱根だったとします。
東京から車や電車に乗って箱根に行きます。
箱根で山や湖を観光して、心が安らぎます。
温泉につかって体をリフレッシュさせます。

そして、再び帰ります。
疲れているので、寝てしまいます。
(運転手は起きています)

では、箱根に行く途中に、自然は全くなかったのでしょうか。
そんなことはありません。
自然だらけです。

道路脇には雑草が生い茂っていました。
花も咲いていました。
遠くに山がそびえていました。
そして、空があり、白い雲がたなびいていたのです。
鳥も飛んでいました。

自然の中を通って箱根に着き、
自然の中を通って自宅に帰ったのです。

でも、途中では、感動しませんでした。
どうして、有名な箱根を観光して、
途中の自然は観光できなかったのでしょうか?


自然に貴賤(きせん)、上下があるのでしょうか。
交通費のかかる箱根の自然は尊くて、
無料で見れる雑草は卑しいのでしょうか。
毎日、会社や学校に行く途中で足元に咲いている
花や雑草は、見る価値がないのでしょうか。

そうではありません。
全ての自然万物には尊い価値があるのです。
「光を観る」ことができるのです。

もしも、私たちがそのように感じられれば、
毎日、観光地で生活していることになります。
歩くだけで、幸福を満喫できるのです。
無料です。

では、どうしたら、そんなお得なことができるのでしょうか。
 

それが、「一つの岩、一瞬の風にも神様の息遣いが隠れている」
ことを感じ取る心、なのです。
自然万物に神様の愛を感じる心が、なければならないのです。

それができる人を、「自然との交感を楽しめる人」
(自叙伝52ページ)だと言われます。

人間に幸福をもたらすのは、すべての自然に神様の愛を感じる心なのです。

文鮮明先生は、道端に咲く雑草やタンポポが、
世界的名画や歴史的展示物より尊いのだと言われます。


「神様がつくられたすべての存在を
 愛の対象として感じなければなりません。
 博物館にある一つの作品がいくら立派だとしても、
 生きている神様の作品には及びません。
 道端に咲く一輪のタンポポが新羅(古代朝鮮半島の国家)
 金の冠より貴いのです」

(自叙伝316ページ)


「門前の、何の価値もなく立っているように見える
 一本の木を見ても、世界の名作、画家が描いた
 どのような絵とも比較できません。
 いくら絵を眺めても、そこに花が咲きますか?
 香りがありますか? ないのです。

 ところが、木からは種が生み出されるのです。
 その種を植えれば、その木よりも素晴らしい木が
 いくらでも出てくるのです」

(『天運を呼ぶ生活』168─169ページ)


世界的画家の一人に、ゴッホがいます。
有名な「ひまわり」を描きました。
おそらく、時価で、何十億でしょう。
展示会があれば、美術愛好家たちは美術館に殺到します。
自動車、電車に乗って、入場料を払って鑑賞します。

ある、ゴッホの絵に魅せられた人がいたとします。
夏の季節でした。車で三時間かけて、美術館に来て、
「ひまわり」を見て感動して、車で帰ったとします。

この人が価値を認め感動したのは、ゴッホの「ひまわり」の絵でした。
ところが、その道筋には、
ひまわりがたくさん咲いていたのですが、全く気づきませんでした。
本物のひまわりには感動しなかったのです。

では、絵画の「ひまわり」に価値があって、
道端の「ひまわり」には全く価値がないのでしょうか。

文鮮明先生は、道端に咲いている「ひまわり」が、
ゴッホの「ひまわり」より、価値がある、と言われるのです。
なぜなら、いのちがあって、香りがあり、繁殖するからだと、いわれます。

絵画の「ひまわり」はどんなに見事であったとしても、
香りを発散しません、たくさん増える、ということもありません。
美術館が、ひまわり、だらけになります。

道筋の「ひまわり」は神様の作品そのもので、人の手をかけていません。
道端こそ自然の大美術館で、
「ひまわり」が神様の手で展示してあるのです。

もし、心の門が開けば、道端の、ひまわり、に
神様の光を、観ることができるのです。

すべての自然に神様の愛を感じる人を、
「自然との交感を楽しむ人」というのです。


「自然との交感を楽しめる人であってこそ
 正しい人格が身に付くと言えます。
 ……自然も、人も愛せない人は、
 神を愛することができません」

(自叙伝52ページ)

浅川 勇男・著
(光言社・刊『文鮮明先生の自叙伝に学ぶ〜心のあり方』より)
第十二章 一つの岩、一瞬の風にも神様の息遣いが隠れている
自然との交感を楽しむ人
お父様の自叙伝のみ言は
下にも添付しました

お父様が自然を愛される世界、
自然の価値を感じられる世界、
神様の心情を中心にとらえておられます。

これからゴールデンウイークに入りますね。
通常ならば、自然を求めて、山や海に
レジャーシーズン到来でしょう。

しかし、ご存じのようにコロナ事態により、
「観光地には来ないでください」
と、自宅待機が願われています。

今こそ、お父様のように、
道端に咲く一輪のタンポポに
神様の愛を感じる、
感性を鋭敏にしていきたいと思います。





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*自叙伝「平和を愛する世界人として」より

私たちの周りに存在するすべてのものは、
想像もできないほどの複合的な力が
結びついて生まれているのです。また、
その力は密接に連関して相互につながっています。

大宇宙のあらゆる存在物は、一つとして
神の心情の外で生まれたものはありません。
木の葉一枚揺れることにも宇宙の息遣いが宿っています。

(自叙伝51ページ)


自然を大切にして保護する近道は、
自然を愛する心を持つことです。

道を歩いていて一株の草を見ても、
涙を流すことができなければなりません。
一本の木を抱きかかえて
泣くことができなければなりません。
一つの岩、一瞬の風にも、神様の息遣いが
隠れていることを知らなければならないのです。

自然を大切にして愛することは、
神様を愛することと同じです。
神様がつくられたすべての存在を
愛の対象として感じなければなりません。

博物館にある一つの作品がいくら立派だとしても、
生きている神様の作品には及びません。
道端に咲く一輪のタンポポが
新羅の金の冠より貴いのです。
(自叙伝316ページ)



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