2023年10月08日

さして功績のない私、精誠を捧げに捧げた先祖のおかげで救われた?! 《喜びと幸せの生活伝道》



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篠崎先生の「喜びと幸せの生活伝道」
今回は、『神氏族メシヤとして立てられた背景』です。


私たちは天宙史に一度しかない再臨時代に
真の父母様に出会い、貴い祝福の
恵みにあずかって人生を歩んでいます。

では、なぜこのような人生を
迎えることができたのでしょうか?
私たちが神氏族メシヤとして
立てられるに至った背景を考えてみましょう。


『原理講論』の予定論を見ると、
人間に対する予定は絶対的ではないとあります。

それは人間自身が責任分担を果たしてこそ
初めて神様が予定された人物になることができるからです。

神様の救いの摂理の目的は、
人間始祖の堕落によってつくられた罪悪世界を、
創造目的を完成した地上天国に完全に復帰することです。

救いの摂理は再創造の摂理であり、
それは一気に成し遂げられるのではありません。
一から始まって、次第に全体に広まっていくのです。

ですから神様の救いの摂理においては、
まず中心人物になりうる人物を予定して召命されるのです。


召命された中心人物がどのような条件を備えているかは、
以下のように説明されています。

「彼はまず、復帰摂理を担当した
 選民の一人として生まれなければならない。
 同じ選民の中でも、
 善なる功績が多い祖先の子孫でなければならない。
 同じ程度に全の功績が多い祖先の子孫であっても、
 その個体がみ旨を成就するのに必要な
 天稟(てんぴん)を先天的にもつべきであり、
 また、同じく天稟をもった人間であっても、
 このための後天的な条件がみな具備されていなければならない。
 さらに、後天的な条件までが同じく具備された人物の中でも、
 より天が必要とする時機と場所に適合する個体を
 先に選ばれるのである」


(『原理講論』246ページ)



真のお父様は、私たちの立場について、
次のように語っておられます。


「皆さん自身はさして功績がありませんが、
 皆さんの背後には今まで歴史上に
 生まれては逝った先祖たちの功績の土台があり、
 皆さんは知りませんが、
 数多くの氏族の中でも
 皆さんの先祖たちが積み上げた功績が多いので、
 この功績が積まれに積まれて、その結実として
 生まれた群れが皆さん自身であったことを
 知らなければなりません」


(1969年1月26日、韓国・前本部教会)



「皆さんが、運があってそうなのか、
 福があってそうなのかは分かりませんが、
 このようにしてこの時代に生を受けて
 この一時に会い、統一教会に入ってきました。
 統一教会にどのように入ってきましたか。

 皆さんをこの場に入るようにするまでには、
 数多くの先祖たちが精誠を捧(ささ)げに捧げました。

 数多くの人たちが滅び、善が踏まれる場で
 死んでいきましたが、
 その千人、万人の因縁を経て、回りに回って、
 その因縁が天につながって、
 日が昇る高い山のような立場に立ったために、
 そこで日の光を眺めて
 集まった人たちが皆さんなのです」


(八大教材教本『天聖経』231ページ)



真のお父様は、日本をエバの国、
母の国として選んでくださいました。

そして私たちは日本の中でも、
多くの先祖の善の功績の上に生まれ、
先天的天稟と後天的条件が備えられ、
神様が必要とした摂理的な時と場所に
(かな)っていたので選ばれたのです。

篠崎 幸郎・著(光言社・刊
『氏族伝道講座 喜びと幸せの生活伝道
み言の原点に立ち返る』より)
第二章 主と出会った者の行くべき道
一、召命と責任


教会で最初にみ言を聞いた時、
『不思議な夢を見た。
先祖が夢に現れた』
という方は、意外と多いのではないでしょうか。

私自身も、み言を聴き始めた時、
白い服を着た女性が夢に現れて、
「あなたをここまで導いてきた」
そんなことを言われました。

先日、2日間の原理講義をさせていただきました。
その時に感じたのは、
「み言がわかる、というのは、本当の義人だ」
ということです。

私自身の力量の問題もあるとは思うのですが、
例えば、優秀で能力のある方でも、
み言をよく理解して感銘を受けるかと思うと、
必ずしもそうではないことがあります。

しかし、食口の中には、たとえ外的な地位や権力を
何ももたなかったとしても、み言に相対し、
深く感動し、人生に活かせている人もいます。
み言を受け止めることのできる器があるのです。

やはり、先祖の功労、というのは、
とても大きいと感じますので、
折につけ、先祖の皆様に
感謝しつつ生活したいと思います。

また、歴史以来、初めて
真の父母を迎えたこの時、
時代的恩恵がいかに大きいことでしょう。

天が必要だから、時であるから、
導かれた私たちであり、
だからこそ、今このときに
天が準備した人を、天に導く
使命があると思うのです。





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2023年10月06日

最新の科学によれば、宇宙は、女性を最初につくった?! 《夜の神様☯昼の神様3》



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入山聖基・伝道教育局副局長の
「夜の神様、昼の神様」の講座3回目。
(コンパクトに分けて再編集しています)

天地創造前、ビッグバン以前の
宇宙の設計段階での神様を、
「夜の神様」と表現しています。

夜の神様の世界(後)
神様の創造の最終ゴールは人間ですが、
アダムのあばら骨からエバがつくられたという
聖書の記述からすると、人間の創造は、
いっぺんになされたものではなく、
「男性→女性」という順番があったことが分かります。

人間の女性が、最終創造物だということです。


「心だけで刺激を感じようとしても、
 無形の実体なので感動が薄い。
 同じもの同士で回っていては刺激がない。

 そこで神様は、ご自身の相対的な刺激を必要として、
 プラスとマイナス格の相対型である
 アダムとエバを創造した。

 神様がそのようなアダムの中に入って、
 エバと一つになれば、そのエバは
 外的にはアダムの妻、内的には神の妻となるのである」


(1986年2月16日、『天地の大道』163ページ)*

エバはアダムの相対としてつくられましたが、
神様の妻でもありました。

創造は、男性(アダム)→女性(エバ)→神の子女(神の血統)
へとまっすぐに向かっていたのです。

それを構想された夜の神様には、
人間に対する愛が満ちあふれていました。
それゆえ、愛の実体世界がつくられたのです。

そして、昼の神様となられて以降、
神様の愛はさらに人間に注がれ、
「私」に注がれてきたというのです。


理論物理学者の佐治晴夫博士は、
次のように語っています。


「最新の分子生物学によれば、
 この聖書の記述は事実とは反対であって、
 宇宙はまず、最初に女性を標準形としてつくり、
 そこから、必要性に迫られて、男性をつくった
 とするのが妥当であると考えられています」
  (佐治晴夫著『女性を宇宙は最初につくった』春秋社刊、134ページ)

「宇宙はまず、女性をつくり、その後で、男性をつくったようです。
 ですから、女性の方が、より強く、
 精巧につくられていることは間違いなさそうです」(同67ページ)

「人間のからだの原型は女性なのですから、
 その構造は完璧にできていますが、
 男性はその一部をいろいろと転用しながら、
 適当につくられている」(同152ページ)


面白い考えですね。

最新の宇宙科学では、「人間原理宇宙論」
という考え方が出てきていて、
「宇宙が人間に適しているのは、
そうでなければ人間は宇宙を観測しえないから」
という論理が用いられているようです。

佐治博士の研究によると、
「宇宙の中心はまず、女性」(同274ページ)です。

男性は、「自分に似せた再生品」(同159ページ)
としてつくったとまで述べています。

アダムのあばら骨でエバを創造したという
聖句(創二・22)が思い出されます。

 

「わずか一滴の水を見ても
 『君は大海原の水と縁のある、
 偉大な水だなあ』とほめてあげなければなりません。

 小さな一本の草花を見ても、
 そのように称賛しなければなりません。

 博物館に有名な画家の描いた風景画があったとしても、
 それは人間が描いた絵画にすぎません。
 それは神様が直接つくった草花とは比べものになりません。

 この宇宙は、神様がわたしたちのために
 つくってくれた、生きた博物館です」


(『父が聞かせてくれる愛の話─2 神様のプレゼント』56ページ)*


私たち人間は、神様の愛によって誕生し、
自然を通して、日々、その愛を受けています。
この地上に生きていること自体が、
すでに奇跡なのです。

ちなみに、今から半世紀以上も前に書かれた
『原理講論』には、

「宇宙は何のためにあるのであり、
 その中心は何であるのだろうか。
 それは、まさしく人間である」
(59ページ)

と書かれています。
統一原理の偉大さを改めて感じさせられます。

私たちは、真理の光である統一原理を、
世の中に堂々と証していくべきではないでしょうか。

「夜の神様、昼の神様」
伝道教育局副局長 入山 聖基
「夜の神様の世界」

シリーズ中級講座 36
夜の神様、昼の神様<2>
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=20978
(Blessed Lifeより)
*文鮮明先生のみ言(赤字にしました)
少し順序を組み替えて
紹介しています。
再編集 文責:ten1ko2


「人間原理宇宙論」
科学の最先端において、
こういう学問が発表されているなんて。

ただ「宇宙の中心はまず、女性」
というところは、お父様のみ言とは違いますが。。。

お父様のみ言も時代の最先端であるし、
何よりも聖書のみ言でも創世記第1章27節には、
このように記されています。

「神は自分のかたちに人を創造された。
すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」

現代の科学で研究されてることをすでに
数千年前から読み解かれていた、というわけです。

神様は啓示という形を通して、
今の私たちに重要な内容を
教えてくださっている、ということが
なんとも感慨深く感じます。


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2023年09月27日

原理は人のためならず すべては私のためにあった 《篠崎先生》



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篠崎先生の「喜びと幸せの生活伝道」
今回は、『「原理」を学ぶ姿勢』です。


「原理」を学ぶ姿勢

また、真のお父様は「原理」を学ぶ姿勢について、
次のように語られました。

「この『原理』を研究するにおきまして重大なことは、
 これがただ勉強するという観念で
 ここに参席してはいけない。

 ……その『原理』を探すための立場を君たちが
 先に立っておるという観念ですね。

 この人間の重大な問題を解決せんがために
 非常に悩みに悩んで、どうにもこうにもできない、
 その泣くような立場に立って、
 こういう重大な問題を天から、
 あるいは君たちの祈りから、
 その解決される、その瞬間に臨席する
 というような気持ちが何よりも必要である。

 そういう基準が、自分の悩みの涙の中で
 これを解決した時のその喜び、
 天に対しての感謝、自分ながらの
 嬉しさを感じるような、その気持ちを
 原理講義の中で、いかに体験するか
 ということが何よりも重大な問題である」

(『日本統一運動史』246─247ページ)


このように「原理」は私自身が探し求め、
解決すべきみ言なのです。

私たちがみ言を聞くとき、せっかく
神様が自分に語っていらっしゃるにもかかわらず、
「これはあの人が聞くべきだ」と、
み言を人に当てはめる人がいます。

まず、自らがどのようにみ言を迎えるのか、
その姿勢が一番重要です。

最初にみ言で伝道しなければならないのは、
正に自分自身なのです。

篠崎 幸郎・著
(光言社・刊『氏族伝道講座 喜びと幸せの生活伝道 み言の原点に立ち返る』より)
第一章 原理のみ言があなたに届くまで
三、『原理講論』に基づいた原理大修練会
「原理」を学ぶ姿勢

氏族伝道講座
喜びと幸せの生活伝道〜み言の原点に立ち返る(10)
(blessed lifeより)


原理は人のためならず、私のためにある。。。
伝道はまず「自己伝道」と言われるように、
み言の実体にならなければならない、と痛切に感じます。

今の私にとって必要なみ言を
天は必ず与えてくださる、
そのような確信をもってみ言を学ぶとき、
天は役事してくださると思います。

劉孝元先生が原理講論を執筆された時のような精誠、
そんな思いをもっていきたいと思うのです。


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