自己牧会プログラム
今回は、「良心は私の全てを知っている」。
良心はこんなことまでできるのか、という
素晴らしい証しです。
☆
(男性 50代)
2016年に自己牧会プログラムに出合いました。
「自覚を取り戻す」ワークや「心の目で見る」ワークなどを
実践する中で、自分の中でモヤモヤしていたものが
スーッと溶けていく感覚がありました。
それまで道がないように思われていたところに
道が見えてくる、そんな恩恵を受けました。
ただ、同プログラムを実践している人がよく証ししていた
「失くした物を良心に尋ねたら、出てくる」という内容には、
当初、葛藤していました。
「なんと、次元の低い話だろう」と思ったのです。
☆
ところがある時、必要に迫られて、
失くした物を良心に尋ねるはめになったのです。
子供を連れて車で釣りに行った時のこと、
釣り場に着いたら携帯電話が見当たりませんでした。
慌てて車に戻って探したのですが、見つかりません。
諦めて釣り場に向かって歩いている時、
「そういえば、良心に聞いたら、失くした物が
見つかるって言っていたな」と思い出しました。
だまされたと思って、「私の携帯電話はどこに行ったのでしょうか?」
と良心に聞いたところ、ある光景が心の中に映ったのです。
それは私が釣り道具を下ろした場所の光景でした。
あまりにもはっきり映ったので、とても驚きました。
その場所を探してみたら、ちゃんとそこにありました。
朝方で暗かったので、一度探したときには見えにくかったのです。
尋ねたら「ポン」と答えが来たという、衝撃的な体験でした。
☆
その後、自己牧会プログラムを学ぶ中で、
「良心との対話を通して、過去について
ひもとかれなかったことがひもとかれることがある」
ということを聞きました。
私は携帯電話の体験を土台に、自分にとって長年、
疑問に思ってきたことを尋ねてみることにしました。
それは、私の曽祖父のことでした。
曽祖父は1918年10月10日に北朝鮮の平安北道で亡くなっています。
どういう経緯でそうなったのか、父も知らないとのことでした。
1918年頃に日本人が北朝鮮に行っているというのは、
あまり良いイメージはないと思います。
何かしら讒訴(ざんそ)されるような出来事が
あったのではないか──。
そういう不安がずっと私の中にありました。
それで、曽祖父の本籍地を訪ねて、同じ姓の人を
探して聞いてみたり、古いお寺に行って尋ねたりと、
いろいろ手を尽くしたのですが、分からずじまいだったのです。
☆
そこで、「曽祖父はなぜ北朝鮮に行ったんでしょうか?」
と良心に尋ねみました。
すると、携帯電話の時と同じような感覚で
「ポン」と浮かんできた答えがあったのです。
それは、「クリスチャンだった」という、
全く予想だにしなかった答えでした。
「本当でしょうか?」と尋ねたら、
今度は「内村鑑三」という言葉が浮かびました。
そこで、曽祖父の本籍地と内村鑑三の関係を
ネットで調べたところ、一発で資料が出てきました。
1905年、内村鑑三は「神の愛による理想共同体の実現」を目指して、
「教友会」という組織を立ち上げていますが、
その出発の場を持ったのが、
まさに曽祖父の本籍地だったことが分かりました。
その立ち上げは、石を投げられるという
厳しい環境の中での船出だったということです。
一般のキリスト教からも理解されない中で、
その運動が進められていったことが伺えました。
教友会の構成メンバーは「18歳から
40歳までの青年と壮年」と書いてあり、
曽祖父の年齢は1905年当時、ちょうど40歳でした。
ここまで分かったとき、長年の疑問が解けたという感覚がありました。
さらに、これによって神氏族メシヤ勝利への道が
一歩前進したように思えたのです。
☆
この体験を通して、私の良心は私について全て知っている、
失くした物から、過去の歴史まで全て知っている
ということを実感しました。
そして、私が天の願いに生きることができるように
応援してくれていることも確信したのです。
自己牧会プログラムは、今後私たちが
新しい時代を築いていくに当たって
必要なものであると実感しています。
私の心の中にいる神様 72
良心は私の全てを知っている
(blessed lifeより)
良心は私の全てを知っている
(blessed lifeより)
☆
なんという素晴らしい証しでしょうか。
良心の声に聴き従うと
携帯が見つかっただけでなく、
先祖の家系が由緒あるクリスチャンだった・・・
そんなことまでわかってしまったのです。
私たちに新たな希望を感じさせていただいた
証しでした。
ありがとうございます。
☆
さて、私ももっと低い次元ではありますが、
良心の声に聴き従って感じた体験があります。
朝、教会に出勤するため歩いていた時のこと。
前からすれ違う男性と同じ方向に避けてしまい、
危うくぶつかりそうになりました。
その時、その男性は、わざと肘で
私の腹を押してきました。
結構な衝撃だったし、突然の行為にびっくりして、
思わず男性を見ると、
彼は私をにらんできました。
喧嘩になるのはこういうタイミングかもしれません。
私は「なんだ」と、反発の思いが出てきたので、
すぐさま良心に耳を傾けると、
良心は、「感謝しなさい」と返してきたのです。
ほんのちょっとしたことではありますが、
個人的には、「これで良かったんだ」
という思いになりました。
良心は、私自身が普段思ってもいないようなことまで
すべて知っている、
そして私たちの良さを引き出し
導いてくれると感じるのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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