2020年08月29日

平和の母が世界中の人々の目に光を! 「沈清伝」の奇跡の理由 《浅川先生》



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浅川先生の「『平和の母』13の道しるべ」
今回は、『孝情の光が世界を照らす』です。


子女が父母のために生きることを「孝」といいます。

自叙伝『人類の涙をぬぐう平和の母』を書かれた韓鶴子夫人は、


「孝は、人間にとって何よりも重要な
 実践徳目であり、
 人生における永遠の柱です」

(韓鶴子総裁自叙伝
『人類の涙をぬぐう平和の母』308ページ)


「父母のために自分は何をするか悩み抜き、
 その道を勇敢に進んでいく人が孝子です」

(同307ページ)

と言われています。


孝で生きた娘の物語があります。
韓国の古典文学の代表作、「沈清(シムチョン)伝」です。

沈清の母は沈清を生んで7日後にこの世を去ります。
盲目の父は毎日、近所の母たちにお乳を頼みました。
成長した沈清は、針仕事や家事をして父の世話をしました。
父のために生きる孝行だけが生きがいでした。

ある日、父はお坊さんから
「仏様に米三百石を供えれば、目が見えるようになる」
と言われ、喜んで約束をしてしまいます。
しかし米を買うお金はありません。
父の悩みを知った沈清は、米三百石を得ようとします。

そんなある日、船乗りが難所を越えるために、
いけにえの娘を探しているのを知ったのです。

「海を支配している竜王が、いけにえとなる娘を欲している。
身をささげる娘がいれば、何でも望みをかなえてあげる」
沈清は「お米三百石で、私を連れて行ってください」
と頼みました。

沈清は「父の目を見えるようにしてください」
と叫んで、海に飛び込みました。

竜王は沈清の孝行に感動して、
ハスの花に入れて海に浮かべました。
ハスの花を見つけた漁師たちは、それを王様にささげます。
王様が手を触れた瞬間、花が開いて沈清が現れたのです。
王は感動し、沈清と結婚します。

しかし沈清は、毎日父を思って泣いています。
王は父を探すために、国中から盲人を招き宴を開きました。

ついに父が現れました。
そして沈清と再会した瞬間、父の目が開いたのです。
そればかりか、集まった盲人たち全ての目が開いたのです。
沈清は「王妃」であり、国民の母だったからです。

沈清は、盲目で悩む人々と家族の苦しみを
国母として救ったのです。
人類の涙をぬぐう「平和の母」韓鶴子夫人は、
世界平和のために誕生され、人類の真の母となられました。


韓鶴子夫人にとって親は、天の父母様、神様です。
子女である人類が戦争、貧困、飢餓で苦しむ姿をご覧になる
神様の顔は悲しみと苦悩の涙で溢れています。

その神様の涙を拭おうとされる韓夫人は、
孝情に生きる現代の沈清です。
全人類は、真理と真の愛に盲目であり、
世界平和の道が見えません。

その目を開かせ、平和の道を開く、孝情の光なのです。



「孝情の光は、韓国から出発して
 アジアを越え世界を照らす光として
 輝いています」


(同308ページ)

『平和の母』から学ぶ13の人生の道しるべ 11
孝情の光が世界を照らす
浅川 勇男
(「平和の母」シリーズ第2弾。
自叙伝書写の第一人者、浅川勇男氏による
「『平和の母』から学ぶ13の人生の道しるべ」をお届けします。
Blessed Lifeより)


韓国には「親孝行」を題材にした昔話が数多くありますが、
なかでも「沈清伝」は一番有名な昔話ではないでしょうか。

私は、ユニバーサルバレエの「沈清」で
知ったのですが、始めてみた時、
本当に感動したことを覚えています。

さて、日本の昔話に、親孝行を題材にしたものがあるだろうか、
そう考えた時、すぐに浮かんでこないんですね。

親孝行の心情が根付いている国、韓国。
その国に現れた真のお母様を
「現代の沈清」として証ししている
浅川先生はさすがだなぁ、
と思いつつ読ませていただきました。

孝女の中の孝女として伝わっている
沈清が、最後お父さんに再会する時
あまりに喜んで、その喜びの中で、
お父さんの目が見えるようになり、
それだけでなく、その場に集まっていた盲人たち
すべての目がみな、開き見えるようになりました。

めでたしめでたしということですが、
私はこれまで単に、沈清が親孝行だから
その気持ちが天に通じたのだろうと考えていました。
何で他の盲人たちまで奇跡を受けたのか
不思議だったのですが、
今回浅川先生がさらっと種明かしをしていました。

韓国では、王妃のことを「国母」といいます。
(日本では、王の母を言うと思うのですが。)
「国母」だから、盲人たちを救うことができたのだと。

平和の母、真のお母様は、
だから世界中の人々を
真理の光で霊的に開眼させる
世界の母、天宙の母に違いありません。







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posted by ten1ko2 at 08:02 | Comment(0) | 「人類の涙をぬぐう平和の母」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月22日

夫婦の中にできた氷塊を溶かすものは、これしかない 《浅川先生・平和の母》



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浅川先生の「『平和の母』から学ぶ13の人生の道しるべ」
今回は、『真の愛を抱けば、悲しみも苦痛も喜びに昇華する』です。


事故もなく、大病にもかからず、夫婦げんかも小競り合いで終わり、
天国のような幸せがあったわけでもなく、
地獄のような苦しみもなかった夫婦がいます。

夫はつぶやきます。
「俺たちの人生、まあまあだったな」

妻は針仕事をしながら、
「そんなもんですかね」と無愛想に答えます。

結婚して50年、いつもの光景です。
波風の立たない無難な人生に、時折むなしさに駆られて
「人生、これで良かったのか」と考える時もありましたが、
「こんなもんさ」と開き直ってきました。

しかし「まあまあ」の人生が、神様が与えようとした
夫婦の喜びの5%にも満たなかったとしたらどうでしょうか。
それは悲劇を通り越して悲惨です。

この夫婦に悲しいこと、苦しいことがなかったわけではありません。
ただ、正面から向き合って解決せず、なおざりにして、
真剣さに欠けた居心地の良さが
夫婦を長持ちさせてきたにすぎないのです。


夫婦の愛の悲しみは、心の底に深く沈殿して、
冷たい氷のように凝固しています。
心の底をレントゲンや内視鏡で見れば、
氷塊の存在を知ることができるはずです。

人は必ず死んであの世に行きます。
あの世には、目で見え、手でつかめるものは持参できません。
持参するのは、心の底に沈殿した氷塊だけなのです。

氷塊は、永遠の世界で語り掛けるでしょう。

「なぜ結婚して夫婦になったのに、
真実の愛で愛し合い、喜びの人生を送れなかったのか」


死んでから後悔することほど悲惨なことはありません。
だから夫婦が生きている間に、
真の愛を与える決意をしなければなりません。

真の愛とは、与えて忘れ、さらに与える愛です。
夫婦が真の愛で愛し合ったとき、
夫の心の居場所は妻となり、妻の居場所は夫となるのです。

夫が「あなたの現住所はどこですか」と聞かれたら、
妻の名前を言えばいいのです。

人間の喜びは、夫婦が一心同体になったときに生ずるのです。
夫の喜びは妻の喜びであり、妻の喜びは夫の喜びです。

互いが真の愛を与えていったとき、悲しみも苦痛も、
固体が液体を通り越して気体となって天に舞うように、喜びに昇華します。

昇華とは、氷が熱さの故に、
水を通り越して気体になることをいいます。

真の愛という熱気を夫婦が与え合うとき、
喜びと歓喜の世界に昇華するのです。


真の夫婦となられた「平和の母」韓鶴子夫人は言われます。

「お互いが完全に愛し合うということは、
 相手が自分の中におり、
 自分が相手の中にいるということです。

 人間が求めるものの中で、最も貴いのが愛です。
 …真の愛を抱けば、いかなる悲しみと
 苦痛も、喜びに昇華します」

(韓鶴子総裁自叙伝『人類の涙をぬぐう平和の母』301ページ)。

『平和の母』13の道しるべ 10
真の愛を抱けば、悲しみも苦痛も喜びに昇華する
浅川 勇男

「平和の母」シリーズ第2弾
(韓鶴子総裁自叙伝『人類の涙をぬぐう平和の母』関連記事)
自叙伝書写の第一人者、浅川勇男氏による
「『平和の母』から学ぶ13の人生の道しるべ」をお届けします。
(Blessed Lifeより)


「人は、恋愛経験を通して愛を学び、
最終的に伴侶と出会っていく」
これは原理的には合っていません。

『真の愛を抱けば、悲しみも苦痛も喜びに昇華する』
浅川先生の表題にもありますように、
一人の人を愛することを通じて、
様々な心情を通過します。

しかし、最終的には、
喜びに昇華する、というのです。

なぜでしょうか。
背後には「真の愛」があるからだと思います。

神様の愛を媒介として、
物事を捉えていくことを通じて、
全てが喜びに変わっていく、というのです。






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2020年08月19日

「許せない!」 傷つくのは、傷つける人ではなく、私の我(ガ)のせい?! 《浅川先生》



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第30回、7.1節、おめでとうございます。

浅川先生の「『平和の母』から学ぶ13の人生の道しるべ」
今回は、『怨讐のために祈る自分のない生活を実践する』です。


神への祈りは、幸福の道を開きます。
 
では、誰のために祈るのでしょうか。
 
大概は、自分の健康、生活の安定、仕事や
人間関係の改善のために祈ります。
さらに家族や友人のために祈ります。

しかし決して祈りの対象にならない人たちがいます。
自分を傷つけた、憎らしい人たちです。
敵であり怨讐です。

怨讐のいる人は、幸福にはなれません。

夫婦が怨讐関係になったらどうでしょう。
絶対に夫婦円満は望めません。

夫がどんなに仕事がうまくいっても、
家に帰れば妻という怨讐が待っているからです。
妻がどんなに楽しいドラマを見ても、
夜になると夫という怨讐が帰ってくるからです。


怨讐とは、自分を傷つけた人です。
ではなぜ、傷ついたのでしょうか。

「自分が」という「我(が)」があるからです。
我が柱のように立っているからです。
柱は刃物で傷つきます。
「我柱(がばしら)」と言ってもいいでしょう。

相手の言葉や行動で、自分の「我柱」が
傷つけられたので、相手を憎んでいるのです。

我のある人が誰よりも愛しているのは「自分」です。
怨讐をつくり出しているのは、他でもない、自分なのです。

我のある人は 許せない人、憎む人をつくり出し、
自ら幸福への道を遮断します。


ところがこの世界で我がなく、傷つかないものがあります。
空気です。

人は食事をしなくても、ある期間は生きることができます。
しかし空気を吸わなければ、瞬時にして死にます。
まさに空気は愛なのです。

空気には我がありません。
空気のおかげで生かされているのに、
感謝する人はほとんどいません。
だからといって空気は傷つきません。


空気のように為に生きれば、我が消滅するのです。
愛は我をなくします。

真の愛とは、与えて、それを忘れ、
さらに与える愛です。

相手を幸せにするために、
喜んで与え続ける愛なのです。
空気のような愛なのです。

報いを求める愛には、根底に我があります。
それ故、愛の見返りがないと相手を怨讐にしてしまいます。

真の愛は、与えて自分を誇るのではなく、
不足を恥じる愛なのです。

自分の我が怨讐をつくり出しているので、
「自分がある生活」をしていたら、
怨讐のために祈ることはできません。


「平和の母」は語られています。

「怨讐の顔を見ながら、そこに神様の顔を
 見いだそうという努力をしていない限り、
 実行できないことです。

 怨讐を怨讐として考えず、むしろ
 その人のために祈り、許すこと。

 これは、『自分がない生活』をしていてこそ、
 可能なことなのです」


(韓鶴子総裁自叙伝『人類の涙をぬぐう平和の母』300ページ)

『平和の母』から学ぶ13の人生の道しるべ 9
怨讐のために祈る自分のない生活を実践する
浅川 勇男


お母様の自叙伝は、文章の一つ一つに
深い意味合いが込められています。

いつも訓読していても、そのことを
発見できずにいますが、
浅川先生は、精読しておられるのでしょう。
わずか一文に込められた心情を読み取られるのは、
さすがだな、と思いました。

真の父母様は恩讐という概念をもっておられない方。
まさに浅川先生が表現されているように、
空気のような存在であると思います。

ですから、真の父母様をしっかりと理解し、
心情においても近くなることを通じて、
清い空気に触れる者となり、
心が洗われていくのだな、と感じます。

真のお父様は、7.1節の時、子女の責任分担として、
『氏族メシヤ』としての出発を願われました。
メシヤとは、恩讐のない、真の愛を持った立場です。

真の父母様の勝利圏を相続すべく、
地域、氏族圏に対しても
真の愛をもって接していく者となっていきたいと思うのです。







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