2024年02月10日

間違いだらけの自己犠牲、旧統一教会が必要な理由 心と体が一致しない・終 《金元弼先生のベストアンサー》



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心と体が一致しない私たち、
見えない神様と一つとなるためには、
どのようにしたらいいのでしょうか。

金元弼(ウォンピル)先生のみ言、
「完全な救い」の最終回、
「堕落性を脱ぐために」です。

堕落性を脱ぐために

メシヤはこの時を願います。

堕落性を脱ぐためには、
堕落した環境の中にあって抜き取るのです。

人のために行動している時は、
自分のための堕落性は抜き取れません。
人のために行っていたのに何の実績もなく、
我に帰ったその時、自分のための堕落性を
抜き取る絶好のチャンスです。

メシヤは復帰の摂理を進行させていきながら
何を願ったかといえば、
人々の堕落性を脱がせてあげることです。

個人のためにしている時は、
個人の堕落性を脱ぐことはできません。

家庭のために行う時、個人のためにという
心が起きても、家庭のために己を犠牲にする
という心をもって己を抜き取るのです。


個人的堕落性は、家庭の問題を通じて脱ぐのです。
家庭的堕落性は国家の問題を立てて抜き取るのです。

家庭的堕落性を脱ぐためには、家庭を犠牲にしなさい
というようなことでは脱げません。

堕落性というものは潜在していますから、
あらわにしないと脱げないのです。

だから発露させるためには、氏族とか民族とかを
両立させて、何を先になすべきか、という時に
民族を選んだら、家庭的堕落性は脱げるのです。

個人のため、家庭のためという自分中心の
堕落性を脱ぐために、神は父母や兄弟に行くより
神に帰ってくることを願うのです。

神を取るべきか、父母や兄弟を取るべきか。
堕落性を脱ぐためには必ず両方がなければならないのです。

家庭を捨てて開拓伝道に出ます。
これが韓国での祝福家庭です。
民族を愛するか、家庭を愛するか、この時
家庭のために堕落性があらわになってくるのです。

世界のために国を犠牲にしても…という時、
国家的堕落性が脱げるのです。

 
私たちが何をなすにも、その出発を
はっきりしなければいけないというのです。

神の六〇〇〇年の復帰摂理は、アダムとエバが
自分を中心にして堕落したのですから、
自己否定の道へ導いていくのです。

導いて、私たちの完成を願い、
自分のためにという心を否定させるのです。

摂理を導いていくメシヤは、天的蕩減条件を立て、
そして神の摂理を成就していくのです。

皆さんに疑いがあっても、メシヤの立場から見れば
必ず何か成就されていることを知らなければなりません。

 
「ために行う」というのは、
誰を中心に行っているのかということです。

蕩減条件が成る、堕落性が脱げるというのは、
メシヤを中心とした因縁をもっているからこそ
堕落性を脱ぐ条件が成立するのです。

メシヤとの因縁をもたないで、自分を中心として
人のためにやり、国のためにやったとしても
堕落性は脱げません。
これをはっきりしなければなりません。

この世の中に宗教はたくさんあります。
この人たちは自分なりの神を中心として、
国のためにといいますが、根本的には堕落性が脱げません。

もしこの人たちによって堕落性が脱げるとするならば
統一教会は必要ないのです。
神と一致したメシヤを中心とすることによって
堕落性が脱げるのです。

メシヤを中心として、自己のためにではなく、
神の願う世界のために自分を捨て、否定していく道を
通じてこそ堕落性は脱げていくのです。

U 先生の道は我々の伝統
第十二章 完全な救い
「堕落性を脱ぐために」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題

*堕落性を脱ぐとは:堕落性とは全ての人間が持つもので、大きく分けて4つありますが、簡単に言えば、神から離れることによって生まれてしまった自己中心的な性質のこと。堕落性を脱ぐとは、その堕落性を克服、解脱すること。(これは、公式解説ではありません)
再編集 文責:ten1ko2


「完全な救い」のためには、
堕落性を脱がなければならない。
それが、見えない神と、私の心と体が
一つになることだといいます。

自分がいくら犠牲になったつもりでも、
天と一致した、メシヤ(真の父母様)と
一つとならなければ、
堕落性を脱ぐことも、心と体が
本当の意味で一つとなることもできません。

「自分自身」の堕落性を脱ぐために
国家や世界のために歩む・・・
ちょっとこれは誤解を招く表現ではありますが、
何よりも、それが神様の願いであり、
自分自身の本心の叫びであるから行動するのだと思います。


UPA卒業生が今回、世界宣教に出発することになりました。

卒業して、個人の行く道、願う道もあったでしょう。
しかし、お母様から世界宣教に行くように、
その願いを受けて、出発しました。

また、それに合わせて
「神トップガン」という立場で、
日本の二世たちも同じように宣教に出発していきます。

実は私が所属する教会の祝福二世も
神トップガンを希望して、
今回選ばれて今年の春から、
海外へと出発していく事になりました。

本当に頑張ってほしいです。

私たちも、日本にあって、あるいはそれぞれの
与えられた環境圏の中にあって、同じように
神のために、世界のために
頑張っていきたいと思います。

それによって少しでも堕落性が脱げていき、
神様に近づいていく、それが
私たちの喜びであり、救いだと思うのです。




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教会本部の意向とは直接関係がありません。
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posted by ten1ko2 at 11:52 | Comment(1) | TrackBack(0) | 金元弼先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年01月29日

神や人のためではなく、自分のためにしていませんか? 心と体が一致しない4《金元弼先生のベストアンサー》



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心と体が一致しない私たち、
見えない神様と一つとなるためには、
どのようにしたらいいのでしょうか。
まず、メシヤと一つとならなければなりませんが──

金元弼(ウォンピル)先生のみ言、
「完全な救い」の続き
「我々を導くメシヤ」です。

 
メシヤは私たちをどのように導いていくのでしょうか。

それは、神のために私たちを
最高の基準にまで進めていかれるのです。
私たちもそういうように導いていくならばメシヤです。

メシヤは、これを通じて何を成そうとされるのですか。
神の目的のためです。

メシヤが国家のために活動する時、
私たちがメシヤと一つになって動けば、
私自身も国家のために活動したことになります。

メシヤは私たちを個人的、
家庭的な次元にとどめたくないのです。
結局は、天宙的なもの、神と
一致した者として完成させたいのです。

完成させるためには、その方向に
私たちを動かしていかなければならないのです。


そこで問題になることは、私たちがメシヤと
一つになって国家のためにやっているから、
国家的完成をなした者かということです。

私個人としては、兄弟のために心の奥底から
本当に喜ぶことができないというような、
個人的な完成もしていない者です。

それにもかかわらず、国家的完成を
なした者だといえるのだろうか、という問題です。

それはいつも私という個人に帰るわけです。
私たちの生活は、良い心が入れば良い行いをするし、
悪い心が入れば悪い行いをします。
肉体は、心のままに働くのです。


人間が見る完成というものと神が見る完成というものとは、
その基準が違っているということを
はっきり知っておかなければなりません。

私たちの位置はどういう世界に立っているかといえば、
完成した善なる世界と、悪の世界の
二つの中間の立場に立っているのです。

昔は、善なる世界も、悪なる世界も
分からない混沌とした世界でした。
しかし、知ってみるとそれは、明らかに
善と悪の二つの世界に分かれているのです。

私たちは善と悪の二つの影響を受けながら
生活しているのですから、これを
分別していかなくてはならない立場に立っています。

神の世界を中心として、堕落した世界を
神の世界に一致させていかなければならない
メシヤのような立場に立っているのが私たちです。


個人的には、心と体が一致せず、
体に傾いた生活をするので、個人的に
人格者ではない、気持ちが悪いという人がいます。

ところが、国家ということになった時、
その心は国家のために傾いていって、
神の願う国家のためにと、体を捨てて、
自分から率先して前に立って戦うのですから、
個人的によくない感情などがあったとしても、
国家のために先頭で戦っているその人の姿を見る時、
個人的な感情はなくなってしまうのです。

消え絶えてしまうというのではなく、
そのことによって薄められるということです。


反対に、個人的には非常に良かったけれども、
国家という問題に対しては、自分の
個人的な安定を保つために、動かなかったとします。

これを神はどのように見られるのだろうかという問題です。
個人的には誤りがあり良くなかったけれども、
国家のためになるという場合、全部許されるのです。

今、私たち個人個人としては、神から見れば
とても救うことができないというのです。
堕落性でいっぱいだというのです。

だから、国家のために、神のためにと尽くすことによって、
個人個人は足りないけれども、そういうことを通じて、
神は、私たちの堕落性を脱がせようとされるのです。
許そうとされる愛もあるのです。

神のゆえに、完成の基準が上のとき、
それより下のことは全部許されるのです。


蕩減の期間が過ぎればどうにかなるというような
甘えた考えは間違いだと思います。

イスラエル民族は、約束の四〇〇年期間の
奴隷生活では、出エジプトができませんでした。
蕩減はごまかしがないのです。

神がイスラエル民族に四〇〇年の期間を与えたというのは、
その期間を過ぎればよいというのではなく、
その期間は猶予として与えたのです。

だから、与えられたその期間中
神の愛を求めなさいという、神の内情があったのです。

ところが四〇〇年過ぎても、神の愛を求めなかったから、
出エジプトが成らずに延長の路程があったのです。

神は苦労されて、メシヤをして私たちを
国家の勝利者にさせようとするのです。
そういう目的があって、この仕事をしなさいといわれるのです。
ただこの期間が過ぎ去ればなんとかなる
というような考え方をしてはいけません。


メシヤは、この人を通じてある仕事をしたら、
この条件も、あの条件をもと…大きな願いがあるのです。

一つのことをすることによって、
六〇〇〇年の成しえなかった蕩減の条件を、
この時代に全部完成させようとするのです。

六〇〇〇年、成そうとして成せなかった蕩減の条件を、
メシヤは深刻な一瞬一瞬によって
全部成し遂げなければならないのです。

 
神の願いがあります。
人には人の願いがあります。

神の願いを受け入れないのではなく、
神の願いを中心に、いかに
人の願いを一致化させるかということです。

神の願いに耳を傾けたら、人はついて来ません。
人を喜ばせるべきか、神を喜ばせるべきか。

メシヤは神の喜びと願いの道をたどらなければなりません。
神の願いを、人を通じて成さなければなりません。
人の願いを無視しては成就できないがゆえに、
メシヤは汗と涙と血を流してこられたのです。

メシヤの願いと目的を成さなければならない皆さんです。
メシヤの願いを中心にして、兄弟の願いを
一致させていかなくてはならない皆さんの立場です。

だから、皆さんの汗と涙と血がなくてはならないのです。

 
ある期間を設けて一生懸命にやるのです。
これを成したら何か得られるだろうと考えてやるのです。

しかし何も変わったものがないとします。
そしてもし、無限にやらなくてはならないとしたら、
皆さんはあきらめてしまうでしょう。
しかし、何年何月までという期間があったらそれを期限として、
それが終わったならば何か変わるだろうと思って力が出ます。

しかし、何も変わったものがなく、
自分自身が願った基準にかなわない時、
非常にむなしくなるのです。

そういう時は心霊復興が必要となって、また次に備えるのです。

今度こそ熱心に頑張ったら与えられるだろうと
やるのですけれども、そんな時、
何かだまされるのではないかと思うこともあるのです。

だまされると思うのは、自分を中心とする時起こる心です。

最初は自分のためにではなく、国のために、
人のためにということで出発したのです。

自分のためにではなく、人のため、
国のためにやったのですが、実績がでなかった場合、
再度行かなければならないのに、
そういう場合にすぐ自分に帰ってくるのです。
私のためにという心に帰ってくるのです。
だから、むなしくなるのです。

「私はためになったのですか」と神に聞きもせず、
メシヤに聞きもせず、自分で考えて
自分に帰ってきてむなしくなるのです。

人のためにと思って出発したのですから、
結果も人のために…としなくてはならないのです。
しかし、出発は人のために、結果は自分のためにとなるのです。

出発が自分のためでしたら、
結果も自分のためになるのです。

U 先生の道は我々の伝統
第十二章 完全な救い
「我々を導くメシヤ」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
再編集 文責:ten1ko2


私は、み旨を歩んでいるから、
個人のことは棚に上げてもらえる・・・
その発想は違うのだと思います。

個人としても、しっかりと
証しを立てていくべきだ、
そういう時を迎えております。

そして、お母様が今の時をどのように見つめているか、
同じ方向を見つめていく時であります。

お母様と一つになるべく、
天心苑での徹夜精誠を基準に
しっかりと歩んでいきたいと思うのです。

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2024年01月16日

私たちは本物なのか?! だんだん大きくなっていく、これがホントの宗教、団体 《金元弼先生のベストアンサー》 



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心と体が一致しない私たち、
見えない神様と一つとなるためには、
どのようにしたらいいのでしょうか。

金元弼(ウォンピル)先生のみ言、
「完全な救い」の3回目
「天宙的な自分を形成したか」

天宙的な自分を形成したか

メシヤを中心として、いかに為に生きる私になったか、
メシヤの願いにかなった、
天宙的な自分を形成したかということが問題です。

兄弟のために生きたら、兄弟は私を嫌がりません。
それが実証です。

今、私たちはみ旨の前に、人類のために活動しています。
メシヤを中心として、一致していく完成の道なのです。


私はこれをしたいと喜んでやる人も、
義務と使命感で、神はこうであるから…
としてやる人も、本質においては同じです。

人のために、私の愛をささげるのです。

人のためになったということは生きがいとなります。
心が良くなります。

その確証としては、自分が完成していく過程において、
本当に良かったという生きがいを感じるのです。

完成の確証というのは、人々が私を好むようになるか、
嫌がるかで分かります。

私を好まないというのは、
ためにならないから好まないのです。
人はその人のためになってくれる人を好むものです。

 
メシヤが、私たちにこれをしなさいと言われます。
そして動けば発展するのです。

動くということは作用することであり、
作用するということは、授受することであり、
授受したら繁殖します。

神から受けた愛を発展させるためには、
人のために生きるという心を
発展させていかなければなりません。

個人のために成功すれば家庭の中に、
家庭のために成功すれば氏族の中に、
このようにして天宙のために、神のためにと、
完成という基準に向かっていくのです。

これがありがたい指導者です。
偉大なる指導者は何のために
私たちを導いていくのですか。
次元の大きい道へ導いていく人が良い指導者なのです。

U 先生の道は我々の伝統
第十二章 完全な救い
「神が人間に与えた愛の型」

信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
再編集 文責:ten1ko2


自分たちは、本物だ!
それは私たちが思うより、
周りの人達に思ってもらうことが重要です。

人の為に生きる、と言いながら
本当の意味で、社会に貢献する私たちなのか、
そのことを問わなければならない時を迎えています。

神様なら、お父様なら、イエス様なら、
どのように与えていかれるのだろうか、
そのことを意識していきたいと思うのです。



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posted by ten1ko2 at 10:55 | Comment(1) | TrackBack(0) | 金元弼先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする