2025年01月16日

死の収容所で──獄中の処世術 何も語らず、監房長が最初の弟子に! 《金元弼先生》



220213.jpg


金元弼先生のみ言。
今回は、「牢屋で最初の弟子を得る」です。

裁判の後、興南に行くまでの1ヵ月半を
過ごされた平壌刑務所でのエピソードです。
(1948年4月7日〜5月)


牢屋の中には柵があります。
あるものは鉄格子のような柵です。
そこから全部見えるようになっています。

少し空気が入るようになっているのです。
ここから物を入れます。

この片方にトイレがあります。
トイレといっても、おけのようなものが置かれていて、
この上に座って用を足すのです。

ですから人のいる中でしなければなりません。
見える中で……。
においも全部出ます。
もし、下痢でもしたら大変です。

入り口だけは格子ですから、
空気の流通は非常に良かったのです。

その部屋に最初に入って長くいる者は班長になるわけです。
そして風通しのいい所に座るのです。
最後に入った者は、トイレのすぐ隣に座らなければなりません。

死刑囚は長い日々をかけて判決が下されます。
牢屋の中で、金さんは一番長くおりましたから、
班長になっていました。

寝るとき、下は床だけで何もありません。
そして寝るのも、そのままで、
毛布一枚を下にして寝るのでした。

また一日中寝ているのではないのですから、
朝の一定の時間に起こし、夜も一定の時間に寝かせるのです。

昼間は横になることもできません。
正座の形できちんと座っていなければならないのです。
足も長く伸ばすことができません。

最初に入った者は、いい所に座るのです。
そしてこの人が出てしまったら、その位置を代わるのです。

牢屋の経験のない人は、入ったら
どのようにしたらいいのか全然分かりません。

しかし、先生は学生の時から幾度も牢屋に入った
経験がありますので、入るや否やあいさつをして、
自らトイレの近くに座られました。


一九五五年に先生が牢屋に入られた(七・四事件)ときは、
私も一緒に牢屋に入りました。

同じ部屋ではないのですが、その経験によって、
先生はどれほど牢屋の生活に慣れておられるか
ということをつくづくと知ることができました。

 
社会ではいくら教授であっても、高官であっても、
いったん牢屋に入れば泥棒と全く同じです。

先に入った者が親方になっていて、長官であっても、
大臣をした人でも、後からそこに入ったら
丁寧にあいさつしなければいけません。

「私は大臣をしたから、牢屋の中でも自分は大臣だ」
と言ったら、みんなから殴られて生き残れません。
皆さんはそういうことが分からないですね。

牢屋には牢屋の規則があるのです。
ですから、意地の悪い者たちは、「這いなさい」
と言ったり、いろんなことをさせます。

布団なんかをかぶせて殴ります。
誰が殴ったか分からないのです。


先生はそういう経験をよくされました。
それであいさつをして、すぐ全く同じ生活に入りました。

ところが、先生を待っていた青年は
班長ですから風通しのいいところにいるのです。

その青年は、先生が入ってくるのを見ると、
我知らず心が引かれていったというのです。
そこで彼は規則を破って、先生を自分の隣に呼んだのでした。

先生は共産主義の社会の様子をよく御存じなので、
牢屋の中では絶対に何も語りませんでした。
共産党の牢屋にはたくさんの思想犯が入っていました。

共産党は秘密党員を思想犯や政治犯のようにして、
その中に入れます。

そして、思想犯や政治犯のように気軽に話をするので、
味方だと思ってつい話をしてしまいます。
そうしますと、その人の秘密を知られてしまうのです。

 
三日目に彼は先生に、「私たちに
お話をしていただけませんか」と願ったそうです。

そこで先生はこの人たちに、今まで先生がみ旨のために、
人類のために歩んでこられたその路程を
ロレンスという人の名に例えてお話しされました。

その話が終わってから、先生はこの青年に向かって、
「あなたは誰にも言えない自分だけの悩みをもっていないか」
とおっしゃり、おじいさんが現れた時の話を
暗にその青年にお聞きになったのです。

先生はこの青年に意味があるということが
分かっておられたのでした。

彼は先生のみ言を聞く中で、
おじいさんが現れて教えてくれたのは
この方であるということに気が付いていました。

それでその青年は驚いて、今までの出来事を
先生に詳しく話したのでした。

彼は深く感激し、先生の弟子となることを誓いました。
そして牢屋の中の最初のお弟子になったのです。


このように先生が神のみ意、神のみ旨を成就せんとして
心情を尽くし、誠を尽くして行く道で、
たとえどういう困難が襲ってきても、
神は愛する子のために、神だけが知っている
準備をされるということをお話ししたいのです。

だから皆様も、神に愛されるようなみ旨を携えて行く道に、
どういう難しいことがあろうとも、
つらいことが襲ってこようとも
心配しなくてもいいというのです。

先生は牢屋に入られる時、全く心配なさらなかったのです。

I 平壌開拓から興南解放
第三章 興南監獄での伝道
「牢屋で最初の弟子を得る」

信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
再編集 文責:ten1ko2


お父様の監獄での歩み。
どんな環境にあっても神様と共に歩まれる、
強い信念の塊であることを感じました。

どんなに難しくてもつらいことがあっても、
心配しなくてもいい、
神様は私を愛して下さっている、
そのことを実感していれば、
心配する必要がない、ということを
私たちに教えてくださっています。
本当に励まされます。


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posted by ten1ko2 at 09:54 | Comment(1) | TrackBack(0) | 金元弼先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年01月07日

判決文から「虚偽」の項目削除させる *やはり無実だった!取り調べ検事の告白 《金元弼先生》



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公判があったとされる裁判所(日本統治時代の平壌覆審法院)


金元弼(ウォンピル)先生のみ言。
今回は、「裁判で五年の実刑下る」です。

話はまた公判の日、1948年4月7日に戻ります。


私は教会生活の中で、先生は静かな方とだけ考えていました。
けれども、先生の威厳のある様子を見た時に、
先生の違った世界を見始めました。

本当に闘う時が来たと感じました。
先生が考えておられる様子は、これから闘う時が来る
というふうに構えているような、あるものを感じました。

裁判の全貌が新聞紙上に発表され、
多くの既成教会の人たちが裁判所に集まってきました。
彼らは、イエスは頭に何をかぶっていたかと嘲笑し、
先生を殺さなければならないと叫びました。

先生は多くの教会指導者たちや共産党員たちが大勢傍聴する中で、
四月七日に公判の席に出られ、大きく背伸びをし、
余裕をもって堂々と裁判を受けておられました。
その姿に、教会で見ることのできなかった面を見て、
深く考えさせられるところがありました。

 
最初に先生の裁判が始まり、
彼らが第一に先生に質問したことは、
「お前、何を専攻したのか」ということです。
それから名前など全部聞くのです。

先生は、「電気工学を専攻した」と答えました。
それで彼らは、「それでは、電気は
どのようにしてつくるのか」と質問しました。

先生は、電気がどのようにしてできるのか
電気発生の原理を説明していきました。
彼らはその点をねらったのです。

なぜならば、電気は見えないものであり、
人間がつくるものです。
それで、人間が見えない電気をつくるというならば、
神は見えないのだから人間がつくったものだというのでした。

見えない電気を人間がつくるごとく、
人間は神をあるようにつくり上げたのだというのです。

 
そのようにして、先生に対する
いろいろな問題を取り上げていったのです。
そして先生に対する判決文を読み上げました。

そこには、先生がたくさんの無知な人たちを
甘い言葉で誘惑して、虚偽を捏造し、
たくさんの金品を搾取したとか、
キリスト教の信者たちの家庭破壊や
社会の破壊をしたということが記され、
さらに社会の秩序を乱したという名目で判決したのです。

判事は判決文を全部読んでから、
「これに関して改める言葉はないか」
と先生に聞きました。

先生は、判決文の中で、社会秩序を乱したとか
金品を取ったとかいうことにはひと言も触れないで、
北韓で虚偽をしたという名目に対しては、
「判決文から取り除きなさい」と願い立てました。

共産主義の社会でそういう話をすれば、
かえって罪が重くなるということを考えますから、
普通の人は「どうかあなたの言うとおりに
服従しますから、何とか罪を軽くしてください」
という思いをもって、黙っています。

しかし、先生はそういうことは問題にしないで、
正しいことは正しいとしたのです。

「要請を受け入れる」と判事は答えました。

 
こうして先生は五年の実刑を受けました。
他の人たちは手錠をかけられて泣いていました。

先生は大変ひもじいはずですから、メンバーの一人
(玉世賢先生)が先生にお弁当をつくって差し上げました。

私たちは、これから五年間は先生との時間をもてなくなり、
別れていなければならない立場に立ちました。
それはちょうど親から離れる子供のような心情でした。

先生は他の同僚と同じく、片方の手には手錠がかけられ、
片方には食べ残したお弁当を下げていました。

私たちといよいよ別れるとなると、
弁当をお持ちの手を高く挙げて、「私は今は行くが、
再び帰ってくる時まで元気で頑張っていなさい」
と暗示をしてくださりながら、
笑顔で私たちを送ってくださいました。

先生には一つの啓示があって、牢屋には先生を迎えるために、
若い青年が待っているということを御存じでした。

それで牢屋に入られる時にも、その人に会える
という喜びと希望を抱いて出発したのでした。


裁判を終えて、先生は既決囚たちの待合室で待っていたのですが、
そのところに、たまたま先生を調査した検事が
何かの用事があって通りかかりました。

その時に、彼は長い月日の間先生を取り調べていましたから、
先生の顔は一見して分かるはずですが、
良心の呵責があったので、
知らぬふりをして通り過ぎようとしました。

先生は彼を呼び止めて、
「私が分からないでしょうか」と聞かれたのです。
すると彼は、「そうでしたね」と答えました。

そして先生に本当に申し訳ない顔をして、
「実はあなたについて何もなかったのですが、
上の方から命令がありましたので、
私は致し方なくてこうなりました。
人間的なことは全部水に流して、
私をお許しください」と先生にお話ししました。


そして彼は出て行ったのですけれども、
先生が牢屋の中へ戻られますと、
彼からたくさんの食べ物が贈られていました。

先生はその食べ物を見て、食べるべきか
そうすべきでないかと思って、長いこと費やされたというのです。

というのは、彼が薬を中に入れているのではないか
と考えたからです。

先生の性格として、もし先生がその人であったら、
体面を考えて差し入れなどはできないというのです。
その体面を乗り越えて、先生に差し入れをした
という心を非常に重くみたのです。

先生ができないようなことを彼はしたのです。
そういうことで、先生は中の人たちと分けて食べられたのです。

先生は、一言二言に対してこまかくお考えになる
ということがお分かりになると思います。


判事の言行から見ても、
先生は何の罪もなくて五年の刑を受けたのです。

刑務所では、名前が呼ばれるのではなく、
代わりに番号で呼ばれます。
先生の番号は五九六番でした。

これを韓国の発音で読みますと、オ・グ・リュク
となりますが、オグルハダと発音が似ています。
先生は罪なくして入られました。
それに対して番号自体もオグルハダ(くやしい、濡れ衣を着せられるの意)
となって五九六になったのです。

I 平壌開拓から興南解放
第三章 興南監獄での伝道
「裁判で五年の実刑下る」

信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題


裁判後、お父様を取り調べをした検事は、
自分の本心を吐露しました。

人は思想の影響によって、
自分は正しく、この人は悪いとなれば、
良心が塞がれてしまうのか、徹底的に
痛めつけても、良心の呵責も感じないようです。

しかし、この検事は、ずっとお父様と接しただけに
感じるところがあったのでしょう。
上からの指示とのはざまで苦しんでいたようです。

真のお父様は、蕩減の道を行かねばならない、
そのことを悟られて覚悟をされておられたのかもしれません。

しかし、何も悪いところがない無実の立場でしたから
裁判の苦難の道でも、人類の救世主として
堂々としておられたのだと思います。

神様を心配させまいとされる、
お父様の強い信念と決意を感じます。


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2024年12月28日

興南で主を待っていた人がいた 「準備された死刑囚」 《金元弼先生のベストアンサー》



220118.jpg


金元弼(ウォンピル)先生のみ言。

文鮮明先生が、死の収容所に送られる、
そういう状態でも神を慰めていくことができたのは、
興南に、自分を待っている人がいると、
天に教えられたからでした。

そんな天から「準備された死刑囚」とは──


平壌の刑務所の中には、一人の死刑囚がいました。

この人は第二次世界大戦の時に、韓国人ですけれども
日本の陸軍士官学校の砲兵科を卒業して、
日本の軍人として出征した人です。

大けがをして生きて返ってきた将校(大尉)であり、
北の共産国家が成り立つと、人民軍に入って中佐となった人です。

人民軍に服務していた時に、北の情報を年一回ずつ
南に流したという証拠を示されて、
死刑の宣告を受けたのです。

死刑囚は別に収監されますが、彼は
自分で自分の命を絶とうとしたのが知れて、
手錠をかけられて死の日を待っていました。

その人は、金元徳(ウォンドク)といいます。

 
ところが、その青年にひと言の言葉が聞こえました。
それは彼の名前でした。
意識して見回しても、誰もいません。

2回目の声がまた聞こえました。
しかし見付けることができませんでした。
3度目の名前を呼ぶ声がして
初めて「はい」と答えました。

そしたら、その声は白いおじいさんの声でしたが、
そのおじいさんは彼に、
「お前は絶対に死なないだろう。
お前は南から上がってくる青年を
お迎えする準備をしなさい」とお告げを残して去りました。

 
それから幾日かたって、外から
自分の番号を呼ぶ声が聞こえました。

しかし彼は、幻の中の出来事は全部忘れていて、
死刑の執行がきたのだと思い、
恐る恐る立ち上がって出たわけです。

「これで死ぬ。死刑場へ行く」と思ったのでした。

ところが事情が変わって、
彼の予想もしないことが起こったのです。


彼は人民軍司令官の厚い信頼を得ていましたが、
その司令官がモスクワでの軍事会議に行っている間に、
彼の裁判があって死刑の判決が出たのでした。

司令官が帰ってみると、自分の一番信頼する部下が
死刑囚となっていたのです。

能力のある部下でしたから、死刑にだけは
しないようにということになりました。

そこで最高責任者に、「この人は砲術には貴重な人で、
うまく使ったならば、本当に有望な人物である」と言って、
直接自分が身分を保証するという条件でやっと死刑を免じてもらい、
4年8か月の刑を言い渡されるようになりました。


彼はそういうことを通じて、
幻でのおじいさんのお告げを思い出したのです。
「死なない」と言われたごとく、死を免れたのでした。

大部分の人は、大きな恵みに会うと、
次にやらなければいけないことをおろそかにしがちです。

彼も1か月も過ぎると
先生を迎える準備を全部忘れていたのでした。

 
そうしていたある日、白いおじいさんが現れて、
彼の名を激しく呼びました。

「金!私が言ったことをお前は忘れたのか」
と言ってしかりました。

それからこの人は19日間、体が痛くて
どうにもこうにもできないような苦痛を受けました。


その人の父親は、自分の愛する子供が
死刑を宣告されたことを知ってから、
心を痛めて病気になってしまいました。
その上、自動車にひかれて死んでしまいました。

すると今度は幻の中にお父さんが現れました。

「おじいさんが話してくれた青年の所に、
私が導いてあげよう。私の後についてきなさい」
と言われて、先生のおられる所につれて行かれました。

そこは宮殿でしたが、その階段を
最初は三段ずつ上がって礼をし、
その次は一段ずつ上がって礼をし、
やっと輝かしい玉座のある所までたどり着きました。

そこで王座におられる青年に大きく三拝敬礼を行いました。

あまりにも厳かな所だったので、
顔を上げることができないでいたところ、
お父さんに言われて、
王座に座っているお方の顔を上げて見ました。

するとそこは金のように光がまばゆく光り輝いていました。
あまりにもまばゆいので、
見つめることができず、顔を下げていました。

お父さんが「帰りましょう」と言うので、
今度はお父さんを従えて階段を下りてきました。

そして最後の階段を降りた瞬間に、お父さんはいなくなり、
それから自分の意識が戻りました。
そして幻の中の出来事であったと知りました。


(文鮮明)先生は5年の判決を受けて、その青年のいる
同じ部屋に入るようになりました。

その部屋には、20名近い人が収容されていたのでした。

I 平壌開拓から興南解放
第三章 興南監獄での伝道
「準備された死刑囚」

信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題


金元徳氏の証しは、金元弼先生の
このお話で初めて知りました。

ほかの文献によると、
真のお父様(文鮮明先生)と金元弼先生と一緒に
南下された朴正華氏という方がいましたが、
その方の前に、総班長をしていたということです。

その人物は、幻に白いおじいさんと
また実のお父さんが現れて、
真のお父様に従うように予言されたのでした。

神様が準備されていた人物であることの、
証明のような証しですね。

お父様は、絶望のような環境なのに、
「神様がどんな人を準備しているのか、待ち遠しかった」
そんな心持ちだったといいます。

私たちも限界の状況の時ほど、
希望を持ち続けていきたいと思います。




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