2024年02月25日

苦労の道に立たされたら この7年間、3年間が重要だといわれる時 《金元弼先生のベストアンサー》



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金元弼(ウォンピル)先生が
ヨーロッパにおられた30年前に、
意識されていた祈祷項目は
何だったのでしょうか。
 
1986年にヨーロッパで活動する日本人に語られたみ言
「天国創建のために」より、
「神に近づくための苦労」です。

神に近づくための苦労

私より先にヨーロッパに来て苦労している
兄弟姉妹も多いと思いますが、こちらに来て皆さんは、
第一に文化の違い、言語の違いのために
だいぶ苦労されたことでしょう。

しかしこの苦労というものは、私は、
すべて感謝すべきことであると思います。

いろいろ苦しい立場に立つときに、
私たちはもっと神を慕う心情が起こり、
また、神に対してもっと多くの
お祈りをすることができるからです。

ですから苦労の道に私たちが追い出されたということは、
結局は、神ともっと近くなるためであると
考えなければならないと思うのです。

 
私がこちらに来ていつもお祈りをしていることの一つは、
このヨーロッパの地に、いかにして
神願う伝統を立てるかということです。

これは私たち人間の力だけではできません。
ですからまず、天のお父様が、
この伝統をこのヨーロッパに立てられるように
導いてくださることを祈ります。

それから、ヨーロッパに文鮮明先生を慕う
統一教会の食口は多いですけれども、
そのすべての人が、神の本当の愛を
受けられる子女として成長できるように
してくださることを祈っています。

さらに、このヨーロッパの地に
「統一教会」という名前をつけた教会がありますが、
この教会が本当に神が立てようとしたその教会としての
使命と責任を全うできるように、
それをまた導き助けることができる
私となれるようにと、神に祈っております。

それからもう一つは何かというと、
キリスト教国家が使命を悟り、
神のみ旨を知ることができるようにということです。


このヨーロッパは東洋と違い、神の摂理が
二千年前から特別に成されてきた所です。
ですからこのヨーロッパには、
キリスト教が深く根づいています。

その神が、どうしてこの地にキリスト教を立てたか
ということを考えてみると、結局は
将来来たるべき終末の時に、神を否定し、
唯物論を立てて、神の最後の摂理に反対する勢力が
現れることを知っておられたと思うのです。

その時に対処するために、神はキリスト教を立てた、
こういうふうにも考えられるのです。

もちろん神が最後にこの地上に遣わす、
そのお方を送るためにもキリスト教は必要ですが、
それだけではなくて、神の最後の敵として立つ
共産主義が現れる時に、またその共産主義国家が現れる時に、
その共産主義を屈伏させて、その共産国家を
滅亡させる責任を、このキリスト教に与えたと思うのです。

ですからこのキリスト教国家が、その使命を悟って、
神が願われるとおりに一つになって、
本当の神のみ旨が何であるかを知ることができるように
祈っているのです。

そしてまた神が願い、人が願う真の平和と
幸福と自由と理想の世界は、この地上に
共産主義がある以上絶対に実現できないのですから、
国家的な利害関係を超越して、神の敵であり、
人類の敵である共産主義をこの地上から滅亡させる、
その使命を全うできるようにしてくださることを、
願っています。


ですから、このためには、霊界に行っておられる興進様と、
イエス様、そして喜進様、そして劉協会長、
それから私たちの祝福家庭出身のすべての食口、
そしてまた統一教会出身の食口、そしてキリスト教を
信じて行った霊界の人々、また他のいろいろな宗教を
信じて行ったすべての信仰者、そして良心的な人、

また善なる先祖、全部がこの地上に来て、
この地上に住んでいる後孫に働いて、
後孫の心を開くように協助すること、そして
神が願う地上天国が早くこの地上に実現できるように、
私はいつもお祈りしています。


また、こういうお祈りをしながら生活している
中において、感じることがたくさんあります。

皆さんも、皆さんの国において、そして
また皆さんが担当している責任分担を果たすために、
いろいろと感じることがあると思います。

今年は、特に神の摂理の中において、
最も重要な期間の一つです。
1986年から1988年までの3年間は、
神の願っている最小限度のあることが
成就されなくてはならない期間です。

84年の1月2日に興進様が昇華され、
先生が同年の7月20日から、
85年の8月20日までの1年1カ月間、
ダンベリーにおいて苦労されました。

その苦労によって、今まで、統一教会の祝福家庭をはじめ、
統一教会のすべての食口、またキリスト教が、
そしてアメリカ、韓国、日本、すべての摂理的中心国家が、
責任を果たせなかったことを蕩減する、
そういう条件を立てられたのです。

この蕩減条件が立てられた次の年が今年です。

ですから、今年から88年までの3年間、
そしてこれがもっと続けば92年までの7年間において、
神はあることが成されることを願っており、
また先生もそれを成すために今、
一心不乱になって働いておられます。

ですから私たちも、神の子として、
神が願う教会の信徒として歩む以上、
神の願いと、真の父母の願いと一致した
願いをもってこの期間を歩まなければ、
私たちの責任を全うできないのです。

ですからこの年、何を神が求めておられ、
そしてまた、真の父母が何を考えて、
どういうことを私たちに願っておられるかを
知ることが、とても大事であると思います。

天国創建のために 
1986年4月4〜7日 
ドイツ・カンベルグ修練所(日本人修練会)
再編集 文責:ten1ko2


キリスト教を信仰している人の多いヨーロッパ。
ある意味ではそれゆえに、家庭連合の信仰を持つ人が
非常に少ない、ということなのかもしれません。

そのような中、金元弼先生は、
どれほど切実に、深刻に祈りを捧げられたことでしょうか。

困難、苦労を感謝する、ということは、
簡単なことではありません。

私も昨年の春、本当に苦痛の日々を過ごしました。
正直に告白すれば、「感謝します」という祈りよりも、
「苦痛を逃れさせてほしい」という祈りも、
少なからずあったように思います。

しかし、苦労することは、決して悪いことではない、
そのことをつくづく感じます。。。

真の父母様とともに
今の立場を感謝していきたいと思うのです。


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posted by ten1ko2 at 09:06 | Comment(2) | TrackBack(0) | 金元弼先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年02月10日

間違いだらけの自己犠牲、旧統一教会が必要な理由 心と体が一致しない・終 《金元弼先生のベストアンサー》



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心と体が一致しない私たち、
見えない神様と一つとなるためには、
どのようにしたらいいのでしょうか。

金元弼(ウォンピル)先生のみ言、
「完全な救い」の最終回、
「堕落性を脱ぐために」です。

堕落性を脱ぐために

メシヤはこの時を願います。

堕落性を脱ぐためには、
堕落した環境の中にあって抜き取るのです。

人のために行動している時は、
自分のための堕落性は抜き取れません。
人のために行っていたのに何の実績もなく、
我に帰ったその時、自分のための堕落性を
抜き取る絶好のチャンスです。

メシヤは復帰の摂理を進行させていきながら
何を願ったかといえば、
人々の堕落性を脱がせてあげることです。

個人のためにしている時は、
個人の堕落性を脱ぐことはできません。

家庭のために行う時、個人のためにという
心が起きても、家庭のために己を犠牲にする
という心をもって己を抜き取るのです。


個人的堕落性は、家庭の問題を通じて脱ぐのです。
家庭的堕落性は国家の問題を立てて抜き取るのです。

家庭的堕落性を脱ぐためには、家庭を犠牲にしなさい
というようなことでは脱げません。

堕落性というものは潜在していますから、
あらわにしないと脱げないのです。

だから発露させるためには、氏族とか民族とかを
両立させて、何を先になすべきか、という時に
民族を選んだら、家庭的堕落性は脱げるのです。

個人のため、家庭のためという自分中心の
堕落性を脱ぐために、神は父母や兄弟に行くより
神に帰ってくることを願うのです。

神を取るべきか、父母や兄弟を取るべきか。
堕落性を脱ぐためには必ず両方がなければならないのです。

家庭を捨てて開拓伝道に出ます。
これが韓国での祝福家庭です。
民族を愛するか、家庭を愛するか、この時
家庭のために堕落性があらわになってくるのです。

世界のために国を犠牲にしても…という時、
国家的堕落性が脱げるのです。

 
私たちが何をなすにも、その出発を
はっきりしなければいけないというのです。

神の六〇〇〇年の復帰摂理は、アダムとエバが
自分を中心にして堕落したのですから、
自己否定の道へ導いていくのです。

導いて、私たちの完成を願い、
自分のためにという心を否定させるのです。

摂理を導いていくメシヤは、天的蕩減条件を立て、
そして神の摂理を成就していくのです。

皆さんに疑いがあっても、メシヤの立場から見れば
必ず何か成就されていることを知らなければなりません。

 
「ために行う」というのは、
誰を中心に行っているのかということです。

蕩減条件が成る、堕落性が脱げるというのは、
メシヤを中心とした因縁をもっているからこそ
堕落性を脱ぐ条件が成立するのです。

メシヤとの因縁をもたないで、自分を中心として
人のためにやり、国のためにやったとしても
堕落性は脱げません。
これをはっきりしなければなりません。

この世の中に宗教はたくさんあります。
この人たちは自分なりの神を中心として、
国のためにといいますが、根本的には堕落性が脱げません。

もしこの人たちによって堕落性が脱げるとするならば
統一教会は必要ないのです。
神と一致したメシヤを中心とすることによって
堕落性が脱げるのです。

メシヤを中心として、自己のためにではなく、
神の願う世界のために自分を捨て、否定していく道を
通じてこそ堕落性は脱げていくのです。

U 先生の道は我々の伝統
第十二章 完全な救い
「堕落性を脱ぐために」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題

*堕落性を脱ぐとは:堕落性とは全ての人間が持つもので、大きく分けて4つありますが、簡単に言えば、神から離れることによって生まれてしまった自己中心的な性質のこと。堕落性を脱ぐとは、その堕落性を克服、解脱すること。(これは、公式解説ではありません)
再編集 文責:ten1ko2


「完全な救い」のためには、
堕落性を脱がなければならない。
それが、見えない神と、私の心と体が
一つになることだといいます。

自分がいくら犠牲になったつもりでも、
天と一致した、メシヤ(真の父母様)と
一つとならなければ、
堕落性を脱ぐことも、心と体が
本当の意味で一つとなることもできません。

「自分自身」の堕落性を脱ぐために
国家や世界のために歩む・・・
ちょっとこれは誤解を招く表現ではありますが、
何よりも、それが神様の願いであり、
自分自身の本心の叫びであるから行動するのだと思います。


UPA卒業生が今回、世界宣教に出発することになりました。

卒業して、個人の行く道、願う道もあったでしょう。
しかし、お母様から世界宣教に行くように、
その願いを受けて、出発しました。

また、それに合わせて
「神トップガン」という立場で、
日本の二世たちも同じように宣教に出発していきます。

実は私が所属する教会の祝福二世も
神トップガンを希望して、
今回選ばれて今年の春から、
海外へと出発していく事になりました。

本当に頑張ってほしいです。

私たちも、日本にあって、あるいはそれぞれの
与えられた環境圏の中にあって、同じように
神のために、世界のために
頑張っていきたいと思います。

それによって少しでも堕落性が脱げていき、
神様に近づいていく、それが
私たちの喜びであり、救いだと思うのです。




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2024年01月29日

神や人のためではなく、自分のためにしていませんか? 心と体が一致しない4《金元弼先生のベストアンサー》



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心と体が一致しない私たち、
見えない神様と一つとなるためには、
どのようにしたらいいのでしょうか。
まず、メシヤと一つとならなければなりませんが──

金元弼(ウォンピル)先生のみ言、
「完全な救い」の続き
「我々を導くメシヤ」です。

 
メシヤは私たちをどのように導いていくのでしょうか。

それは、神のために私たちを
最高の基準にまで進めていかれるのです。
私たちもそういうように導いていくならばメシヤです。

メシヤは、これを通じて何を成そうとされるのですか。
神の目的のためです。

メシヤが国家のために活動する時、
私たちがメシヤと一つになって動けば、
私自身も国家のために活動したことになります。

メシヤは私たちを個人的、
家庭的な次元にとどめたくないのです。
結局は、天宙的なもの、神と
一致した者として完成させたいのです。

完成させるためには、その方向に
私たちを動かしていかなければならないのです。


そこで問題になることは、私たちがメシヤと
一つになって国家のためにやっているから、
国家的完成をなした者かということです。

私個人としては、兄弟のために心の奥底から
本当に喜ぶことができないというような、
個人的な完成もしていない者です。

それにもかかわらず、国家的完成を
なした者だといえるのだろうか、という問題です。

それはいつも私という個人に帰るわけです。
私たちの生活は、良い心が入れば良い行いをするし、
悪い心が入れば悪い行いをします。
肉体は、心のままに働くのです。


人間が見る完成というものと神が見る完成というものとは、
その基準が違っているということを
はっきり知っておかなければなりません。

私たちの位置はどういう世界に立っているかといえば、
完成した善なる世界と、悪の世界の
二つの中間の立場に立っているのです。

昔は、善なる世界も、悪なる世界も
分からない混沌とした世界でした。
しかし、知ってみるとそれは、明らかに
善と悪の二つの世界に分かれているのです。

私たちは善と悪の二つの影響を受けながら
生活しているのですから、これを
分別していかなくてはならない立場に立っています。

神の世界を中心として、堕落した世界を
神の世界に一致させていかなければならない
メシヤのような立場に立っているのが私たちです。


個人的には、心と体が一致せず、
体に傾いた生活をするので、個人的に
人格者ではない、気持ちが悪いという人がいます。

ところが、国家ということになった時、
その心は国家のために傾いていって、
神の願う国家のためにと、体を捨てて、
自分から率先して前に立って戦うのですから、
個人的によくない感情などがあったとしても、
国家のために先頭で戦っているその人の姿を見る時、
個人的な感情はなくなってしまうのです。

消え絶えてしまうというのではなく、
そのことによって薄められるということです。


反対に、個人的には非常に良かったけれども、
国家という問題に対しては、自分の
個人的な安定を保つために、動かなかったとします。

これを神はどのように見られるのだろうかという問題です。
個人的には誤りがあり良くなかったけれども、
国家のためになるという場合、全部許されるのです。

今、私たち個人個人としては、神から見れば
とても救うことができないというのです。
堕落性でいっぱいだというのです。

だから、国家のために、神のためにと尽くすことによって、
個人個人は足りないけれども、そういうことを通じて、
神は、私たちの堕落性を脱がせようとされるのです。
許そうとされる愛もあるのです。

神のゆえに、完成の基準が上のとき、
それより下のことは全部許されるのです。


蕩減の期間が過ぎればどうにかなるというような
甘えた考えは間違いだと思います。

イスラエル民族は、約束の四〇〇年期間の
奴隷生活では、出エジプトができませんでした。
蕩減はごまかしがないのです。

神がイスラエル民族に四〇〇年の期間を与えたというのは、
その期間を過ぎればよいというのではなく、
その期間は猶予として与えたのです。

だから、与えられたその期間中
神の愛を求めなさいという、神の内情があったのです。

ところが四〇〇年過ぎても、神の愛を求めなかったから、
出エジプトが成らずに延長の路程があったのです。

神は苦労されて、メシヤをして私たちを
国家の勝利者にさせようとするのです。
そういう目的があって、この仕事をしなさいといわれるのです。
ただこの期間が過ぎ去ればなんとかなる
というような考え方をしてはいけません。


メシヤは、この人を通じてある仕事をしたら、
この条件も、あの条件をもと…大きな願いがあるのです。

一つのことをすることによって、
六〇〇〇年の成しえなかった蕩減の条件を、
この時代に全部完成させようとするのです。

六〇〇〇年、成そうとして成せなかった蕩減の条件を、
メシヤは深刻な一瞬一瞬によって
全部成し遂げなければならないのです。

 
神の願いがあります。
人には人の願いがあります。

神の願いを受け入れないのではなく、
神の願いを中心に、いかに
人の願いを一致化させるかということです。

神の願いに耳を傾けたら、人はついて来ません。
人を喜ばせるべきか、神を喜ばせるべきか。

メシヤは神の喜びと願いの道をたどらなければなりません。
神の願いを、人を通じて成さなければなりません。
人の願いを無視しては成就できないがゆえに、
メシヤは汗と涙と血を流してこられたのです。

メシヤの願いと目的を成さなければならない皆さんです。
メシヤの願いを中心にして、兄弟の願いを
一致させていかなくてはならない皆さんの立場です。

だから、皆さんの汗と涙と血がなくてはならないのです。

 
ある期間を設けて一生懸命にやるのです。
これを成したら何か得られるだろうと考えてやるのです。

しかし何も変わったものがないとします。
そしてもし、無限にやらなくてはならないとしたら、
皆さんはあきらめてしまうでしょう。
しかし、何年何月までという期間があったらそれを期限として、
それが終わったならば何か変わるだろうと思って力が出ます。

しかし、何も変わったものがなく、
自分自身が願った基準にかなわない時、
非常にむなしくなるのです。

そういう時は心霊復興が必要となって、また次に備えるのです。

今度こそ熱心に頑張ったら与えられるだろうと
やるのですけれども、そんな時、
何かだまされるのではないかと思うこともあるのです。

だまされると思うのは、自分を中心とする時起こる心です。

最初は自分のためにではなく、国のために、
人のためにということで出発したのです。

自分のためにではなく、人のため、
国のためにやったのですが、実績がでなかった場合、
再度行かなければならないのに、
そういう場合にすぐ自分に帰ってくるのです。
私のためにという心に帰ってくるのです。
だから、むなしくなるのです。

「私はためになったのですか」と神に聞きもせず、
メシヤに聞きもせず、自分で考えて
自分に帰ってきてむなしくなるのです。

人のためにと思って出発したのですから、
結果も人のために…としなくてはならないのです。
しかし、出発は人のために、結果は自分のためにとなるのです。

出発が自分のためでしたら、
結果も自分のためになるのです。

U 先生の道は我々の伝統
第十二章 完全な救い
「我々を導くメシヤ」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
再編集 文責:ten1ko2


私は、み旨を歩んでいるから、
個人のことは棚に上げてもらえる・・・
その発想は違うのだと思います。

個人としても、しっかりと
証しを立てていくべきだ、
そういう時を迎えております。

そして、お母様が今の時をどのように見つめているか、
同じ方向を見つめていく時であります。

お母様と一つになるべく、
天心苑での徹夜精誠を基準に
しっかりと歩んでいきたいと思うのです。

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