2025年02月02日

私は私のものではなく、 結局は、神のもの 天の心情をほどく 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言
今回は、『神の悲しみをほどく』です。


旧約時代からずーっと、祭物を中心にして、
幕屋を中心にして、預言者を中心にして、私たちを育ててきました。

それは、「お前はイスラエル民族だ、
ヤハウェはお前のものだから、ヤハウェの願いは
お前の生活そのものでなければならない」と教えてきたのです。
これを今まで私たちは学んできました


そこで私たちは、どれほどの祭物精神をもって、
主体者の恨みをほどこうとするのか。
どれほど忠孝心、愛着心をもっているかが問題になるのです。

私たちは神のものだというその奥には、
神御自身が「汝は神のものだ」という所有権を
実感しなくてはならないのです。

その実感によって、私たちが体恤するのは心情です。
その実感によってどういう心情が与えられるかというと、
神の恨み、悲しみを感じるのです。


そのあとに、どういう責任をもつようになるかというと、
神の悲しみをほどこうとするのです。
使命がそこから出発するのです。

自分がどの立場だと決定できずには、
使命感がわき上がりません。
決定したあとに、何か自分でない情が生まれてくるのです。

これは、自然にこうなるのです。
だから、神が悲しむのだなあ、ということを感じるのです。


そのあとには、行く道が違うということを体験するのです。

それで、結局は深く入ってみると、私たちが
神に何か目的があって信仰したのではなく、
要求する神様から私たちに言えない願いがあった
ということをつくづく感じる人が、
結局、存在位置を得るのです。

主管者との関係を結んだ証拠になるのです。

その面が私たちに与えられないと、
一方だけでは「自分は神のものだ」と言えても、
「神に献祭した者だ」とは言えないのです。

だんだん奥に入ってみると、自分が自分でないという
心情を通じて、どうしたら神の恨みをほどくかということが、
自分の知恵で、自然とわき上がるのです。

その悲しみや恨みを、神からは
なかなか私たちに言えないのです。

所有されたあと、情的に授受してみると、
その主体者の事情を深く感じるのです。
そして同じく暮らしてみて、
神の内容をだんだんと知っていくのです。

言葉で教えてくれるのは、内的神との関係ではありません。
結局、それは生命ではないのです。
言葉をこう聞くのは、その言葉の裏面に、
何かまた与えられるということです。


だから、私たちが「原理」を読んではいたけれど、
別にその内的な実感がなかったのに、
あるいはいつも知っていた内容で、
相当刺激を強く受ける時があるのです。

それはなぜかというと、その人の内面的な条件が立って、
何か神の願いはないかと尋ねる時に与えられるのです。

大先生(文鮮明先生)がいつもお話しされるように、
「関心のないところに成功はない」、
「関心のないところに自分の結果は現れない」
ということです。


信仰の本当の精神は、「絶対者のものだ」
と自分を信じることなのです。

今までの私たちの信仰は、まず自分が
神を信仰するのだ、と思ったのです。

はっきり言ってみれば、自分がなぜ
自分を絶対視するかというと、
み言によっての所有体験をしてみると、
結局自分は自分でないと感じるからなのです。

み言を通じてよみがえったその生命をもち、
自分が自分でないということを実感したあとには、
自分を信仰しなくてはならないのです。


なぜなら、もう非原理的な面を分別したからです。

分別する前には、自分を絶対視する自信はないのです。
いくら自分が一方だけで信仰しても、
何も与えられないから、何も力が来ないのです。

力が来ないのはなぜかというと、
まだサタンとの関係の未練があるからです。

未練のある者がいくら信仰しても、片方の信仰であって、
結局、自分自身の力を中心として信仰しているのです。

自分が自分でないことをつくづく感じるのは、
その悪主権から分立したのちに、
神から与えられた何かの力によってです。

自分を否定できないというのは、
否定してくれる力を与えられていないからです。
それがないと自分を否定できないのです。

それ以上の価値のあるものを所有してから、
捨てるのが、人間の本性です。

これを捨てたなら、この倍の価値のものを与える
といったら、捨てる自信が出るのです。

3.神に所有される者
「神の悲しみをほどく」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


ヨハネ先生のみ言というのは、
私が読み解く能力がないこともありますが、
なかなか難解だな、と思うことがあります。

これは、韓国人であるヨハネ先生が
日本語で語られたものなのか、
韓国語を翻訳したものなのかわかりませんが、
そういう言語の問題も多少あることでしょう。

今回のみ言も、ちょっと高度で深いので
簡単に読み過ごすと
なかなか心に入ってきませんでした。

さらにじっくり読ませていただく中に、
「神様と私の関係をはっきりさせること、
そのことによって、自分が分別され、
神様の恨み、心情を感じ、神様の悲しみをほどいていく」
ということを訴えておられるのだな、
と、感じることができました。

私は、「神様に所有される者」であるのだ、
そのことを常に意識して信仰していく、
そのような者になっていきたいと思うのです。



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2025年01月21日

心の中の善悪の葛藤を感じる人に 私は「だれのもの」か? 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言、
『神に所有される者』より
「自分はだれのものか」です。

 
供え物の目的は、所有権を決定することです。

摂理上、供え物を仲保として、
堕落して中間位置にいる人物を本然の位置へもとかえし、
復帰する目的で、祭物というささげ物を
中心としたことを私たちは知っています。

私たち堕落した者の立場は、その本然の位置から離れて、
願わない悪主権に因縁が結ばれてしまいました。
ですからその因縁を清算し、元の位置へ戻り、
元の創造主に所有されなくてはならないのです。

本心において、本然の位置に戻ろうとするのが
私たちの本性であり、創造主の願いです。
それで今まで仲保者を立てて、教育を受けてきたのです。

 
だれしも、まず自分の存在位置が、
本来願わないものであることを相当感じるのです。

信仰している私たちは、み言を中心として自分を見るときに、
自分がみ言のとおりの存在でないということを明らかに感じます。

み言の教育を受け、み言を中心として自分の本心を味わってみると、
自分にはもう一つの部分があって、
思うとおりにいかない面を発見するのです。

だから、み言を受肉するということは、
今までの自分を分別し始めるということなのです。

み言を中心としての本心、み言を中心としての所有権、
み言を中心としての自分の本心を所有される、
だれかの言葉を中心とした自分になりたい、
これが信仰だと思うのです。

 
それでだんだん日を過ごしてみると、
初めにみ言を中心として暮らしてみた経験から、
やっぱり自分はこの主権に所有されなくてはならないと実感し、
もっと深刻になっていくのが、
信仰者のだんだんと体験することです。

だんだん、自分は確かに神のものだということを確信して、
それが一つの供え物、祭物精神というか、
だんだんと自分は自分でないと感じるようになるのです。

もちろん信仰する前も、自分に対しての悩み、
自分が自分でないことも悟ったはずですが、
み言を中心として自分を分別してみると、
確かに自分の中で二人が闘っていることを発見するのです。

それで、心も相当悩んで、ローマ人への手紙第七章二十二節に
書いてあるとおり、相当苦しんだのです。

苦しんだというのは、一つのみ言、絶対なるみ言によって、
自分が幾分か絶対者に所有されたから、苦しみ始めるのです。
この苦しみは、以前のものと内容が違うのです。
信仰する前の、矛盾を感じながら悩んだ問題とは違うのです。

 
み言を中心として自分が生き返った、
本心をもっての闘いによる苦しみは、
これは完全に分立するための苦しみです。

それで、旧約時代には半分に裂いて、
血を流さなければならなかったのです。

半分に裂いて、死亡の血を捨てなくてはならないというのは、
結局、私たちも自分を、み言を中心として分立して、
今までの堕落の情を完全に流してしまうことです。

つらさを味わう、何かの蕩減によって
今までのみ言を知らなかった自分を分別するその苦しみは、
み言を中心として自分を半分に裂いて、
死亡の血を流してしまって、
それから所有された人に再創造するために、
なくてはならないことです。

だから分立しないと、創造者の所有は始まらないのです。

 
そのため、信仰は、自分が自分でないことを、
まず深く確実に実感したあと、
自分はだれのものだとはっきりすることです。
そして、自分の存在位置を守るのが、信仰の始めです。

結局、自分はだれのものかをはっきりし、
だれを喜ばせるかということです。

この祭物は、要求する人の願いを成してあげるものです。
神様が私たちを救い、神様が子女を失い今までもち続けてきた
恨みをほどくための祭物だ、という問題になるのです。

だから相当、信仰者は大胆でなくてはならないのです。
悟ったあとには、自分が絶対者の要求によって
自分も絶対者のものだと感じるようになるのです。

神も私たちを自分のものだと思って絶対視しているし、
私たちも自分が神のものだと絶対視したあとに、
存在基台が確立していくのです。
定まっていくのです。
この信仰が、最後まで続くと思うのです。

結局、祭物精神は信仰動機であり、それは
信仰が始まって以後にはどうでもいいというものではなく、
また最後なのです。

動機であり、結果なのです。

 
これが神の祭物に対しての願い、
神様の私たちに対しての願いなのです。

この精神が、その信仰路程においてあいまいになると、
大変なことが起こるのです。

「お前は中間者であり、サタンと関係が結ばれている。
それを清算して戻れ、絶対者のものになれ」
というのが神の今までの教育です。

3.神に所有される者
「自分はだれのものか」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)

再編集 文責:ten1ko2


天から与えられたみ言は、
永遠・不変・絶対的なもの。。。

神様の真の愛は目に見えませんが、
その愛をわかるように表現したものが、
み言、だと思います。

ですから、み言を訓読し、
それを生活化することを通して、
永遠・不変・絶対的なものを、
私自身に取り入れることになります。

どれだけ素晴らしいことでしょうか。

以前、お世話になった教会長が、
原理を学ぶことは、たとれば、
整体を受けることと同じだ、と言われました。

み言によって、自分自身を正していくことができ、
よい状態に保つことができる。。。
それは、本当に感謝なことです。

受けることができることを、貴く、
ありがたく思いながら、今日もみ言を
受肉できるよう心がけていきたいと思うのです。

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2025年01月05日

私たちは未来にいる! 「死なんとする者は生きる」のに、生きようとすると 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言。
「死んでも神のもの」です。


そのように教会長たちの信仰基台が発展していけば、
自然に貴重な人物として組み立てられ、組織されるのです。

私たちは、現在というもの歴史性と永遠性を知らず、
打撃を受けるものだから、この時間を超越できないのです。
私たちは、この時間圏内にいる者ではないのです。

実際、考えてみてください。
私たちは、現在にいる者ではないのです。
未来にいる者です。
未来の者であって、現在の者ではないのです。

だから復帰というものは、歴史的に済んだものを
解決しながら、永遠に生きていくのです。
そこさえよく解決すれば、蕩減条件が立つのです。


アダムの家庭において、
カインがアベルのことで減少感を受けたのです。
未来を見ずにおぼれてしまったのです。
現在に、もぐってしまったのです。
沈められてしまったのです。

自分はそういう問題に触れる立場ではないのです。
未来において、偉大になるからです。
今アベルが祝福を受けたところで、それに関係する必要はなく、
現在に主管される必要はありません。

減少感を受けたそのものも、
もはやその時間圏内に主管されています。
時間圏内におぼれてしまっているのです。
そこが一番問題です。


私たちもどんな事件にぶつかっても、
それが起きた理由を早く知って、
これが来る以前の自分の方向を移動してはいけないのです。

こういう事件、危機、危険がやって来る前の自分の態度が、
未来性、希望をもった安全な態度だとしたら、
それがぶつかってきても、自分は
その姿勢に責任をもたなくてはいけません。

こういう事件が、環境が変更になっても、
自分がその態度を守らなくてはならない責任があるのです。

そこが自分のもつべき責任であって、
その関係をどういうふうにするか、
これをどういうふうにすればいいかという責任は、
自分はもっていないのです。

だけれども、すぐ私たちはもう、
「この環境を、これを通して」
というようになってしまうのです。
だから、それに主管されてしまうのです。


「これをどうしようか」と言わずに、
その時、自分を捨てなくてはなりません。
危険な時には、自分というものは捨てるのです。

なぜかというと、神の立場だからです。
神が、自分たちをそういう場面に指導してきたからです。


イスラエル民族は、紅海の前に神が導いてきたのだから、
これは困ったと思う必要はなかったのです。
自分が歩いてきたのではないのだから。

モーセとか、雲の柱、火の柱が導いてきたのだから、
自分が心配する必要はなく、
導いてきた神が心配すべきだったのです。


「やあ、困った」、私たちの考えは、いつもそうです。
いつもそれで失敗します。
その時には黙っていればいいのです。

「行くんだ」と、行くという
その目的観だけもっていればいいのです。
それだけで、黙っていればいいのです。

そういう時に、忍耐が必要であって、どうしたら逃れられるか、
どこへ逃げようか、どこへ避難するかという考えは必要ないのです。

そこに、「生きんとする者は死に、
死なんとする者は生きん」
ということがあるのです。

そういう時には、死のうとしていればいいのですが、
生きようとするから間違えるのです。

 
神の立場では、そういう神の祭物をみな結果主管しようと思って、
危険な立場に立たせてきたのです。
殺そうとするのは、結局神が主管しなければならないからです。
殺そうとしても、じーっとしていれば主管するつもりなのです。

神はイサクを殺そうとしました。
でもイサクが黙っているから、神は主管しなくてはなりませんでした。
それなのに、殺そうとしたら生きようとするので、
神は主管できないのです。


そういう場面場面が、私たちの生活に、
波のごとくぶつかってくるのです。

だからそういう時に、私たちは心情的に、
自分というものにとらわれないで、
全体を心配することができるかが問題なのです。

私たちにぶつかってきたものは、
自分だけのことではないのです。
全体のことなのです。
全体のことと思って、貴重に取り扱うのです。

だれの立場かというと、神の摂理の立場で、
いつも考えなくてはならないのです。
神を忘れて考えてはいけません。

自分というものもそうです。
信仰とは、出発当時に、自分が神と共にあり、
神のものだとした、それを継続することです。
終わりまで神のものだと、
死んでも私は神のものだとするのです。


イエス様は、自分は神の息子だという信仰で
一生涯を貫いたのです。

どんな迫害があっても、自分は神の息子だという
その信仰一点ばりで、立派な生涯になったのです。

私たちはそうではないのです。
そういうところで失敗が反復してきたので、
そこからどういうふうに私たちは発展するかということです。

1.牧会
「死んでも神のもの」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
再編集 文責:ten1ko2


「環境に主管される葉となるな」
という、み旨の道のお父様のみ言を思い出しました。

荒れ地を開拓し、未来に向かっていく、
それは、外的な天一国もそうですが、
私の心においても、希望をもって
天寶修行をして、天の願われる者になっていけるのです。

「死んでも神のものだ」
日々自覚して歩んでいきたいです。


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