2025年01月21日

心の中の善悪の葛藤を感じる人に 私は「だれのもの」か? 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言、
『神に所有される者』より
「自分はだれのものか」です。

 
供え物の目的は、所有権を決定することです。

摂理上、供え物を仲保として、
堕落して中間位置にいる人物を本然の位置へもとかえし、
復帰する目的で、祭物というささげ物を
中心としたことを私たちは知っています。

私たち堕落した者の立場は、その本然の位置から離れて、
願わない悪主権に因縁が結ばれてしまいました。
ですからその因縁を清算し、元の位置へ戻り、
元の創造主に所有されなくてはならないのです。

本心において、本然の位置に戻ろうとするのが
私たちの本性であり、創造主の願いです。
それで今まで仲保者を立てて、教育を受けてきたのです。

 
だれしも、まず自分の存在位置が、
本来願わないものであることを相当感じるのです。

信仰している私たちは、み言を中心として自分を見るときに、
自分がみ言のとおりの存在でないということを明らかに感じます。

み言の教育を受け、み言を中心として自分の本心を味わってみると、
自分にはもう一つの部分があって、
思うとおりにいかない面を発見するのです。

だから、み言を受肉するということは、
今までの自分を分別し始めるということなのです。

み言を中心としての本心、み言を中心としての所有権、
み言を中心としての自分の本心を所有される、
だれかの言葉を中心とした自分になりたい、
これが信仰だと思うのです。

 
それでだんだん日を過ごしてみると、
初めにみ言を中心として暮らしてみた経験から、
やっぱり自分はこの主権に所有されなくてはならないと実感し、
もっと深刻になっていくのが、
信仰者のだんだんと体験することです。

だんだん、自分は確かに神のものだということを確信して、
それが一つの供え物、祭物精神というか、
だんだんと自分は自分でないと感じるようになるのです。

もちろん信仰する前も、自分に対しての悩み、
自分が自分でないことも悟ったはずですが、
み言を中心として自分を分別してみると、
確かに自分の中で二人が闘っていることを発見するのです。

それで、心も相当悩んで、ローマ人への手紙第七章二十二節に
書いてあるとおり、相当苦しんだのです。

苦しんだというのは、一つのみ言、絶対なるみ言によって、
自分が幾分か絶対者に所有されたから、苦しみ始めるのです。
この苦しみは、以前のものと内容が違うのです。
信仰する前の、矛盾を感じながら悩んだ問題とは違うのです。

 
み言を中心として自分が生き返った、
本心をもっての闘いによる苦しみは、
これは完全に分立するための苦しみです。

それで、旧約時代には半分に裂いて、
血を流さなければならなかったのです。

半分に裂いて、死亡の血を捨てなくてはならないというのは、
結局、私たちも自分を、み言を中心として分立して、
今までの堕落の情を完全に流してしまうことです。

つらさを味わう、何かの蕩減によって
今までのみ言を知らなかった自分を分別するその苦しみは、
み言を中心として自分を半分に裂いて、
死亡の血を流してしまって、
それから所有された人に再創造するために、
なくてはならないことです。

だから分立しないと、創造者の所有は始まらないのです。

 
そのため、信仰は、自分が自分でないことを、
まず深く確実に実感したあと、
自分はだれのものだとはっきりすることです。
そして、自分の存在位置を守るのが、信仰の始めです。

結局、自分はだれのものかをはっきりし、
だれを喜ばせるかということです。

この祭物は、要求する人の願いを成してあげるものです。
神様が私たちを救い、神様が子女を失い今までもち続けてきた
恨みをほどくための祭物だ、という問題になるのです。

だから相当、信仰者は大胆でなくてはならないのです。
悟ったあとには、自分が絶対者の要求によって
自分も絶対者のものだと感じるようになるのです。

神も私たちを自分のものだと思って絶対視しているし、
私たちも自分が神のものだと絶対視したあとに、
存在基台が確立していくのです。
定まっていくのです。
この信仰が、最後まで続くと思うのです。

結局、祭物精神は信仰動機であり、それは
信仰が始まって以後にはどうでもいいというものではなく、
また最後なのです。

動機であり、結果なのです。

 
これが神の祭物に対しての願い、
神様の私たちに対しての願いなのです。

この精神が、その信仰路程においてあいまいになると、
大変なことが起こるのです。

「お前は中間者であり、サタンと関係が結ばれている。
それを清算して戻れ、絶対者のものになれ」
というのが神の今までの教育です。

3.神に所有される者
「自分はだれのものか」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)

再編集 文責:ten1ko2


天から与えられたみ言は、
永遠・不変・絶対的なもの。。。

神様の真の愛は目に見えませんが、
その愛をわかるように表現したものが、
み言、だと思います。

ですから、み言を訓読し、
それを生活化することを通して、
永遠・不変・絶対的なものを、
私自身に取り入れることになります。

どれだけ素晴らしいことでしょうか。

以前、お世話になった教会長が、
原理を学ぶことは、たとれば、
整体を受けることと同じだ、と言われました。

み言によって、自分自身を正していくことができ、
よい状態に保つことができる。。。
それは、本当に感謝なことです。

受けることができることを、貴く、
ありがたく思いながら、今日もみ言を
受肉できるよう心がけていきたいと思うのです。

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2025年01月05日

私たちは未来にいる! 「死なんとする者は生きる」のに、生きようとすると 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言。
「死んでも神のもの」です。


そのように教会長たちの信仰基台が発展していけば、
自然に貴重な人物として組み立てられ、組織されるのです。

私たちは、現在というもの歴史性と永遠性を知らず、
打撃を受けるものだから、この時間を超越できないのです。
私たちは、この時間圏内にいる者ではないのです。

実際、考えてみてください。
私たちは、現在にいる者ではないのです。
未来にいる者です。
未来の者であって、現在の者ではないのです。

だから復帰というものは、歴史的に済んだものを
解決しながら、永遠に生きていくのです。
そこさえよく解決すれば、蕩減条件が立つのです。


アダムの家庭において、
カインがアベルのことで減少感を受けたのです。
未来を見ずにおぼれてしまったのです。
現在に、もぐってしまったのです。
沈められてしまったのです。

自分はそういう問題に触れる立場ではないのです。
未来において、偉大になるからです。
今アベルが祝福を受けたところで、それに関係する必要はなく、
現在に主管される必要はありません。

減少感を受けたそのものも、
もはやその時間圏内に主管されています。
時間圏内におぼれてしまっているのです。
そこが一番問題です。


私たちもどんな事件にぶつかっても、
それが起きた理由を早く知って、
これが来る以前の自分の方向を移動してはいけないのです。

こういう事件、危機、危険がやって来る前の自分の態度が、
未来性、希望をもった安全な態度だとしたら、
それがぶつかってきても、自分は
その姿勢に責任をもたなくてはいけません。

こういう事件が、環境が変更になっても、
自分がその態度を守らなくてはならない責任があるのです。

そこが自分のもつべき責任であって、
その関係をどういうふうにするか、
これをどういうふうにすればいいかという責任は、
自分はもっていないのです。

だけれども、すぐ私たちはもう、
「この環境を、これを通して」
というようになってしまうのです。
だから、それに主管されてしまうのです。


「これをどうしようか」と言わずに、
その時、自分を捨てなくてはなりません。
危険な時には、自分というものは捨てるのです。

なぜかというと、神の立場だからです。
神が、自分たちをそういう場面に指導してきたからです。


イスラエル民族は、紅海の前に神が導いてきたのだから、
これは困ったと思う必要はなかったのです。
自分が歩いてきたのではないのだから。

モーセとか、雲の柱、火の柱が導いてきたのだから、
自分が心配する必要はなく、
導いてきた神が心配すべきだったのです。


「やあ、困った」、私たちの考えは、いつもそうです。
いつもそれで失敗します。
その時には黙っていればいいのです。

「行くんだ」と、行くという
その目的観だけもっていればいいのです。
それだけで、黙っていればいいのです。

そういう時に、忍耐が必要であって、どうしたら逃れられるか、
どこへ逃げようか、どこへ避難するかという考えは必要ないのです。

そこに、「生きんとする者は死に、
死なんとする者は生きん」
ということがあるのです。

そういう時には、死のうとしていればいいのですが、
生きようとするから間違えるのです。

 
神の立場では、そういう神の祭物をみな結果主管しようと思って、
危険な立場に立たせてきたのです。
殺そうとするのは、結局神が主管しなければならないからです。
殺そうとしても、じーっとしていれば主管するつもりなのです。

神はイサクを殺そうとしました。
でもイサクが黙っているから、神は主管しなくてはなりませんでした。
それなのに、殺そうとしたら生きようとするので、
神は主管できないのです。


そういう場面場面が、私たちの生活に、
波のごとくぶつかってくるのです。

だからそういう時に、私たちは心情的に、
自分というものにとらわれないで、
全体を心配することができるかが問題なのです。

私たちにぶつかってきたものは、
自分だけのことではないのです。
全体のことなのです。
全体のことと思って、貴重に取り扱うのです。

だれの立場かというと、神の摂理の立場で、
いつも考えなくてはならないのです。
神を忘れて考えてはいけません。

自分というものもそうです。
信仰とは、出発当時に、自分が神と共にあり、
神のものだとした、それを継続することです。
終わりまで神のものだと、
死んでも私は神のものだとするのです。


イエス様は、自分は神の息子だという信仰で
一生涯を貫いたのです。

どんな迫害があっても、自分は神の息子だという
その信仰一点ばりで、立派な生涯になったのです。

私たちはそうではないのです。
そういうところで失敗が反復してきたので、
そこからどういうふうに私たちは発展するかということです。

1.牧会
「死んでも神のもの」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
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「環境に主管される葉となるな」
という、み旨の道のお父様のみ言を思い出しました。

荒れ地を開拓し、未来に向かっていく、
それは、外的な天一国もそうですが、
私の心においても、希望をもって
天寶修行をして、天の願われる者になっていけるのです。

「死んでも神のものだ」
日々自覚して歩んでいきたいです。


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2024年12月26日

苦労してもいじめられても、元手を取る生き方 神のポジション(位置) 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生
「神の立場から誠意を尽くす」です。

 
蕩減復帰は、今は苦労しても、マイナスになっても、
いつかは利益が戻ってくるんだという自信をもって、
苦労するとか、迫害を受けるとか、
損するとか、いじめられるとかするのです。

何かもうけがあるという原則的な立場に立ってしなくては、
結局、結果的には人に笑われたり、
人に対して恥ずかしくなってしまうのです。

そういう面を、信仰人物たちから
学ばなくてはならないのです。

 
洗礼ヨハネは、相当蕩減生活をして
民族的な立場の人物になっていたのですが、
イエス様と付き合った時には、
人間的に付き合ったのです。

どうして心情的に付き合わないで、
人間的に比較したのでしょうか。

イエス様の立場、イエス様の家庭、イエス様のものを、
結果的に見て、付き合ったのです。

歴史的なこの人間の過去を知らないのです。
神から見た未来に、どういう使い道のある人か知らないのです。

表れた瞬間の者を、結果的に見て、付き合ったものだから、
洗礼ヨハネの立場からは、授受ができなかったのです。
自分の考えで、イエス様を見たのです。

イエス様を見た時の内的態度が間違っていたのです。
人間的批判をしたのです。

私たちも、そういう洗礼ヨハネの考え方、
洗礼ヨハネの見方があって、それを行うと、
結局霊的に乏しくなってしまうのです。

 
大先生(文鮮明師)も、何をやっても、それをやるんだという、
その結果を目標に誠意を尽くすのです。

家を造る時も、私たちに相当説教されたのです。

「家を建てるというので、
私はただこの仕事をやるんだ」と、
「28日間でやった」とこう思うけれど、
大先生はこれをやるときには、歴史的に何か因縁があるし、
この期間内に完成しなくてはならない歴史的な内容に、
誠意を尽くされるのです。

この建物はみすぼらしいけれども、
先生が必要と思うこの期間に誠意を尽くすのですが、
それは何のためにやるかというと、
歴史的な因縁があって、そしてまた、
これによる民族的な目的があって誠意を尽くすのです。

これは一つの祭物です。

それのために愛するのではなく、
この物に対しての愛ではなく、
この物を通じて、その先の目的のために誠意を尽くすのです。

先生のやり方はいつもそうなのです。


私たちは今、「こういうふうにしないで、
ああしましょう、こうしましょう」と、
いろいろな意見があって、先生と合わないのです。

先生はそうする目的が今にあるのではなく、
未来にあるのです。

だから今は私たちに合わないけれど、
誠意を尽くす内容が違うのだから、
これはもう燃えてしまってもいいというのです。

これに誠意を尽くすのではなく、これを祭物として、
目的をまだ見ているのです。
そういうやり方を、いつもやっているのです。

 
人を愛する時も、この人間を愛するのではないのです。

36家庭を見て、
「君のために祝福したのではない」と言われるのです。

「君たちが今やめても、離れても、どうでも、
私は君たちに尽くす責任は済んだ」
と言われるのです。

「今君たちが離れても、神に対しての私のやる責任には
誠意を尽くしたのだから、
君たち以上の人を引っ張ってくるようになっている。
君たちのために、祝福したのではない。
祝福は、君たちの、その結果のものではない」と。

血統的な背後もあるし、それから神は、こういう人間を
神の前に祭物として使うのです。

先生自身の情の内容が、永遠に
どういうものであったかという、そこにあるのです。

 
私たちはただ、「あの人間はああだ」と、
現れたそのものだけを見て、
それに比較して誠意を尽くそうとするのです。

だから私たちは、その人によって打撃も受けるのです。

環境によって打撃を受けるのは、その環境だけに
自分が関心をもったからです。
そういう見方は、復帰摂理から見て、蕩減精神が違うのです。

それで私たちが、マイナスになるのは、
ただそのもの、現在というそのものに、
主管されやすい考え方でやっているからです。
そこに相当な損があるのです。

原理的に解釈すれば、ここにいる一人は、
その一人だけではないのです。

歴史的な内容を連続しているし、
未来的な願いをもっている者だから、
神から見た時のこの存在物は、
私たちの見たものと全然違うのです。

神の立場で私たちが、この「循環」というものを
取り扱わないものだから、
結局、霊的には乏しくなってしまうのです。
それはピントが合わないからです。

 
そういう面で、私たちは一生涯の生活を、過ぎ去ったのちには、
悔い改めなくてはならないことが多くなってくるのです。

だから、神の立場からの思いでいつも
誠意を尽くせば、霊的に相当敏感になります。

そのもの自体に主管されないで、
現在というものに主管されないで、
現在というものを歴史的に、あるいは永遠的に、
観察の仕方をよく知ったなら、霊的に敏感になるのです。

なぜかというと、霊的に実体的相対関係が結ばれるから、
自分という立場が神の立場になってしまうので、
自分も主管されるのです。
考え方によって、そうなるのです。

そういう面が信仰生活で、一番貴重なのです。
それを連続していけば、とても成長します。

1.牧会
「神の立場から誠意を尽くす」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


目に見える結果的現象世界だけを見つめるのではなく、
結果が現れる過程が重要であり、
そういう観点から、物事を見つめていく必要がある
ということなのではないか、と思います。

苦労のない人生はないでしょうし、
とりわけ信仰生活は、自分の思いでそれを見つめていたら
心が枯れてきてしまいます。

今見える現実はその通りなのですが、
その過程とか、歴史的なものとか、
立体的に物事をとらえることが大切だとは思っても、
なかなかその深い意味はわからないものです。

それでも、何ごとにつけても、神の観点に立ち、
父母なる神の立場で見るならば、
人に対しても愛をもって対せるし、
感謝で乗り越えられるのではないでしょうか。

蕩減復帰というのは、
天のみ意にかなったものならば
必ず元手を取れるとのこと。

神様に対しての精誠、
意識して、歩んでいきたいです。


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