2024年10月27日

心を耕す 1ミリも待てない私たちが、神の答えを得る祈り方とは 《蝶野部長「祈り方」最終回》



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蝶野部長の「祈り方」の最終回、
「感謝を基盤に、率直に祈る」後半です。

祈祷への答えられ方

基本的には、その人の心霊の基準によって
答えられ方は変わります。

その人のためにふさわしく答えられるからです。

解答や導きは、意思のない法則で
機械的に起こるのではなく、
父母なる神様が私への愛で導いてくださるものです。

その愛の体験は、祈祷の答えを得ることより、
さらに貴いものだと分かるようになるでしょう。

 
では、神様からの答えはどのようにして分かるでしょうか。

「これが神様からの解答です」という証明書が発行され、
目で確認できるわけではありません。

私自身が天からの答えであると
「心」で感じ取る以外にありません。

「思考」とすると解釈の問題になるので、
「心」で感じられたものを大切にすることです。

つまり、受ける私たちの心が耕されていることが、
何より重要となります。


私たちは、み言が与えられたときに
成長するわけではありません。

実際、すでに神様のみ言を目で多く読み、
耳でも多くを聞いているはずです。

神様は私たちの祈祷に応えることをもって、
原理的な成長(自立)を願われます。

知識を与えるのではなく、体験、痛感させながら、
その人自身のものにさせようとお考えになります。

つまり、実感を通した理解を願っておられるために、
言葉だけを与えようとされるのではなく、
その理解のための体験を摂理なさるのです。


祈祷で求める内容は、今の自分の基準以上のものです。

答えを与えられる体験を通して、
結果的に自分自身を創りあげることになるだけでなく、
神様と心情的に近づくことになります。


祈りの答えがすぐに来ないときは、
蕩減(精誠)条件の問題もありますが、
私自身が神様の与えようとしておられる
答えを理解できる状態にないということもあります。

恵みを与えたくても、受ける側に
それを受ける準備ができていなければ、
与えたことが無駄になってしまいます。

水を受ける器が用意されていなければ、
全て流れ落ちてしまうのと同じです。


祈祷の答えを受けるときは、それを感じ、
理解できる私の心も必要です。
そのために神様は、祈る人の心を耕そうとされるのです。

つまり、神様が一つの解答を与えようとするときには、
私たちの生活の背後でその理解のための出来事を摂理なさり、
私の心が気づきを得られるようにして
待たれることもあるということです。

それが本人のものとして実を結ぶように、
いくつかの出来事を痛感させ、
その解答にたどり着けるように摂理されます。


振り返ったときに、過去のいくつかの体験が、
この答えを痛感するために
神様が摂理してくださっていた
伏線であることが分かることもあります。

時空を超えて私を愛される神様を絶対的に信頼すべきです。

私の永遠の命のために、今、教育してくださっている
神様に、感謝の心を基盤として、
祈りの生活を深めてみましょう。

『祝福家庭』110号(2023年秋季号)
家庭理想の実現
祈り方(後)感謝を基盤に、率直に祈る
https://www.kogensha.jp/news/detail.php?id=10135
(Blessed Lifeより)
再編集 文責:ten1ko2


細かいところまで解説してくださる、
蝶野部長に感謝です。

ご自身が、真摯に祈りを尽くし、
神様と向き合い、
答えを与えられたからなのでしょう。

何よりも、祈りを通して、
神様に向き合っていきたい・・・
痛切に感じるのです。

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posted by ten1ko2 at 09:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 蝶野部長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年10月20日

「率直は常に神に通ず」 祈ってすぐに答えが返ってこなくても、ガッカリすることはない 《蝶野部長》



241020-2024.10.20.png


蝶野部長の「祈り方」より、
「感謝を基盤に、率直に祈る」前半です。

愛の実践のために
◆愛の実践の力

「愛を実践させる刺激を連続させるためには、
 祈りが必要です。
 ですから、祈りというものは、
 愛を実践するために必要なのです」
(『愛天愛人愛国』31〜32ページ)

祈りは、愛を実践するときに、
自分を刺激し続けるために必要なものです。

愛の主人である神様と授受作用し続けることで、
横的な愛の実践のための力を得続けられるということです。

◆報告し、実践する

「神様に祈ることは、自分の事情を報告することです。
 それで近くなるのです。
 そして、言葉だけでするのではなく、
 実践して報告するので、報告することが
 実績として残ります。

 残される報告なので、天が干渉して祝福をするのです」
(同34ページ)

祈祷において、常日頃から自分の事情を告白し、
報告していれば、神様と心情的な距離が近くなります。

また、祈ったことを実践し、生活の中で
体験したものをまた報告していくならば、
言葉だけのものではなく実体で尽くした条件があるので、
天がその報告に対してより干渉できるということです。

祈りの答えのために

◆率直に祈る

包み隠さず心から率直に祈れば、
常に私に真実に対してくださる神様に相対できます。

「率直はいつも(神に)通ず」(マルスム選集45−261)
というみ言もあります。

どのようなことも神様に報告したという条件を、
最低限立てるべきです。

◆諦めない

「祈りに対して、すぐに答えが返ってこなくても、
 ガッカリすることはありません。

 時には長い時間がかかることもあるのです。

(中略)多くの人は、祈っても聞き入れられないと
 祈りを止め、神様を裏切ります。
 最後の1インチを
 耐えることができないのです」
(「祈祷の重要性」1979年4月15日・ベルベディア)


◆生活が祈りに 

「祈り」に求める内容が、実体の生活や行動にも
同じようににじみ出ているとき、
生活自体が祈りとなっていきます。

またこのとき、この者の祈りは
観念ではなく真実であるという条件が立つのです。

『祝福家庭』110号(2023年秋季号)
家庭理想の実現
祈り方(後)感謝を基盤に、率直に祈る
https://www.kogensha.jp/news/detail.php?id=10135
(Blessed Lifeより)
再編集 文責:ten1ko2


神様との対話、祈りにおいては、
神様からの回答は、時空を超越しています。

長く祈って、答えが返ってくるときもあり、
求めても与えられない時もあり、
一瞬のうちに与えられる時もあります。

しかし、長く、そして、深く祈るには越したことはないと思います。
「フクロウチーム」と呼ばれている
天心苑、霊性40修生たちが捧げる精誠は、
本当に素晴らしいのです。

先日、李基誠苑長が話されていましたが、
このチームは3つに分担されていて、
徹夜精誠を終えてから、朝の8時まで祈るチーム
そして、午後3時まで祈るチーム、
また、徹夜精誠が始まる、夜10時まで祈るチームです。

すなわち、徹夜精誠は夜10時から1時までの3時間なので、
7時間×3チーム=21時間、
すなわち、24時間休みなく祈り続けている、というのです。

さらに苑長が指示をして始めたのではなく、
メンバーたちが主体的に決めたことなのだそうです。

これを精誠と言わずして、
何が精誠でしょうか。

この祈りは、神様に必ず聞かれているし、
祈りの内容は必ず成就すると思うのです。


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2024年10月09日

祈っているつもりで、通じていなかった! あるある・ダメダメ祈祷 《蝶野部長》



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本部の蝶野知徳・家庭教育部長の祈祷の解説
「祈り方」の中編、今回は
「祈祷をしているつもりでも、祈祷になりにくいもの」
についてのお話です。

祈祷をしているつもりでも
祈祷になりにくいもの

率直でない祈り

祈りは、神様に心と体を捧げるものです。

率直にならず心を隠して祈っても、
神様と相対基準を結ぶことはできません。

答えを受けようとするその心自体を、
自らが閉ざしているからです。

神様は私に対して真実であり、率直です。
率直でない祈りでは神様と授受作用できなくなり、
祈りの実感も満足できるものにはならないでしょう。

愛なる神様の前には、安心して
全てを明らかにして祈ることが良いのです。

形だけの祈り

形だけの祈祷を神様が聞いてくださっていたとしても、
「率直でない祈り」と同様に、祈る側の心が閉じているので、
祈りの実感も少ないでしょう。

もし答えが返ってきたとしても、
それが神様からの答えだと分からないかもしれません。
祈りの成果は、人間である私たち次第なのです。

ただ、信仰を持ったばかりの人が捧げる幼い祈りに対しては、
それがどのような祈祷となったとしても、
神様は喜んで聞いてくださるでしょう。

思いの反復

自分に浮かぶ考えを頭の中で反復させてしまっている場合、
祈祷にはなりません。

「自分にはこういう堕落性があるな」
「いつもこうだな」
「これはどういうことなんだろう」など、
神様に問いかけているのではなく、
独りで空想や物思いにふけっているような状態です。

自分の思いを言葉にして、自分の中で思考し、
それを繰り返すので、また同じ結論に戻ってきてしまいます。
これが頭の中だけで完結されているので、
祈っているように見えたとしても、祈っていないのです。

祈りは、頭の中の思考や物思いを神様に見せることではなく、
心を捧げて問いかけ、そのみ声を聞こうとすることです。

責任放棄の祈り

これは前述した「尋ね求める」の内容と重複しますが、
自分の努力や精誠を前提としない祈りです。

自分自身は変わろうとせず、ただ
「人や環境を変えたいのでお願いします」という祈りです。

祈りに応えることによって
条件だけが浪費されてしまうことは、
神様の本意ではありません。

ただ信仰の初期、祈りを始めたばかりの頃には、
願いの成果を体験することによって、
信仰の始まりを激励することはあります。

責任分担が果たされる方向で成就していない願いは、
創造理想実現のための摂理から見れば、
実質は進んでいないと見ることもできるのです。


私たちの永遠の命を思う父母の愛は、
一つになりたいという愛です。

神様は私たちと一つになるまで育みたいと思っておられます。

ですから、神様からの私に対する願いがあって、
今、この問題に直面しているという
天の配剤を前提としてみます。

そうすれば責任の軸を私に立てることができ、
通じていく祈祷となるでしょう。

お試し感覚の祈り

「試しに聞いてみる」といったような、
お試し感覚で祈ることです。

与えられる答えの内容によって、
自分に都合が良ければ採用してもよいが、
そうでなければ聞かなかったことにしよう
などと考えて祈る場合です。

これらは神様のみ意(こころ)を知りたいというよりも、
そもそも神様を信頼していない態度でしょう。

自分がすでに決めたことのために
神様を利用できないかという程度のものですから、
もしみ意を受けたとしても、
自分に合わないと感ずるものは捨ててしまうでしょう。

これらの祈りは神様が受け付けないというよりも、
私に対する神様の真実の基準と相対基準が合わないのです。

心の全てを使って祈りを聞き、
真実の愛で答えようとする神様と、
「ちなみに、あなたの考えが私に合うかどうか
見てみましょう」という人間との間に、
信頼関係を築くことができるでしょうか? 

難しいでしょう。
心情的な距離も遠いままです。

切実な祈りや全託した祈りが通じやすいのは、
神様に対する絶対的な信頼によって
自分というものをなくしているからです。

それが天と通じていくのです。

祈れないとき

誰にでも祈れないとき、あるいは祈りが届かないと
感じることはありますが、そのままにせず、
そういう中でも祈りに向かうとき、より成長があります。

ために尽くす生活、奉仕の生活など
善なることに体を従わせてみれば、
本性を刺激でき、祈りやすくなります。

肉身の力を弱めるという点では、
水行などに効果を感じることもあるでしょう。

祈りに入りやすくなる音楽や、
準備したみ言を訓読するのもいいでしょう。

祈りの内容によっては、安楽な姿勢よりも、
やや不安定で力の込められる体勢の方が
祈れることがあります。

祈る内容と姿勢については
自分の心が分かっているので、
さまざまに試してみてください。


また、いくら祈ろうとしても祈れず苦しくなるときには、
「祈れません!」と言って祈ることもできます。

それが切実であればあるほど、
それも心からの祈祷となるでしょう。(続く)

『祝福家庭』110号(2023年秋季号)
家庭理想の実現
祈り方(中)
再編集 文責:ten1ko2


祈ることは、人間に与えられた特権です。
そして、人類が誕生した時から、
「祈り」が出発したといえましょう。

今は、各教会に天心苑祈祷室が与えられています。
そして、徹夜精誠が月曜日から金曜日まで、
毎晩捧げられています。

このことがどれほどの恩恵でしょうか。。。
「ダメダメ祈祷」の負のスパイラルに嵌まることなく、
貴い機会であることを
もっともっと意識していきたいと思うのです。


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