2024年08月18日

私は神のもの、だから神に祈る! 神を否定したら本当の私の姿を取り戻せない 《蝶野部長》



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蝶野知コ・家庭教育部長のみ言。
「祈りの前提」の前編よりご紹介します。

祈りとは私の主体者を確定させること

祈祷は体恤(たいじゅつ)信仰においてなくてはならないものですが、
祈祷が得意(簡単)だという人は少ないようです。

それは、人間始祖の堕落によって
人類が神様との血縁関係、心情関係を
長い歴史において失ってきたためです。

神様は常に、私に語りかけてくださっていますから、
祈祷の難しさはあくまでも人間の側で克服すべき課題です。

神様と一問一答していた本来の人間の姿を取り戻して、
親子の関係を回復させていくものなので、
祈りに難しさを感じたとしても、
取り組んでいくべき価値があるものです。

私は私から始まった存在ではなく、神様から始まった存在です。
私の創造の愛の主人を無視することはできません。
ですから、祈祷とは私の主体者を確定する行為だとも言えます。

神様を私の絶対的な主体として確定させてこそ、
私が神様の絶対的な対象として存在できる道が開きます。

「私は神様のものなので神様に祈るのだ」
という確信を持つことです。

祈祷は自分の努力を放棄し、神様に頼ることではありません。
祈りは神様と対話することです。

“人間”は“神様の子女”ですから、神様を否定して、
私が本来の人間の姿を取り戻すことはできません。

祈りの必要性は、いくら強調してもしきれないほどに重要なものです。

私は誰による私なのかを
絶えず確かめながら生活するためにも、
祈りは欠かせないでしょう。

祈祷は縦的な絆を結ぶもの

愛する相対者も愛する子女も、また私自身も、
神様が与えてくださったものです。
ですから、私がまず愛すべき存在は神様です。

神様を絶対的に愛するならば、私を絶対的に愛する
神様と相対基準が合うようになります。

そうなれば祈りだけでなく、生活の中でも
神様を感じる体験が増えてくるでしょう。

「祈りは、天との主体的な関係を結ぶためのものであり、
精誠は、横的な関係を拡大するためのものです」

(天一国経典『天聖経』2・5・4・5)


精誠によって築かれる横的な絆は、
祈祷をもって結ばれた縦的な基準から拡大されていくものです。
祈祷と精誠が信仰生活の基本です。

もし、人間関係で横的に衝突するようなことがあったとしたら、
まず神様に祈る心を持ってみましょう。

縦的な関係が弱まると、自分の責任分担があいまいになるからです。

私の体験から、天が教えようとしている、
私の成すべきことを探すために祈るのが良いのです。

どのようなことでも、
神様との縦的な関係を強めていく機会となるので、
祈りは横的な精誠のためにも欠かせないものになります。

蝶野知コ・家庭教育部長
『祝福家庭』109号(2023年夏季号)
家庭理想の実現
祈りの前提(前)
https://www.kogensha.jp/news/detail.php?id=10103
(Blessed Lifeより)
再編集 文責:ten1ko2


私たちの祈祷の見本、祈祷の先生は、真の父母様に違いありません。

今日の礼拝では「孝心」を歌いました。
https://www.youtube.com/watch?v=ElpcRY-3DaM

「神様を慰労する孝子とならせてください」
神様をつかんで離さない、懇切な思いが
祈りとなって言葉に表されています。

困難な時、自分の思いの苦しさを、
自分だけにとどめるのではなく、
こんな私を見つめる神様はどうなのか、
そのような思いが
神様と私の絆を強いものにするのでしょう。

まだまだ足りない者、小さく幼い者なので
もっと神様を求める必要があると思うのです。


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posted by ten1ko2 at 17:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 蝶野部長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月10日

子育て失敗?! 過去を後悔するより、未来のための三項目 *年齢は関係ありません 《蝶野部長》



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家庭教育部長 蝶野知徳
「父母の愛の姿勢 三つのポイント」

子女は現在を見ている

教育は常に、未来を信じ見つめながら進めていくものです。
しかし時には、子育てに難しさを感じ、
自分が選択してきた行動を後悔して、
思いが過去に戻ってしまうことがあるかもしれません。

過去を振り返れば、どんな親にも、子女に対して
本性的な心で対することができたとき、
堕落性で対してしまったときの、両方があるものです。

元来、子女には親を信じたい心があります。
ですから過去を後悔するよりも、
今の瞬間からでも心を立て直し、
真心で接していくことが大切です。

そうすれば、子女はその親の接し方から
親の真実を見ようとしますから、
過去に堕落性で対されたとしても、
次第にそれらを忘れていくようになるのです。


@感謝の心で接する

天の願う父母の心であるために重要なのは、
み言が示す価値で、いかに自分自身を
原点に立ち帰らせることができるかです。

つまり、神様から授かった
貴い子女という「感謝」の心で、
自分の心をいかに主管していくかにあります。

過去の失敗を後悔する心が強いと、
愛する力が出にくいものです。

しかし感謝の心が強いと、後悔よりも
悔い改めの心が強く出てきます。
こうして内面が蕩減される条件が立ってくれば、
愛が発露してきます。

神様にすべてを「感謝」することは、
私たち人間が、神の子としての
原点に帰っていくために必要なプロセスです。

「感謝」は私を「純粋」にします。
良心作用も強くなり、子供の気持ちも
悟らされるようになるものです。


Aすべてを受け入れる

子女に対して葛藤したり、腹立たしく感じたりと、
難しく感じる面があっても
「親としての最善の心」で接するには、
どうすればいいのでしょうか。

まずは自分の思いの物差しを捨てましょう。

成長過程における一つの段階、
「今あるべき姿」として認めてしまい、
丸ごと受け入れてみるのです。

そうすれば、受け入れた分だけ、
愛する道が開かれていきます。


B父母の愛の体恤

過去を後悔せず、父母の愛を今、信じて待っている
子女の心に焦点を合わせてみましょう。

天を愛するように感謝の心で
純粋に子女に対することです。
そして現時点を丸ごと受け入れてみれば
愛が流れ始めるのです。

子供の年齢に関係はありません。
これらのことは、復帰途上にある私たちが、
父母の愛を体恤していくための
原則になっていくでしょう。

家庭教育部長 蝶野知徳
『ムーンワールド』に掲載
孝情を育む 35
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=25556
(Blessed Lifeより)
再編集 文責:ten1ko2


「子供の年齢に関係はありません」
この言葉に相対して、久しぶりに
蝶野部長の講座を紹介しました。

感謝の心で接する
すべてを受け入れる
父母の愛の体恤

そのことを大前提に、
子どもたちと向き合っていきたいです。


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2024年04月06日

まずゴミを見つける?! 副作用ゼロの蕩減の捨て方は、感謝しかない 《蝶野部長精誠篇》第3巻スタート!



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お待たせしました!
蝶野知徳(ちょうの とものり)本部家庭教育部長の 
「精誠篇(せいせいへん)
3コマ目の講座を紹介します。


感謝ということは、もう何度も聞いてきたと
思いますが、それでも感謝できない。

でも(前の講義で)言葉で思うだけでもいいと話しました。
だけども、(心が)しっくりきたら
心から言いたいということもありますよね。

心から言いたい、心から言えない時には、
言葉だけでもいいということになります。

ただ結局、この蕩減というのは、
その発した一つの言葉で、
整理されるような軽いものもあれば、
感謝したその心で神様を迎えながら、
実体で苦労して切り開くという場合もあります。

いづれにせよ感謝から始まるんですね。

摂理とか、み旨というのは、感謝がなければ
まあ動いた分だけのことは動くかもしれませんけども、
何をやっても、神が私を通してやったと、
そしてプラス私の内面が作られていくということ、
これを得ようと思ったら、
やはりこの内面を無視することができない。


ですから そこで考えたいのは、
越えなければならないない内容は、
まずそれと出会わなければならないんですね。

だから、我々が感謝できないことと出会います。
でも、それは越えなければならないことなので、
これが、出会わないと始まらないのです。

例えば、家の中を掃除するためには、
何と出会わないといけない?
ゴミですね。
ゴミと出会わなければならない。

ゴミなんですよ。


掃除の好きな人は、
「あーここにもゴミがあった」って喜ぶんですね。

それなんです。
『あ、これで自分が綺麗になる』。

お父様(文鮮明先生)でも蕩減がいやだと
思ったんだけども、蕩減だと思ったら、
愛することができるようになったということです。

掃除が好きな人はゴミを愛しているのです、
「あった!」と思って。

でも、ゴミ自体が好きなわけじゃないんです。
ゴミが好きってのは、ちょっと異常ですからね。
そうじゃなくて、キレイになるために出会ったので、
喜んでいる状態です。


それと同じ感覚でいてください、心の蕩減の内容も。
自分の蕩減と出会うと、
『あ、これこの部分が私のゴミなんだ。見つけた!』

例えば「この礼拝堂に10個ゴミ隠しました」と、
「全部を見つけたらハワイ旅行ですよ」って言ったら、
1個を見つけるたびに嬉しいですよね。
あ、1個目、1個目って、
あの感覚で蕩減ができるのです。

楽しくてしょうがないんですよ。
そういうふうな感覚だと思ったらいいんですよ。
おまけに感謝できる心も作られます。

副作用ゼロです、皆さん。
かかる費用は0円ですよ。
タダでそんなことが良いことができる。

心を一つの主観、私の心の主人は私であるということです。
再創造の主人は私である。私に、全部任されているんです。


だから結局このゴミ。
ゴミを一個一個、こういうふうに見つけました。

ゴミと出会った、キレイになるから嬉しい、
感謝、ということですよ。

カチンとくることがあったら、
それだけ分、綺麗になるものを見つけた。
キレイになるためには出会わないといけない。

そのためには、その人がカチンとくることを
言ってくれないと、ダメなんです、これ。

だから、言ってくれた事に感謝
ということになるわけですよ。わかりますよね。

結局、蕩減するためには、
まずその「思い」と出会わないといけない。
思いと出会うためには「出来事」が
起こらなければならないわけですね。


ただ祝福家庭でもですね、
ご主人がパチンコ狂いで大変だと、
でも苦労して苦労して、大変だ
という方がいらっしゃいましたよ。

夫のパチンコ狂いで悩む蕩減が
その家にあるんですね。

ということは、それを清算するためには、
夫がパチンコ打ってくれないとダメなんですよ。
打ってくれないと清算できないんだから、
パチンコを打つことに悩むのを蕩減するためには、
打ってくれないと。

だからありがとうございます、となるわけですよ。
わかります、この世界が。


だから、非常に簡単にできる。
昔はうーんって気張ってたのがですね、
今だいぶ変わってきた。

自分に出てきた堕落性の思いってありますよね。
この講義聞いて帰り際から、
もう口から出てくる人もいるかもしれませんね。

ですから、結局ですね、私たちは
自分に悪い思いが出てきたときに、
『ああ、またやっちゃった』とですね。
相手とか自分、『やっぱり自分てダメだな』
と、自分を悪く思わないようにしてください。

『まあ聞いても、私すぐ忘れるから』、
という風にして、
みなさん、100%忘れるからご心配なく。
全員がお手々つないで100%忘れますから、
それは大丈夫です。

忘れたのを思い出してほしいだけなんですね。
相手や自分を嫌に思わないことです、これ。

自分の堕落性って、もう根強いですから。


だけどもいやに思わない。
これは発見できた自分の蕩減内容を、
抱えてしまってるんですよ。

あぁ、自分のゴミだーって。
皆さん家で掃除するとき、ゴミを体で抱えます?
見つけたゴミを、全部抱えませんよね。

ゴミは捨てるために見つけるわけです。
だから捨てたらいいだけですよ。

ですから清算のチャンス、(=蕩減)
今日のことできれいにするチャンス、
掃除のチャンスということですよ。

清算のチャンスのために、
思いを体験しているに過ぎないんです。

もう1回言います。
清算のチャンスのために、
思いを体験しているだけです。

その皆さんの堕落性自身(自体)が
皆さんじゃないのです。
そう思ったらいいです、逆に、うん。

体験してるにすぎないと悟ること。
ゴミは発見して抱えるものでなく、捨てるものだから。


どうやって捨てます?

「ありがとうございます」と言ったら
捨てることになるんです。

だから神様とサタンから見たら、
「こいつはこんな目に遭っても
ありがとうございますと言ったぞ」と、
これは罪の清算の方に回すしかない、
となるわけですよ。

蝶野知徳・精誠篇3 
父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
2018年に蝶野部長が広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)


やはり、何事にも感謝する、
という意識の捉え方が必要なのだ、と感じます。

真の愛を体恤していれば、
どんな試練を受けても、
堕落性に引っかかることはありません。

私たちは、本当に細かいことに引っかかります。
でもそれは、「私の成長のために、神様から与えられたもの」
そのように、受け止めることが重要なのだと思います。



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