2024年01月27日

すべてが「愛」だった! 「信仰基台」が立てば、「実体基台」は自動的 《蝶野部長7》



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本来、私たちは、神様を信じて成長すれば、
人を愛して、素晴らしい家庭、
世の中をつくることができる──

「孝情」という言葉が出る前から、
蝶野部長は「親心」に帰ると表現されています。

夫婦講座、続編です。


(堕落したのちの復帰原理の信仰基台ではなく)
人間の本来の成長期間の信仰基台だったら、
(それだけで、すでに)愛になっています。

人は苦労すれば愛に転ずるのです。
信仰基台だけで、愛がからっからだとしたら、
(それは、本来の信仰基台ではありません)。

「メシヤのための基台」としては、
外的な象徴的、数理的な内容なので、
よしとすることもできるでしょう。

失ったものを取り戻すのが、信仰基台です。
しかし失ったものが何だったのか、
よく我々はわからなかった、ということになるかもしれません。


信仰基台とは「親心」に達することです。

間接主管圏は、神様を愛する喜びで成長していきます。

親心の中に入っていくと、
目の前にいる人、横にいる人を愛したくなるんです。
つまり信仰基台が立てば、
実体基台は自動的なんですね、ほんとは。


ところが原理講論では、
「信仰基台は成功して実体基台は失敗した」と書くので、
私たちは、「信仰基台を立てたから、あとは実体基台ね」
(という言い方をします。)

(しかし)それは、信仰基台の立て方が間違っているので
展開しないということなんです。

なぜ、「信仰基台」が成功した
という風に表現されたかというと、
「メシヤを迎えるための条件」だったからです。


みなさん、(信仰基台は)本当は
自分作りのことなんですよ。
自分を作る話なんですよ、信仰基台、実体基台は。

自分を作る条件なのに、
お百度参りのような感覚に日本人はなっている。

何かを起こすために立てる条件、
違います。

創造原理は、信仰基台は、「成長して完成」だから、
私を作る条件のことなんですよ。
(そういう意味では、統一原理から)
統一思想に切り替えていかなければなりません。

信仰基台の立て方が間違っている。
メシヤを迎えるための条件だから、
成功、失敗(という言い方が出てきます)。


ですから、子供がお母さんをめちゃくちゃ愛して
成長していたら、お母さんの情に立つでしょう。

そしたら、ブーブー言う兄貴を
愛することができるわけなんですよね。
なぜかというと親心に入っているからです。

それが信仰基台、実体基台です。
だから、「めちゃくちゃ親を愛してるんだけど、
兄貴は愛せません」というのは、絶対ないです。

ですから復帰原理においては、
堕落性を脱ぐための蕩減条件というのが
ここに加わって来るんですね。

男性を立てるために信仰基台を立てるからです。


一連のことを考えてみた時、信仰というものがそれなりにあるならば、
必ず愛という形に展開しているはずです。

もし愛せないという思いがあるならば、信仰基台が弱い、
あるいは間違って立てている、
あるいは、立てることによって自分が強くなっている。

俺は昔このようなことをやってきたんだ
というのが強くなってきている。。。

これは信仰基台とは逆の立て方になっています。
自分がなくなっていくというのが、(本来の)信仰基台です。


親を愛する、親の気持ちに入っていくから、
困った兄弟がいれば親の気持ちで愛します。
(それが)原理です。

信仰基台というのはめちゃくちゃ簡単よ、
「親心」の話です。

親を愛して愛して、親の心に入ったら、
困っている人を親の気持ちで愛せる
親の愛する兄弟を愛せるでしょう。

本当の親孝行というのは、親を愛する子ではなくて、
親が抱えて困ってる、
「お前はいい子で家にいてくれて教会にも行ってくれる。
だけど長男は家を出て、いない」
そういうお兄ちゃんを、親の心がわかって訪ねていく子供が
実体基台を立てようとする子供の位置なんですね。

2019年5月北千葉「夫婦講座」より
再編集 文責:ten1ko2


信仰基台とは「親心」に達すること。
ただ、業(ぎょう)のように、
やればいいというものではありません。

確かに復帰原理では、
「信仰基台」が成功して、次に「実体基台」
と言われています。

私たちもそのように習ってきましたし、
そのように教えてきました。

しかし、よくよく考えたら、蝶野部長の語られるように、
メシヤを迎えるための基台造成のための
あくまでも条件的、象徴的なもの、
それを信仰基台だととらえていました。

「信仰基台」も「実体基台」も
神を愛し、神を愛する人を愛し一つとなる、
すべてが「愛」のことでした。
まさしく、真の父母様がなされてきたことです。

今は「孝情」という言葉で表現されますが、
天の父母(親)である神様を愛するということは、
すべてに通じるものであると思います。

天一国時代、本然の時代となりました。
二世、三世、と信仰を相続するにおいて、
もはや、愛がなければ、何もできませんね。

今の日韓問題にしても、
ロシア・ウクライナ、ハマス・イスラエルについても、
お互いに親心があれば、解決できるのにと思わされます。

「信仰」だということを言い訳にして、
神様の愛、真の父母様の心情とは
遠い歩みになっていたことを反省しつつ、
「親心」に帰っていきたいと思うのです。



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posted by ten1ko2 at 12:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 蝶野部長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年01月20日

家庭連合一世信者は、神の愛の基準に立ちかえらなければならない?! 《蝶野部長6》

縦軸が大事! ただし、み旨中心ではなく、愛を中心として一つとなる?!


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(私は)世界や人類を愛する以上に、
神様を愛することに気が狂っている


文鮮明



蝶野部長の夫婦講座、続編です。

家庭連合の祝福結婚を受けている夫婦への
本来の基準と言いますか、
少し厳しいお話になっています。


(祝福家庭の)夫婦の価値というものに
我に帰らなければなりません。

ただこの世の幸せを求めてきた、
というのは普通の夫婦にすぎません。

一般の結婚より、不倫、離婚がないかな
という動機だと、普通の夫婦です。

自分に都合がよい、愛されたいという
動機が変わってないまま。。。
配偶者を普通の男女と見ているだけ、
ということになります。

だけど(祝福を)受けたから無原罪。
無原罪だけど、普通の夫婦と同じ、という家庭が量産されていく、
これは滅びの兆候があると思うのです。

祝福の価値にかえっていくのです。
自分の生い立ちのレベルで、配偶者を愛するのではありません。
心理学的レベルでは限界があります。

自分の相手はただの男、女じゃない、神様です。
祝福を受けたということはそうだということになります。
私の神様。

法廷論的には、血統に関してはサタンは讒訴できません。
無原罪だと言われれば無原罪です。

(ただし)本当の子どもなら親の心を通して全てを見る、
自発的な心があるはずなのにそうではない、
しかし戸籍には入ったという立場です。

本当の意味で心情を完成させなければ、
血統転換の最後を締めくくることにならない、
ということになるんだと思います。


神の価値で相手を見る、
ともにみ旨を歩んだ運動体同志ではなく。
お父様は行動や運動体を通して一つとなれと言っていない、
愛で一つとなるというのです。
(これは)レベルが高い。

(私たちの祝福は)蕩減祝福であるが、
創造(再創造)も入っているのです。
蕩減は再創造のためであり、
蕩減のためだけの祝福はありません。

(「掃除」を例にとると)掃除が目的ではなく、
部屋をきれいにするためです。
蕩減、穴埋めが好きというのはおかしいのです。
蕩減は自分が作られていくためのものです。

蕩減、穴埋め、清算が好きというのは異常なのであって、
真人間に成長して、神になるために摂理的には蕩減があるのです。 
自分がつくられていくための蕩減です。


(祝福家庭の)夫婦も、蕩減のためだけに
マッチングを信じてすべてを投げうちました。

2世は、(そのような)1世の信仰は凄いと言います。
しかし、「両親を見ていたら愛は見えない。
歩みはすごいけど、愛がない」(というのです。)

(逆に)2世を見れば、縦があれば鬼に金棒だが、縦が薄い、
縦的なものを入れていかないと、
ただ受けただけでは手放しで喜べません。

しかし1世の祝福は、こんなに夫婦が真反対でも
離婚の率は格段に少ないのです。
ということは縦がある(ということです)。

縦だけだと愛はない、縦を誇っても2世はしらけるだけなので、
あまり過去の歩みを誇るのはやめましょう。
メシヤを迎えるための武勇伝。。。


なぜ私たちが苦労の道を行って、
ここまで犠牲をして、最後霊界でお父様と会おう、
という群れになっているんでしょうか。

それは、お父様がブレなかった理由と同じですよ。

お父様の強靭な忍耐力と信仰はなぜあるのか、
「先生は君たちや世界を愛するためにやっているという以上に
神様のことで気が狂っているからだ」

とおっしゃいました。

つまり縦軸があるわけですよ。
神様のことで気が狂っているから、
どんなに反対されてもあまり動かないのです。
なぜ?横は気にならないのです。

横に関心が行ったとしたら、慰められようとしたら、
一発で世間体を気にするようになります。

お父様の心には、神様を慰めることしかなかったので、
興南に行く時も、真っ先に神様を慰めたというんですね。

2019年5月北千葉「夫婦講座」より
以前、教区にお呼びした時の講義です。
編集 文責:ten1ko2


自分の家族を置いて、献身してきた一世たち。。。
でも、本当は、氏族を伝道しなければならない、
そのようなみ言もありましたし、
親から反対されたとしても、
み言を伝えるべき期間でした。

お父様は、10日に一度、親に手紙を書け、
とおっしゃられました。
親を愛した条件を立て、
み言を伝えるためだったと思います。

ですから、一世である私たちも、
本来は氏族復帰をしながらみ旨を歩む、
そのような立場であったと思います。

ただし、お父様は、愛したくても愛せませんでした。
すべてを神様のため、そして私たち人類のために
尽くしくださり、現在の
愛すべきものを愛することができる
時代となったのです。

実際、当時は私たちにおいても、
厳しい現実がありました。。。

いくら親を愛していても、
この道に進むことを反対されたのなら、
神様に背を向けることはできない、というのが
私自身の本心の叫びでした。

このようにお父様が、何よりも神様を愛していかれた、
狂ったように神様を愛された、
その道が何よりも貴いし、
お父様が歩んでくださったので、
私たちもその心情を相続する(受け継ぐ)
ことができるのだと思うのです。





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2023年12月27日

安倍首相暗殺は家庭連合の責任?! すべて「私たちが問題」とする理由(ワケ) 《蝶野部長》3



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世界で起こるすべてのことは
私の問題だと思いなさい


(文鮮明)真のお父様


本部の蝶野(ちょうの)家庭教育部長の講座。
大好評の3回目、
今日は夫婦というより親子のお話です。


こうやって私たちは、信仰の原点に帰っていかなければ
神様に使われる私にならないと(いうことを)、
だんだん気づいて来ます。

しかし自分でわからなかったので、
子供に悩みを抱えることを通して
悟ってでも、やっていかなければならないのです。


アダムとエバも自分たちの罪を
責任転嫁して終わった。
だからそれがカインに出て来た。

それで父母が悔い改めていれば、
アベルの殺害はなかったでしょう。

しかし、エバは、カインが血気にはやって
殺そうとしているとに気づいていたが、
結局、自分の罪がそのように出ていると
見ていなかったんです。

エバは(堕落した時)殺そうという
動機はなかったので、
(カインの血気や殺意は)自分と
似ていない性質だと思った。

自分の罪ではないと思った。
「私はそのように育てた覚えはない」と。


(でもそれは、)いや、あなたの
子どもでしょ、ということなのです。

そのときにエバが、
『自分がやったことがない罪なんだけど、
自分がこの子を担当したということは、
私の責任だ、どういう責任なんだろう。
あ、自分は神の前に善良でなかった』と、
自分の責任として悔い改める心があったら、
カインの殺そうとする血気の前後の間に入って、
悔い改めをもってとどめることができたはずなんですよ。

ところがやっぱり、エバはどうでした?
責任転嫁した。
アダムのせいにした。
エバは(堕落を)天使長のせいにした。

ですから子供の罪を見た時、逃げたくなるんですよ。
なんで?自分が逃げたからです。

結局自分が担当したものを逃げた場合には、
どこかで抱えるようになります。
清算のチャンスが来る。

2代めでチャンスが来ていたが、
エバはそれからも逃げた。
ということでカインアベルの問題が起こった。

これが人類の一番ご先祖様の家庭の話なので、
私たちは共通にこれを持っているんです。


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近所のおばさんが万引きするのを見たら、
あの人、変だと思うかもしれませんが、
実は万引きが自分に、関係があるから見ているのです。

このようにして

「世界で起こるすべてのことは
 私の問題だと思いなさい」

とお父様が久保木会長に言われたみ言を
皆さんご存知だと思います。

やはり、私の責任だと感ずる人から
愛が始まるようになっている。


滋賀の方で事故があったでしょ、幼児に突っ込んで。
ドライバーを責める声があるかもしれませんが、
ドライバーだって好き好んで行ったわけではなく、
行ったところが電柱ではなく、子供たちがいた
というのでこんな問題になっています。

ニュースを見るとき、私と関係があるから
見ているんですよ、皆さん。
誰の責任か。
私の責任だから見ているのです。

真の父母様は、そのようにして
世界に起こるすべてのものを見ていかれたので、
愛で昇華し蕩減されていかれました。


ましてや自分の家庭に起こることを、
他人事のように見てしまったり、
あるいは夫婦間が一致するにおいて、
相手の性質ゆえに(配偶者が悪いから)
それができないのだと主張する時には、
完全に天使長の霊界になります。

これは原理を知った人の感性ではない。
じゃあ自分がどのようにしていったら
いいんだろうと、涙が出る時にはOK。

自分の配偶者が原理的でないと裁く。。。
(これは、)完全にサタン(の立場)になっている。


原理はそのようなことを教えていない、
自分にだけ適用する、それで終わりなんです。
相手が原理を聞いていようがいまいが
関係はないのです。

もしこの原理観一つあるとするならば、
実はこういう夫婦講座もいらないんですね。
男女の違いを学ぶ必要もありません。

だって相手から感じるものは、
自分の愛の不足が出てくると見て、
心から愛するからね、
原理で一つになってしまうんですよね。

しかし、その原理がわからなくなってしまった。
それでいろんなものが必要になってしまったという
こういう天の悲しみが実はあるのです。

2019年5月北千葉「夫婦講座」より
以前、教区にお呼びした時の講義です。
タイトルとは直接関係ありません。
上の画像は、他の講義で使われていたものです。

編集 文責:ten1ko2


このみ言をとおして
森山先生の証しを思い出しました。

森山先生が子供のころ、
どうしても紙芝居が見たくて、
黙って、お母さん(養母)のお金を盗んでいた。
そのことをお母さんは知っていた。

ある日、仏壇の前で、
「操ちゃんが悪いんじゃない、
お金を盗む、この手が悪いんだ」
そういって母が自分の手を泣きながら殴る、
その姿を森山先生が見た時、
初めて「お母さん、ごめんなさい」
と言うことができた。。。

やはり、森山先生のお母さんの姿を
見習うべき私たちだろうと思います。


そして、ここでは、語られてはいませんが、
「私の責任」ということに関して補足します。

皆様もわかっているとは思いますが、
講師が語られているのは、
実質的、法的責任を取るということでなく、
心情的、内的なものである、ということだと思います。

自分の周りで起こっていることに対して、
客観的に、ワイドショー的に見つめるのではなく、
すべてこれを見つめる天の父母様の心情を思い、
私の心の悔い改めをしていく、
そのような捉え方をしていく、ということでしょう。

それが、イエス様の道であり、
真の父母様の道です。

アダムとエバは、カインの問題に対して、
そのように捉えられなかったわけです。

真の愛で愛せない、
神の立場で愛せないのが堕落性であり、
確かに無責任な立場だなぁと思います。

さらに神様を悲しませることになってしまいました。

でもこれは、アダム、エバだけではなく、
誰もがもつものです。

子どもの罪を自分の心の問題である、
そのように捉えることができずに、
子どもを裁き、さらには、配偶者を裁いていく。。。
そのような思いに対して、まず悔い改めることが、
真の父母様の道に通じるのだと思うのです。




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posted by ten1ko2 at 10:11 | Comment(1) | TrackBack(0) | 蝶野部長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする