2023年12月17日

なぜこの人が私の夫/妻なのか、家庭連合のカップルのあるある 《蝶野部長》2



231217.jpg


名講師、本部の蝶野(ちょうの)家庭教育部長の講座。
若い2世圏の人たちにもお勧めです。

祝福を受けても堕落性が多く、
「原理は、自分に適用したときにだけ、愛になる」
というのに、人に当てはめては
葛藤して、なかなか成長できない私たち。

どうしたら堕落性を脱げるのでしょうか。


堕落の血統を清算したんですが、痕跡がまだ残っています。
(祝福家庭の夫婦も)祝福2世も、
堕落性がまだ残っているが、でも無原罪。

その堕落性をどうするか。
実は、堕落性の根はないんですね。

祝福で堕落性は残っているものの、
根は清算されたというのですが、
しみ込んで残った癖があります。

祝福を通して血統転換したのであれば、
神の息子娘にふさわしくなっていかなければなりません。

(祝福までは、)
堕落性を脱ぐ条件としてメシヤを迎えていきましたが、
祝福を受けちゃった場合には、堕落性の根はありません。

根はないんだけれども、痕跡は残っています。

赤いインクの色水に植物を浸けたら色がつきますが、
でもこれが、祝福を受けたら真水に変わっている。
でも残っている色がある。
早く気化させて色を抜かなければならない。


これは(つまり)、人間の5%によってしか
(堕落性を)脱ぐことができないということです。

霊的役事で恩恵がある時代です。
しかし、自分で自分のことをやるというこの部分、
ハードルは(以前より)下がったのですが、
走るのは自分だということ、
自分の責任分担を忘れてはいけないのです。

ですから、霊的恩恵プラス、
自分が自分で堕落性を脱ぐというのが必要です。


ですけど、そうした時に、私たちは
祝福を受けても堕落性を完全には脱いでいない
状態で、原理を聞くものですから、
(原理を)相手に当てはめるようになる。

もっと悪い場合には伝道対象者に当てはめるんですね。
(伝道対象者は)まだ原理を聞いていないにも関わらず、
「こういう所がゲストにはあるんだ」と言うのですが、
それはあなたでしょう、ということです。

結局、相手に見えるもの
相手によって自分がぶつかるものは、
実は自分のものなんです。
これが原理原則です。

ですから夫婦で、配偶者にうーん?と思っているものは、
実は自分の中のものなんですね。

しかし自分の中の癖が分からないので、それを教えるために
天の配材で、自分の配偶者がいるんです。
これ、既成祝福もマッチングも(2世祝福も)同じですよ。


ですから、配偶者に対していろいろ思うところ、
躓くところ、カチンとくるところ、
えーっと思うところ、食べ方が気になる、清潔にしない。。。

男性の側からも、女性の側からも
いろいろあるかもしれません。

相手に見えるもの
例えば、子女のマッチングに向かうために
どんな相手を願うかという時に、
夫がえらい外的な要望ばかりする。

年収800万、1千万以上、背が高い人でないと等々
そのように夫が言っていると、それに奥さんが葛藤している。。。


宗教の門をくぐったということは、
なぜそのたたかうことをいう夫が
自分の配偶者なのかということを考えるのが、
信仰者の道なのに、こういう
天の配材(はいざい) は一切吹っ飛んでいます。

それは一般人の葛藤のし方です。
私たちは、神様を中心に出会った関係であり、
配偶者だというところに、
もう一回帰っていかなければなりません。

夫婦が一つになるというときに、こういう現実的な見方や、
意見、感性が合わないなどというところで
葛藤してしまうと(ひとつになれません)。

原理を、相手に適応してたたかう(葛藤する)人は、
だいたい自分には適応していない、という場合が多く、
「自分はどうなんだ」と言われて、玉砕するんですね。

そして、それを子供たちが見ながら、
『これなら一般の夫婦の方がいいんじゃないか』
と思われたとしたら、
それは原理を聞かない方がよかったということになります。


お父様の願いはどこにあったかということですね。

本来は、祝福を受けるまでに完全に堕落性を脱ぐ、
そのための条件(が信仰基台)だというんです。
ですから、血統転換後はサタン分立はいらない、
というのが本来なんですね。

ところが私たちは祝福を受けても堕落性をもち、
それを原理で裁いて(指摘して)いたら、どうなる。
大きくなる。

信仰基台を立てることによって私心、
自分がなくなるというのが条件です。

私はこういう信仰基台を立てたと自慢が始まる場合には、
サタン増幅になる。
サタン分立にならないのです。

(文責:ten1ko2)



み言を相手に適用すると裁きになってしまう、
原理は自分のため、愛は人のためにある、
そのことを肝に銘じていかないといけないと思います。

それとともに、今回は、
さらに踏み込んだことを話されています。

今回は夫婦講座ですので、
自分の配偶者に対して言っておられますが、
すべての人間関係に通じることでしょう。

たとえば配偶者に葛藤するところ、
それが本人の課題というのではなく
自分の課題である、
そのことを悟らなければならない、といいます。

相手に戦って(葛藤して)いる部分は、
自分自身の堕落性なのである、
夫は「頑固で頑固で・・」と言いますが、
頑固であったとしても、
そのことが問題なのではない、
頑固な夫に戦っている、
あなた自身が問題なのだ、
そのようにも話されています。

自分が正しいと思って
み言を振りかざしていくと
サタン分立路程をいっているつもりが、
「サタン増幅」になってしまう。。。

そうではなく、
相手に対して引っかかっているところを
自分の問題として悔い改めていく。
とても高度な捉え方ですし、
簡単でないかもしれませんが、
これがお父様に通じる道である、
信仰の基本となるものだと思うのです。

不定期に続きます。





にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の家庭連合のバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)


※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)


posted by ten1ko2 at 09:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 蝶野部長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年11月10日

もしかして子女をゴミのように扱っていた?! 祝福から逆算、乳幼児期からの育て方 《蝶野部長過去ログ1》



220517-2022.0508 (2).jpg


本部蝶野部長が、広島の教育部長をしておられた時、
乳幼児を持つ父母にも講義をされておられます。
中和新聞に掲載された内容を紹介します。



〈祝福から逆算して見えた乳幼児期の過ごし方〉


私は現場で、「子女教育の情報が多過ぎて、
何から手をつけたらよいか分からない」
「学ぶことが多くて、実践する力が湧かない」
という声を父母たちからよく聞きました。

中には、「教会の子女教育は理想論だ」と、
教会から発信される情報に対して
客観的になっている場合もあります。

そして、最初から一般的な価値観に基づく理論で
子女教育を進めようとするのです。

一般で行われている子供の能力を引き出す
教育や習い事は、知識を深め、
自信をもたせるうえで良いことだと思います。

ただ、どんなに優秀な子供であっても、
宗教的な価値観や感性、情操面を意識して育てなければ、
子女自身が現実的な面にばかり価値を置く子になってしまいます。

そうなると、祝福適齢期になって
難しい問題が生じるのです。


祝福は、結婚することがゴールではなく、
祝福家庭として出発し、自らが信仰生活をして、
神様が願われる家庭を築いていくことが前提となります。

宗教的な価値観や感性が育まれていなければ、
たとえ、祝福を受けて家庭を出発したとしても、
「信仰が重要だ」とは思えません。

そのような背景から、
「乳幼児期に何をしたらよいのか、何が重要なのか」
というテーマについて、祝福から逆算して考えてみました。

すると、これまでの発想とは全く違う観点から、
乳幼児期の過ごし方のポイントが見えてきたのです。


家庭をもったばかりの夫婦や乳幼児を持つ
若い夫婦が大切にすべきポイントは、
「家がきれい」
「喜びの中で訓読や敬拝をする」
「夫婦が侍り合う」の3つです。

これらの内容を実践できていないことが、
子供が信仰的に難しくなる家庭にほぼ共通することでもあるのです。

このポイントを習慣化すれば、あれこれ言わなくても、
ほとんどの子供は自ら信仰生活を行うようになり、
祝福に向かうことが分かってきました。

これは家庭教育の核≠フようなものなので、
祝福家庭として三世、四世へと家系が続く鉄則≠ニ言えます。

また、子供が成長しても変わることのない
親としての姿勢でもあります。




〈親が家をきれいにする習慣を身につける〉

当たり前ですが、「家がきれい」なことが大切です。
単に衛生的というだけではなく、
「神様をお迎えするため」という意識が重要です。
このことが、親自身≠フ中で習慣化されているかがポイントです。

部屋の美化は、親自身の心の整理に通じます。
心を清くして神様をお迎えするように、家をきれいにすることで、
神様を愛し、夫婦で愛を育み、子女を愛する環境をつくるのです。


「家がきれい」なことが乳幼児教育と
何の関係があるのか疑問に思う人がいるかもしれませんが、
親がつくる環境は、子供に対する扱い≠反映しています。

「家を汚くしている」ということは、
「あなたは神の子よ。でも、こういう汚い環境で暮らしなさい」
と言っているようなものです。

雑然とした家で育った子供は、
「自分をごみのように扱っている」と霊的に感じるのです。
お母さんがいつも掃除をし、きれいにしていると、
部屋にいるだけで親の愛を感じます。

手作り弁当に感じる愛と同じです。
心を込めて作った弁当を食べる子供は、
親の愛を味わっているのです。

親が一生懸命「愛の言葉かけ」をしても、
ごみの中で育てられた子供は、どう思うでしょうか? 
それが盲点でした。
子供が小さいときから、親自身が家をきれいにする
習慣を身につける努力が必要だったのです。

中和新聞


乳幼児に必要な内容というと、子供が大きくなってしまって
思春期の難しい年ごろや、まさに祝福に向かっていく年齢となると、
もう手遅れだということでは、全くないと思うのです。
貴重なことを教えて頂いた今から、取り組んでいきたいですね。

子育ても、真の家庭づくりも、氏族メシヤも、
まず始めることが重要かと思います。
ここから再スタート、そしてあきらめずに
継続していくことが最も大切でしょう。

「家がきれい」「喜びの中で訓読や敬拝をする」「夫婦が侍り合う」
今回はこの三つの中で、最初の二つを挙げてくださいました。

乳幼児ならずも、祝福に向かう子供を持つ父母には、
なくてはならない必須要件なのではと思いました。

子供は本当に親を見ています。
見ているというか、感じているというか。

私たちの波動をそのまま受け取るのが子供です。
より良い波動を子供たちに与えられるように、
何よりも意識しなければならないのが、
この3項目なのではないか、と思いました。



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ 当ブログ記事の転載、拡散について
その際は、リンクを貼っていただくか
当ブログ名とURLを記載して頂くようにお願いいたします。

なお、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、無断転載
に関しては、固くお断りいたします。

※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。 


posted by ten1ko2 at 07:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 蝶野部長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年06月07日

「蕩減」はもういらない?! 罪滅ぼしと同時に自分も成長できる 《蝶野部長*精誠篇2》終I



230607-chouno2-10.jpg


蝶野知徳(ちょうの とものり)本部家庭教育部長の 
「精誠篇(せいせいへん)
今回が2コマ目の最終回です。


【艱難を受けた時、「父よ!私の祖先からの
過ちに対する○○(何々)・・・」
と祈れば蕩減として越えてしまう。】

というお父様のみ言がありますね。(み旨の道)

それは【蕩減を素直に受けます・・・
と祈れば越えてしまう。】ということです。

皆さんこのみ言を知ってますよね。
昔聞いたでしょう。

聞いたのですが、では、それを
どれぐらいやったかというと、
割とやっていないのです。


(上のみ言の)「素直に受けます」
というのは、甘受のことです。

でも私がお話しているのは、
「甘受せよ」ということではありません。
「感謝せよ」ということなんですよ。

感謝以上のものはありません。

簡単に言えば、感謝というのは
罪滅ぼしと、蕩減と、
自分の成長を同時に出来るのです。

だから感謝だけでいいわけですね。


今の時代は、蕩減という言葉がもういらないんです。
と言いながら、今日、蕩減という言葉が
無数に出てきます。

それを晴らす時には
蕩減という考え方はいらないんですけど。

だいたい我々が、知的に納得したい集団なのです。
他の宗教では、理論というのは、ほとんどありません。

「お前、聖書をとやかく言うのは
お前が迷っているからだ」と、
「まず、信じなさい」と言われるんですよ。

それを、統一食口は、納得できないので、
だから、知的に納得するために
勉強してるだけであって、
本当は感謝だけでいいのです。


(「感謝」できれば、)「罪滅ぼし」は、
本当は必要ありません。

例えば、「恨んではいけない」というみ言と、
「愛しなさい」というみ言が、
昔は二つありました。

ところが「恨んではいけない」というみ言は、
もういらないでしょう。
「愛しなさい」だけで全部終わるんですよ。

穴埋めと建設が同時にできるんです。


み言の中にも、実はそれが表れています。

【人生は蕩減の路程である】、
【不平をいう必要はない】(1990.11.4ベルベディア)
というのは、「我慢しなさい」
ということではないのです。

不平がいらないほど恵みなんだよということです。
不平がいらないというのは、
受ける恩恵の方が大きいということです。

私たちが苦労の中にあっても、
お父様に良心の呵責が無いのは
何でだと思います?

苦労していることを、人間的には
親の心を出して泣かれるんです。

ところが根底は、「良心の呵責はないよ」
どうしてですか?

永生の世界(霊界)において、
受ける恵みがもっと大きいことを
知っているからです。

良心と本心とその塊のようなお方が
信仰の実体のようなお方が、
私たちの心を見て胸を痛められる。
親として、胸を痛めてはくださいますが、
良心の呵責がない。

我々が受ける恵みの方が大きいというのですが、
では、なぜこんな思いをするんですか?
それは蕩減の路程だからだということなんですが。

これは先天時代、昔に語られたみ言で、
それからもう何十年も経ってますから、
今はもっと晴れやかに行くことができますね。


【信仰生活に入ったならば、自分の自覚を否認してしまえ。
 …天使長の血統を受け継いだそのままの目玉だよ。
 だからみんな取り消してしまえ。
 …だから信仰生活においては文句を言うな。
 …不平を言うのは、神を責めることだ。
 …不平を言うな。
 感謝せよ。
 黙々と行かなければならない。】
(我らはなぜ苦労しなければならないのか 
1972年9月11日水澤里)


【信仰生活に入ったならば、
自分の自覚を否認してしまえ。】
否認。だからもう、完全自己否定です。


これからの時代も、完全自己否定ですよ。
原理は絶対に変わりません。

新しい原理観とか古い原理観
というのは絶対にないです。
原理は変わらないんですね。

ただ時代として蕩減していくもの、
そして、作っていくもの、という
時代が変わるので、教育の表現が変わるだけなのです。

昔だって完全自己否定の世界なんですが、
「感謝していく」ということは言われておりました。


【感謝せよ。】

なんとこれは、お父様は同義語で語られてます。
矢印しているように、「自分の自覚を否認する」
ということと「感謝」は同義語なんですよ。

ところが、「自分の思いは、はい捨てました。
もう0になります。
何でも言う事を聞きます」という、
自分をなくすことが自己否定でもあるのですが…。

それだとですね、次に、「人を愛しなさい」
と言われた時に「どうしたらいいですか」
「どうやったらいいんですか」
という人になるんですよ。
成長がないんですね。

人の言うことを聞く信仰は作ったんだけど、
いざ自分が人を愛する時、
神様の心で人を愛していくときに、
「どうしたらいいんですか、マニュアルをください」
という空っぽの人になってしまう。

だから自己否定というのは、
自分が原理的に成長して、
完成していくことが自己否定なんですね。

ところがこの自分を否定する作業のところだけを、
私たちがフォーカスしてしまうと、
いざ自分がやる時にわからなくなる。


実は、感謝する。
感謝すると心が作られます。

だから結論を言います。
「感謝すると、自己否定になる」という事です。

なぜですか?
神様に感謝してるのですから、
その蕩減を教えてくれた自分の相手に
感謝するのです。


ありがとう。
ありがとうございます。

ちょっとムカムカときていてもいいですよ、
言葉で「ありがとうございます、
ありがとうございます。」

心で何か思ってもいいんですよ。
また思いが出てきても、
「ありがとうございます」
そこからなんです。

完全自己否定です。
グーッと我慢するのは、大変なことです。

次のコマは、「感謝せよ」と言っても
感謝できないことがある、
それをどのように感謝していくか
ということも含めてお話ししていきたいと思います。

蝶野知徳・精誠篇2 

父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
2018年に蝶野部長が広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)


自己否定を受けた時、
感謝することができない時があります。

そんな自分に対して、
なんて傲慢なんだろう、と思います。

感謝できないという思いに、なかなか
打ち勝つことができず、
自分の弱さを痛感することがあるのです。

まな板の上の鯉(こい)の状態でも、
イサクが父親アブラハムの言う通り
素直に供え物になっていったように、
委ねていくことができれば、
そして、感謝していくことができれば
確かに問題はないでしょう。

考えてみれば、イサクがアブラハムに対し
委ねていくことができたのは、父を信じ
愛していたからに違いありません。

愛して一つになっていれば
感謝できるし、
越えられないことはないと思うのです。





にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)


posted by ten1ko2 at 07:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 蝶野部長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする