2024年07月05日

責任を果たせない人は、天が交替させる メシヤも例外ではない 《史吉子先生》



190715 20060716.jpg


史吉子(サ キルジャ)先生の
「原理に関するみ言の証」より
予定論の内容です。

予定論を徹底的に実践されるお父様

予定論では神様のみ旨に対する予定は
絶対的なのに、人間に対する予定は
人間が自分の責任分担を全うしなければ、
その人物を変えると言うのが核心です。

お父様はこの内容がお父様自身にも該当する
と言うことを、本当に骨身に滲みるように
感じたとおっしゃいました。

それで予定論がわかった後は、
少しも気を緩めることができなかったと言われました。

お父様は先ず、この貴い原理を
誰かに盗まれてはいけないと思われたそうです。

エデンの園で天使長が、神様が将来なさることを先に知って、
神様よりも先に実践してしまったように、
原理のみ言を他人に盗まれて、
その人がこの原理を悪用しては大変だと言う思いで、
盗まれないようにとても気を揉み、
心を焦がしたとおっしゃいました。

しかし、今原理を全世界に発表されたと言うことは、
時が来たからだそうです。


お父様にはソウルで一緒に高校に通った、
郭魯弼(クァクノビル)と言うとても親しい友達がいました。

北朝鮮から南下された後に、
お父様は釜山でその郭魯弼さんの家を尋ねました。

その日の夜、狭い部屋で数人が一緒に寝ましたが、
いきなりお父様がおっしゃるには、
「魯弼、たとえ私が今はみすぼらしい乞食のような姿だが、
時が来たら、 私が発表した原理を聞いて、
全世界の人々が私について来るようになるだろう」
と言われたそうです。

そのみ言を聞いてその方は、
「ああ、あんなに賢かった友達が苦労をし過ぎて、
頭がおかしくなったのか」
と思って、びっくりしたそうです。

後になって私がその方の話をお父様に申し上げたのですが、
高笑いされながら、「おい、おい、その程度まで話したのも、
私がその親友を信じていたからだ」 と言われました。

それくらいに、お父様は原理に関するみ言を、
時が来る時まで人々に語られませんでした。


そして、たとえ神様が願われてお父様をメシヤとして送られても、
お父様が責任を果たすことができなければ、
メシヤの使命をお父様よりもっとよくできる人に移すことも
あり得ることがわかるようになったとおっしゃいました。

それでお父様は、自ら責任を果たさなければならないと、
絶えず決意されたそうです。

「私が過去、現在、未来のどんな人よりも
メシヤとしての責任分担を果たすためには、
最高の精誠を尽くさなければならない」
と思われたのです。


このように、お父様は身悶えをしながら耐えて来られたことを、
心の底から悟らなければなりません。

私たちが容易く「お父様、お父様」と言いますが、
その声を聞いておられるお父様は、深刻になられるのです。

「果たして、私が父としての役割を果たしているか?
果して、私が自分自身よりも人をもっと愛しているか?
本当に人のために犠牲になっているか?」
と、このようにお父様はいつも自問自答なさるのです。

お父様は地上にいる人だけではなく、
地上に生まれて死んで行った
霊界にいる数多くの霊人たちからも、
侍られるべきではありませんか?

そして、人類の真の父母はお一人なので、
これから生まれる私たちの子孫たちも、
真の父母様が地上でどのように生きたかについて、
知りたいと思わないでしょうか?

彼らは、お父様が人類に対してどれだけ精誠を尽くされ、
どれだけ犠牲になりながら愛して逝かれたのか、
その行跡を調べて、知ろうとするのです。

史吉子/ 著「原理に関するみ言の証」
再編集 文責:ten1ko2




最後までお読みいただき ありがとうございました!
ポチッ!がまだの方はお願いしますm(__)m
ポチッは1日1回有効で、1週間の合計で
ランキングの順位が決まります。
ポチッとすると、現在の順位が出てきます ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ 当ブログ記事の転載、拡散について
その際は、リンクを貼っていただくか
当ブログ名とURLを記載して頂くようにお願いいたします。

なお、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、無断転載
に関しては、固くお断りいたします。

※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。 

posted by ten1ko2 at 10:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 史吉子先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年06月15日

「教会員は先生のお蔭で金持ちに」 神様が絶対損をしない理由 《史吉子先生》

全てを与えても惜しくない父母の愛



220615.jpg


史吉子(サ キルジャ)先生のみ言。
今回は、「神様の両面性」です。

神様の両面性

では、もう一度神様についてお話します。
お父様(文鮮明先生)は、その誰よりも深く
神様について研究されました。

それでお父様は、誰よりも神様についてよく知っておられます。

そのように研究された結果、
神様は全く別のように見える両面性を持っておられる
と言うことに気づかれました。

すなわち、神様は相対性の神様、
数理性の神様としておられます。


先ずは相対性の神様についての部分、
相対性について説明します。

相対性とは、主体と対象があると言うことです。

そして、主体は投入する、与えると意味です。
主体は与える側で、対象は先に受けて
主体に再び返してあげなければなりません。

ところで、返してあげる時には、 ここに何がつくのか?
受けたそのままを返してあげるのではなく、
利子がつくと言われました。

私たちが銀行に貯金をたくさんすれば
するほど、利子がたくさんつきます。

ところが、もし対象が受けるばかりで、
それを返してあげなかったら、
この対象は存在することができないのです。
自滅するのです。

それで、 この授受作用の原理に拠って見ると、
与えれば与えるほど、より多くの利子が返って来ます。
神様は、絶対に損をすることはしないのです。


天宙の中心には、神様がおられます。
そして、この地上の中心は人間です。

神様はまた、父母であられます。
そして、人間は子女です。

皆さんに子女がいると思います。
ところで子女に対してはどうですか?
子女は無条件に愛らしく、
無条件に全てを与えてあげたいし、
限りなく全てを与えても惜しくはありません。

それがまさに主体である父母が、
対象である子女に与える愛の本能です。

これは、どこから出て来ましたか?
神様から出て来ました。


神様は父母であられるので、
子女である人間に無条件に与えるのです。
損得勘定をすることなく与えます。

神様がくださればくださる程、
その子供はそれを受け取ってお返しする時には、
より多くお返ししなければならないのです。

その子供が大きくなって孝行息子になり、
国の忠臣となり、素晴らしい人になればどうなりますか?

父母はその子供を見つめる時、
子供のために全てを与えても惜しくなく、
もっと大きな生き甲斐を感じつつ愛おしく思います。

それが、父母が子供に投資した利益です。
父母はつまらない物質的な利子のことを言ったりはしません。
真心を込めて子供に投資すればする程、
自動的に利子がつくからです。


神様をなぜ父母と言うのか?
神様はなぜ父母の心情を持っておられるのか?

神様が人間を創造された時、
ご自身のことを全くお考えにならず、
ただ自分の子女にどうすればもっと良くして
あげられるかと言うことだけ考えられたのです。

神様は父母の心情しかありません。
兄弟の心情や夫婦の心情もそこまでは行けません。
それで神様を父母だと言えるのだとおっしゃいました。
これが授受作用の愛の原則です。

人間も、自分の子女が
父母である自分より優れていることを願います。

お父様が私たちに教えてくださった
驚くべきことは何かと言うと、
神様が父母であり、人間が子女であるが故に、
神様はご自身よりも子女である人間が
より高くなることを願っておられるのです。


このみ言も、初めて聞くみ言です。

私が既成教会に通っていた時、
いつも神様は高い所にいらっしゃって、
人間は罪人で、イエス様を信じれば天国に行き、
救われたと言いながらも、いつも罪人だと言います。

神様と人間の距離が縮まりませんでした。

私が統一教会に入って創造原理を聞いて、
お父様のみ言を聞いてみると、
神様はそのまま高い所にいらっしゃり、
私が上がると言うのです。

私が神様の子女になれば、私は神様の所まで上がるのです。
それが変わりました。


神様は父母であられるので、子女である人間が
ご自身よりもっと優れているからと言って、
絶対に嫉妬される方ではありません。

人間の父母も、子女がより優れていると言えば喜びます。

お父様は、「ああ、そうか!
父母であられる神様は、
子女である人間がより優れていることを願われるんだ!

どうしてそうなのか?
人間は神様の子であり、神様の愛の対象であるからだ。」
と感じられました。

このような内容は、世界中のどこに行っても
聞くことができないみ言です。
お父様はこのような貴い内容を明らかにされたのです。


いつかお父様が、こうおっしゃいました。

「神様も人間と共に成長する!」。
これは、どれ程驚くべき内容でしょうか?

神様のように完全な方が人間と共に成長すると言うみ言が、
私には理解ができませんでした。
それで、お父様にお伺いしてみました。

「お父様、神様が本当に小さな子供のように成長しますか?
この話を既成教会の信者が聞いたら、変に思うでしょうね。
しきりに、自分たちとは違うことを言うといって迫害するのに、
神様が本当に成長するんでしょうか?」。

そうしたら、
「神様はもちろん完全であられるけれど、
愛だけは対象が無ければ感じることができない。
皆さんは子女を産んでみたからわかるだろう。

子供が5歳になれば、5歳の友達として
ママゴトも一緒にしなければならないし、
子供が大きくなればなる程、
そこに合わせてやらなければならない。」
とおっしゃいました。


そのみ言を聞いた時、私はぼーっとしていました。

そうしたらお父様が、
「愛と言うものは目に見えないじゃないか?
だから、外部から、 相対から刺激が来ないと、
あっても無いのと同じだ。」とおっしゃいました。

昔、お父様は私たちの心は、体の中にあると言われました。
ところが、人間は、自分の体の中に
私の心があるのに心がわからないと言い、
神様もどこにでもいらっしゃるのに、
神様がいないと言います。

神様は、何か刺激がある所に現れます。
お父様が「君たち、手を上げて、
自分の太ももを力一杯、叩いてみなさい。
痛いだろう。

これがまさに、私の心が私の体全体の
どこにでもあると言うことを語っているのである。」
とおっしゃいました。

心は、体全体に満ちています。
外部から体をばしっと叩くと、自動的に
「痛い!」と言う声と共に、心が動くのです。

このように外部の刺激を受けたその所に心が現れるように、
神様も刺激がある所に現れるのです。

相対から刺激を受けてこそ愛を感じるように、
愛は相対的です。

そして、人間が成長するにつれて、
神様の愛も相対的に成長します。
それで神様も成長すると言う言葉が成立します。

どうですか?
理解できますか?
そのように、神様と人間の間はとても近いのです。

私たちは今、相対性の神様、
愛の神様について学んでいます。
そして、授受作用を学んでいます。


お父様が、「授受作用さえ確実にわかれば、
原理をほぼわかったと言えるだろう。」
とおっしゃったことがあります。

続けて、
「本当に私たちが相対のために与えて、
また与え、それがすぐには返って来なくても、
とてつもない大きな利子がついて返って来る。

私はそれを知っているために、
常に与えて、また与える。
損をしても与える。

これからの一生の間、
私が全世界に投入したものが全部返って来て、
統一教会員はそのお陰でお金持ちになるだろう。

人も帰って来るし、お金も返って来る。
だから、私は絶対に損をしていないと思う。」
と、おっしゃいました。

史吉子/ 著「原理に関するみ言の証」
再編集 文責:ten1ko2


「神様はご自身よりも子女である人間が
より高くなることを願っておられる」
「神様も人間と共に成長する」
本当にこれは、驚くべきみ言です。

神様の本当の御姿に出会われた、
真のお父様ならではのみ言であると思います。

全知全能な神様ではありますが、
愛においては、対象が完成しない限り、
完成してはいない、ということです。

神様は、親であり、父母である、
そのように証しされた真のお父様。
授受作用の原則通り、
与えて忘れる歩みをし続けていかれました。

私たちも本当の「金持ち」になれるよう、
与えて忘れる精神を持って、
日々のみ旨を歩んでいきたいと思うのです。


最後までお読みいただき ありがとうございました!
ポチッ!がまだの方はお願いしますm(__)m
ポチッは1日1回有効で、1週間の合計で
ランキングの順位が決まります。
ポチッとすると、現在の順位が出てきます ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ 当ブログ記事の転載、拡散について
その際は、リンクを貼っていただくか
当ブログ名とURLを記載して頂くようにお願いいたします。

なお、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、無断転載
に関しては、固くお断りいたします。

※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。 


posted by ten1ko2 at 07:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 史吉子先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年05月27日

生きている人間が復活? 「霊人体の完成は愛の完成だよ」アボジの一言・霊性レッスン 《史吉子先生》



240527-2015.0829sa.jpg


史吉子(サ キルジャ)先生
「原理に関するみ言の証」、復活論より、
地上人に対する復活のお話しです。


復活論では先ず、地上人に対する復活摂理が現れます。

地上人に対する復活摂理は、
どのようになされるのでしょうか?
私たちの霊人体が霊形体、生命体を経て、
生霊体にならなければなりません。

すなわち、 蘇生復活、長成復活の段階を経て、
完成復活しなければならないのです。


次は、霊人に対する復活摂理です。

既に肉身を脱いだ私たちの先祖たち、
霊人たちは地上に再臨して地上人を協助することにより、
地上人と同じ恵沢を受けて復活します。

今日は、この二つの内容に関して説明します。


私は、復活とは既成教会で言及するように、
「死体が墓から蘇ること」だと思っていました。

ところが、 私たちの教会に入教して、
「復活は霊人体が成長すること」
と言うみ言を初めて聞きました。

それであまりにも不思議で、更に深く知りたくなり、
ある日、 お父様にお尋ねしました。

「お父様、私もお父様がおっしゃるように、
私の体の中で霊人体が成長していると思いますが、
霊人体がどれくらい成長したか、
霊形体が成長して生命体になったのか、
そのようなことが計れる、丁度、体温計のような機械を見て、
成長の度合いをわかることができませんか?」
とお尋ねしてみました。

お父様はこの質問については、聞いた振りもされず、
「そうだ。霊人体の完成は愛の完成だよ!」
と答えられ ました。


ところで、この霊形体と言う言葉には、
意味があります。

私たち食口の中で、練炭ガス中毒で
急死して生き返った人がいました。

彼女が死んで霊界に行ってみたら、
天国に行く道よりも地獄に行く道の方が楽に見えて、
早く来いと手振りをしていたそうです。

それで地獄に行ってみると、大蛇のような、
犬のような、豚のようなものがいましたが、
こちらから見ると人のようでもあり、
あちらから見ると獣のように見えたそうです。

そういう訳で復活してこそ、私たちの霊人体は
獣の姿から人間の姿へと形成されるのです。
それで蘇生期の霊人体を、霊形体と呼ぶのです。


そして、その霊形体が生命体に成長し、
更に成長すると生霊体になるのです。
生霊体は発光体であり、発光体は光を発するものです。

それで私たちが地上で生きる目的は、
自分の霊人体が完成して生霊体 (発光体)になることです。
それ故に、誰もが生霊体になることを望み ます。

その光がどれくらい強いかが、
将来、真の父母様が霊界に行かれた後、
私たちが真の父母様の近くに行ける基準になるそうです。

自分の霊人体が明るければ明るいほど、
真の父母様の近くに行けます。
暗ければ暗い程、下に下がり、
明るければ明るい程、上に上がります。

史吉子/ 著「原理に関するみ言の証」
再編集 文責:ten1ko2


私の霊人体が、どれくらいの位置なのか、
知りたい思いもあるし、しかし、
逆に、知りたくない思いもあります。。。

お父様のみ言のごとく、
「霊人体の完成は、愛の完成」と言われると
まだまだだな、と感じさせられます。

「私の生涯の座右の銘は、
いかにしてきのうよりきょう、
さらに感謝の気持ちをもって
生きていくかということです。
きのうよりきょう、さらに感謝し、
あすはきょうよりもっと感謝しながら
生きるために努力してきました。
日ごと、感謝の気持ちをもつことが、
私の人生の目標でした」


このお母様のみ言が胸を打ちますね。
どんな境遇にあったとしても、
感謝する生活を送ること、
この思いを持って、今日も出発していきたいと思うのです。


最後までお読みいただき ありがとうございました!
ポチッ!がまだの方はお願いしますm(__)m
ポチッは1日1回有効で、1週間の合計で
ランキングの順位が決まります。
ポチッとすると、現在の順位が出てきます ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ 当ブログ記事の転載、拡散について
その際は、リンクを貼っていただくか
当ブログ名とURLを記載して頂くようにお願いいたします。

なお、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、無断転載
に関しては、固くお断りいたします。

※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。 

posted by ten1ko2 at 10:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 史吉子先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする