2024年07月13日

君たちは霊界を知らないから遊んでいられるが、アボジ・オモニはできない 《史吉子先生》



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史吉子(サ キルジャ)先生の
「原理に関するみ言の証」より
予定論の内容、後編です。


お父様が今まで心配しておられたことが何かと言うと、
お父様が霊界に逝かれた後に、一人でも尋ねて来て、
「お父様もメシヤとして多くの苦労をしました。
しかし、 お父様よりも私はみ旨のために
もっと苦労をしました」
と言う人が現れたら、お父様はメシヤとして
神様の前に頭を上げることができないのです。

このように、文総裁がメシヤとしてどのように歩まれたかが
本当に重要だと言われました。

それでお父様は、人類歷史上で最高に苦労をした
と言う基準を立てておいて、
霊界へ行かなければならないそうです。

お父様は子孫たちが生まれたら、彼らに、
「お父様はいつ出生され、何年度まで肉身をもって生きておられたが、
あれこれ苦労をされた」と言いながら、
お父様の実績を教えてあげたら、誰もが慟哭することができる
偉大なお父様として、永遠に残られなければならないので、
いつも気が急いで一瞬も休むことができないと言われます。

お父様は、「あなたたちは霊界を知らないから遊んだり、
休んだり、やめたりすることもできるが、
私は霊界がわかるからそんなことはができない」と言われました。

霊界と地上の長さを比べてみると、
地上は目を瞬きするくらいの一瞬だそうです。

お父様は、「そんな短い瞬間に自分の永遠な位置が決まると思う時、
どうして気楽に足を伸ばすことができるか?」と言われながら、

「私はベッドの上で呑気に病気になって死んで行く人間ではない。
私はみ言を語りながら現場で体が固くなって、
これ以上語れなくなって倒れながら殉教するつもりだ。
それが私には最高の栄光だ」と言われました。

私たちが霊界へ行ってお父様にお会いする時、
お父様が、「あなたはどんなことをしたのか?
これこれをしたのか?」と問われた時、
私たちが、「お父様は、そのようなことはおっしゃいませんでした」
と、 そのように言ってはいけないのです。

それはお父様の責任なので、お父様は息を引き取る瞬間まで、
み言を語ろうとされるのです。

それでお父様にお会いすれば、本当に毎日最善を尽くして
み言を語られる姿を拝見します。

私たちがこのような事実を知ると、どうですか?
子女としての私たちは、真似だけでも
しなければならないではないですか?

今もお父様は、私たちが実績を上げるには難しいと思える
新しい指示をなさってからは、私たちのために祈祷しようとして、
海に出られるとおっしゃいます。

ところで、海は本当に危ない所です。
暴風で船が急に引っ繰り返ることもあります。

お父様は海において小さな船に命を委ねて、
ひたすら命を賭けて涙ぐましい祈祷をなさりながら、
私たちよりも何千倍、何万倍も深刻な時間を過ごしておられ、
湯滅条件を立てているとおっしゃいました。

予定論は、このようにお父様にも該当するのです。
ですから、私たちは尚更ではありませんか?

原理に関するみ言の証
再編集 文責:ten1ko2


真のお父様が立てられた精誠。。。
史吉子先生が書かれたこのみ言は、
お父様がまだ地上でみ旨を歩んでいる時でした。

このみ言のごとく、まさに
「人類歷史上で最高に苦労をした
と言う基準を立てて」歩まれたお父様でした。

今、お母様が継承しておられます。
「睡眠薬を飲まなければ、眠ることができない」
と語られるお母様です。

神様の願いを思えば、人類の立場を考えれば、
休むことができない真の父母様なのです。




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2024年07月05日

責任を果たせない人は、天が交替させる メシヤも例外ではない 《史吉子先生》



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史吉子(サ キルジャ)先生の
「原理に関するみ言の証」より
予定論の内容です。

予定論を徹底的に実践されるお父様

予定論では神様のみ旨に対する予定は
絶対的なのに、人間に対する予定は
人間が自分の責任分担を全うしなければ、
その人物を変えると言うのが核心です。

お父様はこの内容がお父様自身にも該当する
と言うことを、本当に骨身に滲みるように
感じたとおっしゃいました。

それで予定論がわかった後は、
少しも気を緩めることができなかったと言われました。

お父様は先ず、この貴い原理を
誰かに盗まれてはいけないと思われたそうです。

エデンの園で天使長が、神様が将来なさることを先に知って、
神様よりも先に実践してしまったように、
原理のみ言を他人に盗まれて、
その人がこの原理を悪用しては大変だと言う思いで、
盗まれないようにとても気を揉み、
心を焦がしたとおっしゃいました。

しかし、今原理を全世界に発表されたと言うことは、
時が来たからだそうです。


お父様にはソウルで一緒に高校に通った、
郭魯弼(クァクノビル)と言うとても親しい友達がいました。

北朝鮮から南下された後に、
お父様は釜山でその郭魯弼さんの家を尋ねました。

その日の夜、狭い部屋で数人が一緒に寝ましたが、
いきなりお父様がおっしゃるには、
「魯弼、たとえ私が今はみすぼらしい乞食のような姿だが、
時が来たら、 私が発表した原理を聞いて、
全世界の人々が私について来るようになるだろう」
と言われたそうです。

そのみ言を聞いてその方は、
「ああ、あんなに賢かった友達が苦労をし過ぎて、
頭がおかしくなったのか」
と思って、びっくりしたそうです。

後になって私がその方の話をお父様に申し上げたのですが、
高笑いされながら、「おい、おい、その程度まで話したのも、
私がその親友を信じていたからだ」 と言われました。

それくらいに、お父様は原理に関するみ言を、
時が来る時まで人々に語られませんでした。


そして、たとえ神様が願われてお父様をメシヤとして送られても、
お父様が責任を果たすことができなければ、
メシヤの使命をお父様よりもっとよくできる人に移すことも
あり得ることがわかるようになったとおっしゃいました。

それでお父様は、自ら責任を果たさなければならないと、
絶えず決意されたそうです。

「私が過去、現在、未来のどんな人よりも
メシヤとしての責任分担を果たすためには、
最高の精誠を尽くさなければならない」
と思われたのです。


このように、お父様は身悶えをしながら耐えて来られたことを、
心の底から悟らなければなりません。

私たちが容易く「お父様、お父様」と言いますが、
その声を聞いておられるお父様は、深刻になられるのです。

「果たして、私が父としての役割を果たしているか?
果して、私が自分自身よりも人をもっと愛しているか?
本当に人のために犠牲になっているか?」
と、このようにお父様はいつも自問自答なさるのです。

お父様は地上にいる人だけではなく、
地上に生まれて死んで行った
霊界にいる数多くの霊人たちからも、
侍られるべきではありませんか?

そして、人類の真の父母はお一人なので、
これから生まれる私たちの子孫たちも、
真の父母様が地上でどのように生きたかについて、
知りたいと思わないでしょうか?

彼らは、お父様が人類に対してどれだけ精誠を尽くされ、
どれだけ犠牲になりながら愛して逝かれたのか、
その行跡を調べて、知ろうとするのです。

史吉子/ 著「原理に関するみ言の証」
再編集 文責:ten1ko2




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2024年06月15日

「教会員は先生のお蔭で金持ちに」 神様が絶対損をしない理由 《史吉子先生》

全てを与えても惜しくない父母の愛



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史吉子(サ キルジャ)先生のみ言。
今回は、「神様の両面性」です。

神様の両面性

では、もう一度神様についてお話します。
お父様(文鮮明先生)は、その誰よりも深く
神様について研究されました。

それでお父様は、誰よりも神様についてよく知っておられます。

そのように研究された結果、
神様は全く別のように見える両面性を持っておられる
と言うことに気づかれました。

すなわち、神様は相対性の神様、
数理性の神様としておられます。


先ずは相対性の神様についての部分、
相対性について説明します。

相対性とは、主体と対象があると言うことです。

そして、主体は投入する、与えると意味です。
主体は与える側で、対象は先に受けて
主体に再び返してあげなければなりません。

ところで、返してあげる時には、 ここに何がつくのか?
受けたそのままを返してあげるのではなく、
利子がつくと言われました。

私たちが銀行に貯金をたくさんすれば
するほど、利子がたくさんつきます。

ところが、もし対象が受けるばかりで、
それを返してあげなかったら、
この対象は存在することができないのです。
自滅するのです。

それで、 この授受作用の原理に拠って見ると、
与えれば与えるほど、より多くの利子が返って来ます。
神様は、絶対に損をすることはしないのです。


天宙の中心には、神様がおられます。
そして、この地上の中心は人間です。

神様はまた、父母であられます。
そして、人間は子女です。

皆さんに子女がいると思います。
ところで子女に対してはどうですか?
子女は無条件に愛らしく、
無条件に全てを与えてあげたいし、
限りなく全てを与えても惜しくはありません。

それがまさに主体である父母が、
対象である子女に与える愛の本能です。

これは、どこから出て来ましたか?
神様から出て来ました。


神様は父母であられるので、
子女である人間に無条件に与えるのです。
損得勘定をすることなく与えます。

神様がくださればくださる程、
その子供はそれを受け取ってお返しする時には、
より多くお返ししなければならないのです。

その子供が大きくなって孝行息子になり、
国の忠臣となり、素晴らしい人になればどうなりますか?

父母はその子供を見つめる時、
子供のために全てを与えても惜しくなく、
もっと大きな生き甲斐を感じつつ愛おしく思います。

それが、父母が子供に投資した利益です。
父母はつまらない物質的な利子のことを言ったりはしません。
真心を込めて子供に投資すればする程、
自動的に利子がつくからです。


神様をなぜ父母と言うのか?
神様はなぜ父母の心情を持っておられるのか?

神様が人間を創造された時、
ご自身のことを全くお考えにならず、
ただ自分の子女にどうすればもっと良くして
あげられるかと言うことだけ考えられたのです。

神様は父母の心情しかありません。
兄弟の心情や夫婦の心情もそこまでは行けません。
それで神様を父母だと言えるのだとおっしゃいました。
これが授受作用の愛の原則です。

人間も、自分の子女が
父母である自分より優れていることを願います。

お父様が私たちに教えてくださった
驚くべきことは何かと言うと、
神様が父母であり、人間が子女であるが故に、
神様はご自身よりも子女である人間が
より高くなることを願っておられるのです。


このみ言も、初めて聞くみ言です。

私が既成教会に通っていた時、
いつも神様は高い所にいらっしゃって、
人間は罪人で、イエス様を信じれば天国に行き、
救われたと言いながらも、いつも罪人だと言います。

神様と人間の距離が縮まりませんでした。

私が統一教会に入って創造原理を聞いて、
お父様のみ言を聞いてみると、
神様はそのまま高い所にいらっしゃり、
私が上がると言うのです。

私が神様の子女になれば、私は神様の所まで上がるのです。
それが変わりました。


神様は父母であられるので、子女である人間が
ご自身よりもっと優れているからと言って、
絶対に嫉妬される方ではありません。

人間の父母も、子女がより優れていると言えば喜びます。

お父様は、「ああ、そうか!
父母であられる神様は、
子女である人間がより優れていることを願われるんだ!

どうしてそうなのか?
人間は神様の子であり、神様の愛の対象であるからだ。」
と感じられました。

このような内容は、世界中のどこに行っても
聞くことができないみ言です。
お父様はこのような貴い内容を明らかにされたのです。


いつかお父様が、こうおっしゃいました。

「神様も人間と共に成長する!」。
これは、どれ程驚くべき内容でしょうか?

神様のように完全な方が人間と共に成長すると言うみ言が、
私には理解ができませんでした。
それで、お父様にお伺いしてみました。

「お父様、神様が本当に小さな子供のように成長しますか?
この話を既成教会の信者が聞いたら、変に思うでしょうね。
しきりに、自分たちとは違うことを言うといって迫害するのに、
神様が本当に成長するんでしょうか?」。

そうしたら、
「神様はもちろん完全であられるけれど、
愛だけは対象が無ければ感じることができない。
皆さんは子女を産んでみたからわかるだろう。

子供が5歳になれば、5歳の友達として
ママゴトも一緒にしなければならないし、
子供が大きくなればなる程、
そこに合わせてやらなければならない。」
とおっしゃいました。


そのみ言を聞いた時、私はぼーっとしていました。

そうしたらお父様が、
「愛と言うものは目に見えないじゃないか?
だから、外部から、 相対から刺激が来ないと、
あっても無いのと同じだ。」とおっしゃいました。

昔、お父様は私たちの心は、体の中にあると言われました。
ところが、人間は、自分の体の中に
私の心があるのに心がわからないと言い、
神様もどこにでもいらっしゃるのに、
神様がいないと言います。

神様は、何か刺激がある所に現れます。
お父様が「君たち、手を上げて、
自分の太ももを力一杯、叩いてみなさい。
痛いだろう。

これがまさに、私の心が私の体全体の
どこにでもあると言うことを語っているのである。」
とおっしゃいました。

心は、体全体に満ちています。
外部から体をばしっと叩くと、自動的に
「痛い!」と言う声と共に、心が動くのです。

このように外部の刺激を受けたその所に心が現れるように、
神様も刺激がある所に現れるのです。

相対から刺激を受けてこそ愛を感じるように、
愛は相対的です。

そして、人間が成長するにつれて、
神様の愛も相対的に成長します。
それで神様も成長すると言う言葉が成立します。

どうですか?
理解できますか?
そのように、神様と人間の間はとても近いのです。

私たちは今、相対性の神様、
愛の神様について学んでいます。
そして、授受作用を学んでいます。


お父様が、「授受作用さえ確実にわかれば、
原理をほぼわかったと言えるだろう。」
とおっしゃったことがあります。

続けて、
「本当に私たちが相対のために与えて、
また与え、それがすぐには返って来なくても、
とてつもない大きな利子がついて返って来る。

私はそれを知っているために、
常に与えて、また与える。
損をしても与える。

これからの一生の間、
私が全世界に投入したものが全部返って来て、
統一教会員はそのお陰でお金持ちになるだろう。

人も帰って来るし、お金も返って来る。
だから、私は絶対に損をしていないと思う。」
と、おっしゃいました。

史吉子/ 著「原理に関するみ言の証」
再編集 文責:ten1ko2


「神様はご自身よりも子女である人間が
より高くなることを願っておられる」
「神様も人間と共に成長する」
本当にこれは、驚くべきみ言です。

神様の本当の御姿に出会われた、
真のお父様ならではのみ言であると思います。

全知全能な神様ではありますが、
愛においては、対象が完成しない限り、
完成してはいない、ということです。

神様は、親であり、父母である、
そのように証しされた真のお父様。
授受作用の原則通り、
与えて忘れる歩みをし続けていかれました。

私たちも本当の「金持ち」になれるよう、
与えて忘れる精神を持って、
日々のみ旨を歩んでいきたいと思うのです。


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