史吉子(サ キルジャ)先生の
「原理に関するみ言の証」より
今回は、『終末論と人体構造』です。
☆
原理講論の終末論を見れば、
天国は人間一人の姿と同じだと言う話があります。
お父様が霊界に行ってみられましたが、
神様がたとえ形は無かったとしても、
神様にお会いする中で悟られたことは何かと言うと、
神様は人間の姿で現れると言うことです。
それ故に、人間ほど完璧な真理体は無いのです。
人体の構造に対する無限な価値と内容がわかるお父様は、
ご自身の思考の根拠が人体にあるとおっしゃいます。
お父様は、そんなお話をよくされます。
☆
そして、 聖書も神様のみ言なので、
人の体に似せて書かれたと言うことを
発見されたそうです。
すなわち、 聖書はどこが頭の部分で、
どこが胴体であり、 どこが腕や足であるか
と言うことを一気に悟られたと、おっしゃいました。
それで、 聖書が一気に解けたと言われました。
☆
世の中の神学者たちは、 まだ聖書を全体的に知らず、
部分的にのみ理解していいます。
これは、まるで盲人が象を触っているようなもので、
ある人は鼻を触ってみて、
「象は大きな蛇のようだ。」と言い、
ある人は足を触ってから、
「象は柱みたいだ。」 と言い、
お腹を触った人は、「象は壁のようだ。」
と言っているようなものです。
神学者たちが聖書に関して争うのは、
このような理由のためです。
☆
しかし、お父様は人体が完璧な真理であることを知って、
神様を探し求める時にも、この人体を利用したそうです。
お父様は人の顔を見た時、一番不思議な所が瞳だそうです。
そして人の全身を見る時、
頭は神様を象徴し、 胴体は人を象徴し、
腕と足は万物を象徴するとおっしゃいます。
顔全体を見る時、二つの瞳は
二性性相、すなわち、神様を象徴するのです。
皆さんも人を見る時、一番先にどこを見ますか?
大部分の人は、目を見ます。
お父様は目がその狭い空間で
自由自在にくるくる回るのを見ると、
本当に不思議だと言われました。
お父様は顔だけをじっくり見る時、
目は神様を象徴し、鼻は人間を象徴して、
口は万物を象徴するとおっしゃいました。
☆
このようにお父様の全ての思考の根拠は、
人体構造にあります。
体の無い神様が現れるならば、
必ず人体構造として現れるそうです。
それでお父様は、事業体も人体の構造に従って、
何を先にしなければならないかを決められます。
統一産業を最初に始める時、
「統一産業は、人体において
脊椎のような基幹産業」 だと言われました。
お父様が一番最初に精誠を込めて始めた事業が、
各種機械を作る基幹産業でした。
人体と同様に、産業も脊椎がよく備わっていると、
次に小さな骨が精巧に付いて、
全体的に均衡が整った人体構造になるとのことです。
お父様はこのように事業をなさる時も、
人体構造を型取ってされるのです。
☆
授受作用でも出て来ますが、
私たちは食べ物を食べて排泄がよくできて、
新陳代謝が円滑に成り立たなければならないように、
事業もこのような道理に従って遂行すると、
更に発展するのです。
お父様は事業も訳も無くなさるのではなく、
このように人体構造を参考にしてなさる
と言うことを私たちが悟らなければなりません。
☆
そして、お父様が最後にしなければならない事業は、
海運業だと言われました。
人体の構成が形成されれば
血液が循環して新陳代謝がなされ、
新陳代謝がなされると人体が健康になります。
海運業は血液が循環するのと
同じ事業だと言われました。
お父様は大きい船を作って、
こちらの国の特産物をあちらの国に積んで行って販売し、
その国の特産物をこの国に積んで来て販売し、
また、 たくさんの人を招待して船で宿泊をさせながら、
教育もしなければならないとおっしゃいました。
史吉子/ 著「原理に関するみ言の証」
☆
再編集 文責:ten1ko2
お父様の物事を見る観点というのは、
改めて、すごいな、と感じます。
人間の人体構造で神様を見ていかれます。
また、事業を見ていく
物事を進めていくにも
原理的、秩序的になされるのだな、と思います。
史吉子先生は、原理講論には、
「天国は人間一人の姿と同じ」
と記述されていると言われています。
しかし、さらに言えば、
天国は、一人では行けない所であり、
「夫婦が一つになった姿」
というのが真実の中の真実です。
お父様は、このことをご存じだったでしょうが、
摂理的事情もあり、原理講論には、
このように書かれたのだと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
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