父よ、彼らをおゆるしください。
彼らは何をしているのか、
わからずにいるのです。
ルカ23章34節
☆
彼らは何をしているのか、
わからずにいるのです。
ルカ23章34節
☆
拉致監禁されているときに
多くの人が味わうであろう心情について書きたいと思います。
イエス様の心情を一番ご存知なのは、
真のお父様なのだと思います。
お父様はイエス様が通過された心情の世界を
本当に深く味わってこられ、
そしてイエス様を解放してこられました。
次のみ言などにも聖書には書き記されていない
イエス様の深い思いを書き表されています。
☆
十字架につけられるとき、イエス様は
手からしたたる血をごらんになるときに、
過去において立てられた条件を探ろうとされました。
それがイエス様の心情です。
そして、両手、両足、頭、脇腹から
血を流されながら、神様に祈られたのです。
「歴史的な先祖の罪を赦してください。
神様に対して慕うことのできなかった、
ささげものをささげることができなかった、
私たちの先祖の身代わりとして受け取ってください。
そして私が、三十三歳の若さで死んでも、
神様のために果たし得たという条件を立たせてください。
それは、神様が今まで四千年間の歴史を通して
苦労してこられた、
その神様のご苦労が切られてしまうからであり、
また、自分の願いを全うしなければ、
自分の祈りに神様ご自身が応じられなければ、
今までの四千年間の神様ご自身のご苦労が
なくなってしまうからです。
ですから、今までの親としての神様のご苦労に対する
心情的つながりの基準を、
自分によって立たせてください」
すべての先祖や、神様の心情、
自分の未来の心情の基準に立って天を見るときに、
ただ、ただ申し訳ない。
歴史を見るときに申し訳ない。
現在・未来に対して申し訳ない。
その立場において、憐れみのみ意を持たなければならない
神様ご自身であられるということを、
イエス様はよくご存じでした。
またその祈りは、
「神よ彼らの罪を赦してください。
私は、今までの神様の苦労してこられた歴史を
残さなければなりません。
この基準において、サタンの讒訴条件をぶち壊して、
そして新しい第二の摂理における
歴史的勝利の基盤だけでも造らなければなりません」
という真剣な祈りでした。
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十字架につけられるとき、イエス様は
手からしたたる血をごらんになるときに、
過去において立てられた条件を探ろうとされました。
それがイエス様の心情です。
そして、両手、両足、頭、脇腹から
血を流されながら、神様に祈られたのです。
「歴史的な先祖の罪を赦してください。
神様に対して慕うことのできなかった、
ささげものをささげることができなかった、
私たちの先祖の身代わりとして受け取ってください。
そして私が、三十三歳の若さで死んでも、
神様のために果たし得たという条件を立たせてください。
それは、神様が今まで四千年間の歴史を通して
苦労してこられた、
その神様のご苦労が切られてしまうからであり、
また、自分の願いを全うしなければ、
自分の祈りに神様ご自身が応じられなければ、
今までの四千年間の神様ご自身のご苦労が
なくなってしまうからです。
ですから、今までの親としての神様のご苦労に対する
心情的つながりの基準を、
自分によって立たせてください」
すべての先祖や、神様の心情、
自分の未来の心情の基準に立って天を見るときに、
ただ、ただ申し訳ない。
歴史を見るときに申し訳ない。
現在・未来に対して申し訳ない。
その立場において、憐れみのみ意を持たなければならない
神様ご自身であられるということを、
イエス様はよくご存じでした。
またその祈りは、
「神よ彼らの罪を赦してください。
私は、今までの神様の苦労してこられた歴史を
残さなければなりません。
この基準において、サタンの讒訴条件をぶち壊して、
そして新しい第二の摂理における
歴史的勝利の基盤だけでも造らなければなりません」
という真剣な祈りでした。
(「天宙に立つイエス様 1965年10月3日 日本・東京教会」より抜粋)
☆
私は二度目の拉致監禁のとき、
(反対牧師の)キリスト教会で数日過ごしました。
牧師からも「彼は完全に脱会した」
そのように信頼されるようになり、
隙を見て、所属していた(UCの)教会に電話をしました。
そして、(UCの)教会のスタッフが翌日に
車で迎えにきてくれることになりました。
「夜中の〇時にここで落ち合おう」
もちろん、その日の夜は眠れませんでした。
私が泊まっていたのは、礼拝堂の上にあった荷物置き場でしたが、
眠ることも出来ないので、
礼拝堂で祈りを捧げることにしました。
その時に祈りながら出てきたのがまさに
「神様、彼らを許してください。
彼らは何をしているのかわからないのです」
という言葉でした。
もちろん、未熟で幼い者でありますから、
イエス様や、お父様の心情には、とても及びません。
それでも同じ気持ちにさせられたのでした。
牧師は当然、クリスチャンであり、
イエス様のみ言を熟知しているだけでなく、
当然、イエス様の精神を受け継いでいるはずです。
にも関わらず、彼らの取る行動というのは、
「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」
というイエス様のみ言とは反対の行動を取っています。
私を含めて拉致監禁を受けた人たちは
一様に、複雑な思いを持つのです。
「寛容なキリスト教の精神はどうしたのだ」と。
しかし、私たちにおいては、あくまでも
ご父母様が率先していかれたがごとく、
罪を憎んで人を憎まず、
まさに恩讐を愛する心情をもたないと
乗り越えることができないと思います。
この前、一審で勝訴して
高裁に上告している後藤徹さんも
同じ心情だと思っています。
係争中なので、あまり書くことも出来ませんが、
ご家族を訴えることは簡単なことではありません。
また、牧師や反対活動家に対しても
個人的な彼らを憎む思いからしていることではありません。
された仕打ちは忘れられないけれど、個人的な思い以上に
二度と拉致監禁に関わって欲しくない、
そのような思いを持っているだろうし、
これを機会に、拉致監禁ということが
なくなって欲しい、その一念だと思います。
私の足りない祈りですが、
そのような思いにさせられたのは、
イエス様のお陰であり、
そのイエス様を解放してくださった
真のお父様ゆえであると思っています。
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
無断転載はお断りいたします。
曲解や悪用ととれる引用も、
差し控えてくださいますよう
よろしくお願いします。
(もちろん、善なる目的で
使用することに関しては
その限りではありません)
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(もちろん、善なる目的で
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