2025年03月11日

ダンベリーの父に届いた涙の祈り、Dr.神明誕生! UTS時代の神体験 《信仰エッセー》



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毎回感動を呼んだ神明(しんみょう)先生の
エッセイが本になっています。

『ドクター神明の信仰エッセー
生きた神様が働くとき』

神明先生が、統一神学校(UTS)で
教鞭をとることになるまでの
エピソード、「自分を無にしたとき、
お父様が干渉してくださった」
を紹介します。


私は1977年にUTS(ニューヨーク州ベリータウン)を卒業しました。
その後、他の大学でさらに神学の勉強を続け、
1984年の春、無事に神学博士号を取得しました。

その直後の6月末に、イーストガーデンに来るようにと
真のお父様からお呼びがかかったのです。

真のお父様はあと2、3週間後に
ダンベリー連邦刑務所(米国・コネティカット州)に
収監されることになっていて、
どちらかというとイーストガーデンの中は
緊張感が漂っているようでしたが、
お父様がわざわざ個人面接をしてくださったのです。

結論として、「これからUTSで教鞭を執るように」
と言ってくださいました。



 神明先生は、7月初めのUTSの卒業式の日に、
 当時の総長にあいさつしたのですが、
 あからさまな無視をされ、傷つきながらも
 静かにUTSを去ることにします。

 その際、誰もいないサッカーフィールドの中央で
 快晴の青空を見上げながら祈ったといいます。


「神様、UTSは決してこの私のものではありません。
あなたのものです。

ですから、誰か私よりもっと優れた人がいれば、
その人をここに呼んで、教えるようにしてください。

そしてUTSをりっぱな神学校にしてください。
UTSがりっぱになるのなら、
何も私はここで教えなくてもいいのです」

こう祈ると、涙があふれ出てきました。

そのときの切ない祈りが
時空を超えて神様と真のお父様に
伝わったことは後で知りました。


それから5か月たった12月のある日、
突然UTSから手紙が舞い込んできました。

これは後に総長から直接聞いたことですが、
総長がダンベリーのお父様にUTSの報告をしに行くたびに、
お父様は何度も語気を強めて
「神明はUTSで教えているのか」 と言われたとのことです。

それで、さすがの総長もこれ以上は
そのままにしておくことができず、
まだ私を雇っていないのに、
パートでもいいから雇ったという形にしたというのです。

それで、その翌月から、すなわち1985年1月から
正式にパートの講師の立場で、
UTSで教えることになりました。
まだフルタイムの助教授の立場は許されませんでした。


そんなある日、朝拝担当を頼まれました。

「カインの救い」 と題する説教を通して、
忍耐は必ず神様に通じるという内容を話したら、
参加していた数人のカイン的な学生が、
感動のあまり、すすり泣き始めたのです。

その渦は広がって、当時はほとんどの学生が
白人の米国人食口でしたが、
「ドクター・シンミョウの手にかかると
全ての悩みが解決される」という
うわさが流れ、次々に学生が相談しにきました。

私も、最も悩んでいる学生がどこにいるかと気になり、
神がかり的になって探し回り、
そのためには自然に足が動き出していました。

それを聞いた総長は驚いたらしく、
その月の終り頃には、私を
フルタイムの助教授に任命してくだいました。


最終的には、それから9年後の1994年に、
思いがけず私自身が真のお父様から
UTSの総長に任命されることになるのですが、

そのときお父様は、
「UTSは自分のものではないと祈った
その祈りによって自分を無にしたので、
総長に任命されたのだ」とおっしゃったのです。

そのように祈ったのは自分が全面的に
拒否されたからだったのですが、
その祈りは時空を超えて神様に通じ、
ダンベリーの真のお父様にも通じ、
お父様が干渉してくださることになったのだと思います。

今は霊界におられる真のお父様が地上の真のお母様と共に
神様の実体として立っていらっしゃるので、
そのような私たちの祈りと努力は
もっと敏感に感じられるに違いありません。

ならば、私たちのところに必ず来てくださり、
全ての問題を解決してくださるはずだと思います。

UTS時代の神体験:ドクター神明の信仰エッセー
「自分を無にしたとき、お父様が干渉してくださった」
神明忠昭
(世界家庭2019.6月号)より
中ほどの一部など割愛させていただきました。
ご了承ください。
再編集 文責:ten1ko


自分を無にする祈り、それがお父様の思いに通じたのですね。
お父様の霊的直観力に改めて感動するとともに、
私たちの精誠、真なる心情は、
天に通じるのだな、と思います。

そして、一番の試練の時に、
どのように受け止めていくのか、
これがターニングポイントなのだ、と思います。

私たちは天願うとおりにできないことがあります。
逆に天の願いだと思っても、そうならないこともあります。

そうだとしても、感謝して受け止め、
天を優先し、公的なものを優先していく、
それは、必ず天の父母様が見つめておられるのです。

しっかりと肝に銘じていきたいと思います。


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2025年03月04日

転んで骨折、松葉杖生活で知ったこと 夫のワンオペ 《橘・夫婦愛エッセイ》



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橘先生のエッセイ「続・夫婦愛を育む」
今回は、『夫のワンオペ』です。


段差で転んで骨折、と耳にはしていましたが、
自分には当分先の話と思っていました。

遠方からの来客でバタバタ動いていた折、
不覚にもわずか数センチの高低差に足を取られました。

過去にもやっていた足首なので、今回も捻挫の診断が
下ると思っていましたが、少し折れているとのこと。
1カ月のギプス生活を告げられてしまいました。

そのこと自体かなりショックでしたが、
追い打ちをかけたのが、不自由さです。

貸していただいた松葉杖をうまく使いこなせません。
不器用な分、余分な体力を消費しているのでしょう。
数メートルの移動も一仕事で、
使える方の脚が筋肉痛を起こしています。


これまで松葉杖を使っている人を見かけても、
「けがしたんだ」くらいで、その大変さが全く
分かりませんでしたし(若い人には大変ではないかもですが)、
想像すらしてみませんでした。

その立場になってみないと分からない、
というのを改めて実感です。

私の松葉杖で歩く様があまりに危なっかしいので、
主人が会社に1カ月の在宅勤務を申請し、
許可されました(基本出社勤務)。
びっくりです。

妻の足首骨折ごときで、と
一昔前なら言われたことでしょう。
このご時世ならではですね
(社長さん自身が松葉杖生活を経験されたことも
許可の要因となったのかもしれません)。

私は申し訳ないこと限りなしです。
 

主人が働きながら家事を(時に育児も)こなすことは、
これまでも何度かありましたが、在宅では初めての経験です。

主人が会社の人や取引先の人と
電話で話すのが漏れ聞こえてきます。
通常家では見ることのない一面に触れることができ、新鮮です。

と同時に、定時を過ぎてもパソコンを打つ音が
聞こえてきて、忙しさが肌で感じられます。


そんな中、家事の面では、主人の負担を
極力少なくすべく最低限のことだけ
お願いするようにしています。
 
その際は、「都合のいい時に○○をしてくれると
ありがたいんだけど」という言い方を心がけて。
催促はしません。

わが家では、手拭きタオルは台所用、洗面所用、
トイレ用と3種類、基本的に色で区別しています。

毎日替えたいので主人にお願いすると、
長年使っていながら、その区別を
主人は全く認識していませんでした。

関心がないと言えばそれまでですが、
やはり男性故なのでしょうか。

以前にトイレの棚に敷く装飾用の紙を替えた時も、
「何か変わったの、分かる?」と聞いても見当すらつきませんでした。

ちなみに、洗濯後のタオルがしわっとなっていても
何も言いません(干す時にピンと伸ばしていない)。
清潔なのを使えるだけで感謝です。

あれこれと忙しい主人とは対照的に、
私の時間は人生初と言えるほど、
ゆ〜っくりと過ぎていきます。
さて、どう有益に過ごしましょう?

続・夫婦愛を育む 7
ナビゲーター:橘 幸世
(Blessed Lifeより)
再編集 文責:ten1ko2


素晴らしいご主人ですね!
妻のために在宅勤務に変更するなんて!!

ただ些細な日常生活に関心がない、
というところは私も同じですが。。。
いまだにタオルをどこに使うかわかっていないし( ´艸`)
タオルも脱水でねじれたまま干しては
指摘されています。

実は私の妻も、数年前に、1ヵ月
松葉杖生活だったことがあるんです。

しかも、橘先生と同じような原因で、
妻の場合は、骨折ではなかったですが。。。

本人は、日常生活自体、
相当、苦労していたと思います。

ただこの場で告白しますが、
妻のケアーに徹底するよりは、
「家事をするのが大変だ・・・」
という思いの方が強かったように思います。

また、昨年秋、私自身が手などを骨折して、
不自由な生活をしました。

徐々に回復しましたが、
体の一部を痛めただけなのに、
満身創痍の状態になり、
体をどうしていても辛い時期がありました。

人間の体の不思議さを感じると共に、
ちょっぴり人の痛みを共感することができました。

病気や怪我は辛く痛いものですが、
本人の気持ちを汲んで生活をすることが、
どれほど貴いことか、そのことに気づく
貴重な機会かもしれないと考えています。


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2025年01月20日

恥をかくために生きている?! 「自分をよしよし」してみよう 《夫婦愛♡講座》



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Blessed Lifeの人気エッセイスト、
橘幸世さんによるエッセー。
「不機嫌でもいい?」です。

 
先日、新聞に連載の時代小説を読んでいて、
こんなフレーズに出合いました。

「俺たちゃそもそも、恥を搔くために生きてンだってことにさ。
そいつが人に与えられた一番の仕事だってのを思い出したのだ。
完璧なんてものは幻想でしかないからな。

生きて、恥掻いて、また生きてってのを、
死ぬまで繰り返すのが本来の役目なんだと気付いたら、
俺の歩んできた道もあながち間違っちゃいねぇ
と思えてな」(『惣十郎浮世始末』)

  
小さな失敗をしてうなだれる雇人を
慰めるために主人公が発した言葉です。

この表現には驚きました。

「恥を掻(か)く」に関しては
自分にもあまた覚えがあります。

極論と思いつつも、筆者が何か深いことを
言ってくれるのかと続きを期待しましたが、
残念ながら恥うんぬんに関してはこれで終わりでした。

「恥を掻くのが一番の仕事」とは
到底肯定できない一方で、
この表現に少し気が楽になったのも事実です。

  
何十年も前の事でも、
「あの時あんなことをしてしまった」
「あんなことを言ってしまった」
「間違ってしまった」と、誰も
覚えていないであろう、本当にささいな事でも、
苦い経験がふと頭をよぎります。

忘れちゃったら楽なのに、厄介な心のお荷物。

でも、それが「生きている上で普通」
と言い切られると、荷が少し軽くなります。

自分の中にある“自分を責める存在”って、
もてあましがちです。

他人がそれらの失敗をしたら、
「気にしない、気にしない」と、
軽く受け流し励ましていたであろう事。

人がしたら許せるのに、自分がしたら許せない?
また、自分の言動に対する相手の
(本音の)反応を勝手に想像して勝手に傷つく、
というパターンもありますね。

  
先日、こんなことがありました(やらかしました)。

ちょっと疲れていた私。
作業中、ある人が背後から声をかけてきました。

でも、少しだけ反発を覚えた私は、
聞こえないふりをしてスルー。
作業を続けました。

相手の顔を見ていないので、
どう感じたかは分かりません。

後になって、「悪かったなぁ」
とまた心の中で引きずりました。

  
そんな時思い出したのが、婦人向け講座で
お話ししている、「不機嫌でいる権利」。

疲れてストレスを抱えて帰宅した夫が、
家族の気分を害さないように無理して明るく振る舞う。

それってしんどいでしょう。
家族の前でくらい、不機嫌でいさせてあげましょう。
負の感情を処理するのは簡単ではありません、
という内容です。

   
ふと、自分にもたまには不機嫌でいることを
許してあげよう、と思いました
(10年以上この話をしていて、
自分に当てはめたのは初めてでした!)。

以前にも本欄で触れましたが、
“自分をよしよしする”の、大事です。

「続・夫婦愛を育む」12
不機嫌でもいい?
(Blessed Lifeより)
再編集 文責:ten1ko2


「恥を掻くのが一番の仕事」。
そこまで割り切ることも大事なのかな、とも思います。。。

また、「不機嫌でいる権利」。
家庭で不機嫌でいられるのは、
相手が受け入れてくれる、
そういう間柄があることが
とても貴重なのだと思います。

甘えることができることも
ありがたいことなのだ、と思うのです。

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