2024年04月02日

「花は君たちが咲かすんだよ」 永遠のNo1、♪聖歌「復帰の園」 死の収容所で生まれた希望の歌



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家庭連合の聖歌1番、「復帰の園」にまつわるお話。
ふんだんな関連エピソードがありますが、
天野照枝先生の著書より、抜粋して
ご紹介します。

聖歌の動画や歌詞も下に添付します。


「復帰の園」は興南(フンナム)の特別労務者収容所において、
真のお父様(文鮮明〈ムン・ソンミョン〉先生)が作詞されたものです。

1954年に現在の曲が作られ、
歌詞にふさわしいものとなって、
教会創立初期の数年間、数多く歌われた聖歌となりました。


お父様は1946年神の啓示により平壌(ピョンヤン)に行かれ、
伝道を始められました。

しかし既成教会の牧師たちのねたみを買い、
当局からのスパイ容疑も重なって
(2回目に)捕らえられたのは
1948年2月のことでした。
その後5月20日に興南収容所に送られたのです。

興南収容所は、強制労働によって
囚人を処刑しようとする
共産党の意図のもとに造られたものでした。

強制労働は間違いなく死刑の宣告で、
極端に少ない食事による飢えと
労働の激しさが主要な死因でした。

それらをどのように克服されたのでしょうか。

お父様は、「感謝と幸福を感じる環境をつくった」
とおっしゃいました。


「どうせ、このご飯では死んでしまう。
 先生の決心は、このご飯半分で生きる!
 残り半分は皆に分けた。
 半月過ぎてから、あとの半分も
 直接余分にもらうと思って食べた。

 本来半分なのに、この中の誰よりも
 自分は毎日、半分ずつ余分にもらうという感激、
 それは大きなものだよ。

 精神的に幸福だと思うためには、
 神との交流をいかにするか」

「そして、労働に耐える決心をした。
 あと何分で休憩などと思わない。
 …いかにして忘れるかである。

 仕事の中で、40キロのカマスを持ち上げるのが
 一番苦しいから、みんな嫌がる。

 先生はそれをやらなければならない。
 みんな少しでも楽な仕事を探すが、
 結局は話にならない。

 一番難しい仕事を探してやらないと
 生き残る道がない」


このような心情で死を克服していかれる日々は、
まさに殉教の十字架を超える基準を打ち立てられるものでした。

 
1970年10月13日の夜に777組祝福家庭に
興南の証しをされた時の、お父様のみ言があります。

「旦那さんや奥さんが先に寝ている、
 ああー何だ、自分も疲れているのに。

 そうじゃないよ、疲れて寝たその姿に
 涙を流して敬礼する。
 そこに香りあれば花ざかりの香りだ。

 一緒に走るんだよ。
 何が来ても切り離せない夫婦として。

 もしそういう家庭を果たさなければ、
 先生の苦労はむなしい。
 花はあんたたちが咲かすんだよ!」


聖歌1番「復帰の園」は、
お父様が「このように生きよ」と
切なる愛を込めて、硫安で溶ける指で
書き留めてくださった、
私たちへの貴い贈り物ではないでしょうか。

(参照:『聖歌のめぐみ』)

シリーズ聖歌 1
聖歌 第一部 1番「復帰の園」

(Blessed Lifeより)


強制労働下にあっても
天の父の理想と希望をうたわれました

興南の強制労働者収容所で文先生に伝道された
朴正華氏はこの歌について、次のように語っています。

「(肥料を詰める)カマスには、
重量などが書いてある紙の荷札が付いていました。

文先生はその荷礼の数枚に『復帰の園』の歌を書かれ、
その歌を一週間以内に覚えなさいと言われました。

そのメロディーは日本の軍艦マーチから取ったものでした。

統一教会が創立された後に、
私の学友が新しいメロディーを作曲しました。
それが今うたっている曲です」
(「TODAY'S WORLD」1983年12月号、
1984年3月号より抜粋)

韓国語の原題は「復帰の東山(トンサン)」といいます。

冬の寒さの厳しい韓国では、春を待ち望む心が強く、
それは再臨を待ち望むキリスト者の
切ないまでの心を象徴しているといわれます。

東の山は一番早く春の兆しが見えることから、
東山は「園」(エデンと同じ意味)を表す言葉として使われています。

「園の歌」として親しまれている三十九番も、
原題は「東山の歌(トンサネノレ)」といいますが、これも同じ意味からです。


歌をうたうとき、文先生は
「もうここに理想は実現している。
ここに天国は来ており、勝利はすでにわれらのものである」
という確信を持ってうたう人が好きであるといわれています。

歌詞の内容に心を合わせてうたっていくと、
そういう思いが込み上げてくる歌です。

苦難の峙期であればあるほど、先生が喜びの歌を作られ、
うたわれたことを知るとき、力強い励ましを感じます。

聖歌のゆかり 1 復帰の園
再編集 文責:ten1ko2


聖歌1番「復帰の園」【世界平和統一家庭連合】
歌詞は下に掲載しました


日本の聖歌編纂と、聖歌指導の第一人者
天野照枝先生。

『聖歌のゆかり』と『聖歌のめぐみ』
の著者でもあります。

かつて天野先生が、金元弼先生を訪ねられると、
軍艦マーチに合わせて、復帰の園を歌ってくださっていました。
そんな映像をみたことがあります。

生きては帰れないと言われた
死の収容所、まるで生き地獄のような興南監獄。
歌詞からは、そんな地で作られたとは
思えないような、希望の思いが伝わってきます。

どん底にいたとしても、未来に対しては、
希望をもっていこう、
私たちに訴えかけてくださっているようです。

「何が来ても切り離せない夫婦として、
一緒に走るんだよ。
もしそういう家庭を果たさなければ、
先生の苦労はむなしい。
花はあんたたちが咲かすんだよ!」

お父様が興南を乗り越えていかれた思い、
また、困難な状況でも、希望をもって乗り越えてほしい、
そんなお父様の私たちに託される願いを胸に、
今後も賛美しつつ、頑張っていきたいと思うのです。



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   「復帰の園」

1.
  千歳(ちとせ)の願い荒れの園に
  勝利の基(もとい)を求めて
  尽くし来られた血のみ跡
  これが父の賜(たも)う愛
  これが父の賜う愛

2.
  幸の花咲く自由の道
  楽しい望みの花咲きて
  喜びうれしい園の香り
  これが父の望む理想
  これが父の望む理想

3.
  咲きそむ自由 幸の園
  うれしく楽しい父のもと
  とわに生きゆく花の園
  これが父の願う園
  これが父の願う園

4.
  永久(とわ)の願いのこの理想
  父が立てたもう本然(もと)の国
  たのしく香りて誉(ほま)れ帰(き)せ
  これが父の創(つく)る善(よし)
  これが父の創る善






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2024年01月10日

人生が走馬灯のようによみがえる 私を蘇かしてくれる♪「園の歌」 《思い出の聖歌*最優秀作品》



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U-ONE TV 34周年企画(昨年)の一つとして実施された
「“あなたの思い出の聖歌”大募集」
最優秀作品に選ばれた
「園の歌」(39番)の「思い出」を紹介します。

私の思い出の聖歌 1
証し「私を主の前に導いてくださる“園の歌”」

60代、男性(6500双)

 主はおのが園に来たる 
 その香り満ちて
 百合(ゆり)が咲き乱る
 百合がほほえむ
 恵みのにわか雨
 主が降らせ給(たま)えば
 死人また蘇(い)
 死人また蘇く

 信仰歴、40年。
 「園の歌」はいつも共にあった聖歌でした。

 振り返れば、「園の歌」は真の父母様と
 出会って以来、うれしい時も、つらい時も、
 いつも私の人生と共にあった一曲だといえます。

 青年時代、小さな集まりや教会での祈祷会で
 兄弟姉妹たちと一緒によく歌いました。

 家庭での夜の祈祷会、訓読会で賛美する聖歌も
 「園の歌」が定番でした。

 妻と一緒に歌った最多回数の聖歌も「園の歌」。

 そして、事故で命を絶たれ、病院のベッドに横たわる
 妻の遺体に寄り添っている時、
 口をついで出てきたのも「園の歌」でした。

 主は己(おの)が園に来たる
 その香り満ちて
 百合(ゆり)が咲き乱る
 百合がほほえむ


 家族皆で賛美すれば、主(神様と真の父母様)を
 迎えて、なんだかうれしくなりました

 恵みのにわか雨
 主が降らせ給えば
 今の試練苦労も
 後(あと)の栄(さか)えなり

 地上での試練も苦労も、そして愛する者との別れも、
 悲しみを乗り越え、全てをみこころと受け止め、
 感謝の思いで主の栄光を賛美しました。

 「園の歌」を聴けば、
 「園の歌」を歌えば、
 人生の大切な場面が
 走馬灯のように思い出されます。

 「園の歌」はどんな時であっても、
 私の心を平常心に戻してくれる聖歌です。

 迷いや葛藤が生じた時、悲しみや怒りを抱く時、
 喜びやうれしさを感じる時、どんな時でも 、
 
 「ああ神様はいらっしゃる」
 「真の父母様と共に生きていこう」
 「人生、山あれば谷あり」、
 
 どんなことがあっても自分を見失わず、
 責任を果たしていこう、と教えてくれるのが
 「園の歌」なのです。

 主を信ずるものよ
 この御言(みことば)受け
 君に続け
 君に続け

私の思い出の聖歌 1
証し「私を主の前に導いてくださる“園の歌”」
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=22532
(Blessed Lifeより)
再編集 文責:ten1ko2




試練を越える時、それは神様とともに越えていきます。
その神様に代わるのが、み言であり、聖歌だと思います。

今回、証しをしてくださった方も、
「園の歌」を通して、
厳しい試練を越えていかれました。

交通事故で奥様を失った悲しみは
ご本人でないとわからないと思います。

歌詞の内容に比べると、
曲調はどちらかというと明るい歌の印象を受けます。

お父様も苦難の時期であればあるほど、
喜びの歌を作ってうたわれました。

そんなお父様を想いながら、
賛美していきたいと思うのです。




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2022年12月19日

受難の年が暮れようとしています 「梁允永の一大力作だ」 聖歌♪「誓い」




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梁允永(ヤン ユンヨン)先生

日曜礼拝で聖歌17番『誓い』を歌いました。
説教の前なのに、歌いながら、とても心に響き、
感動したので、歌詞の由来を知りたくなりました。

天野照枝先生の「聖歌のゆかり」と、
作詞作曲された梁允永(ヤン ユンヨン)先生の証しを紹介します。


「この歌はある決意の感動を中心として、
一つひとつの言葉とメロディーとを丹念に探し、
1ヵ月ぐらいかかって作ったのです。

この歌を文先生はとても誉めてくださり、
『梁允永の一大力作(傑作)である』とおっしやいました」。

聖歌の中に梁女史の作られたものは数多くあり、
皆素晴らしい歌ばかりですが、
これは生涯の傑作であると言われるほどに、
文先生を感動させた歌だということです。

作り始めたのは1955年の末でした。
その秋、文先生は南での受難を終えられ、
嵐の中を耐えた食口たちは奨忠洞の教会から、
青坡洞の新しい大きな教会に移転して
先生をお迎えしたのです。

梁女史の家は奨忠洞の近くでしたから、
それまで足しげく通い、いつも先生の近くにあって
神の愛を存分に感じることのできる日々でした。

しかし、青坡洞に移って距離が遠くなると、
まるで倒れてしまいそうなつらい思いだったそうです。

そういう心をなだめながら、み旨に対する信仰を強め、
自らを鼓舞する気持ちで、この歌を作ったということです。

今にも消えそうな心霊の炎をかきたたせながら、
主にひたすらすがる痛切な心情で、
一言ずつ作ってはうたい、
ひとしきり泣いてはまた作ってうたいながら、
作り上げていった歌で、
完成したのは1956年1月15日です。

その年の文先生のご聖誕日に、
初めてうたわれました。
梁女史は美しいソプラノで、
どんなにか思いを込めてうたったことでしょう。

1961年、聖歌に編入されて今日に至っています。

天野照枝 著
聖歌のゆかり


上と重複する内容もありますが
作曲された梁允永先生ご自身の証しを紹介します。

梁先生は、梨花女子大の音楽教授で、
梨花女子大事件で免職となりました。(1955年3月)

文先生がソウル警察署から無実で解放となっても、
統一教会への非難中傷はますます
大きくなるばかり・・・

冬になり、そんな年が暮れていく頃
明くる年にかけて「誓い」は作られました。
(上には1ヵ月ぐらいとありますが、証しには
2ヵ月と書かれています。)


 天国は驚くべき音楽の世界 梁允永(ヤンユンヨン)

『誓い』か作曲されるまで

奨忠洞にあった教会が青坡洞に移っていくと(1955年10月)、
私は心細くなった。
以前のように気が向くと教会に走って行く
ということもできなかった。

心が塞いで淋しくなるときが多くなると、
夜眠れなかった。

毎日夕方、家庭礼拝をしたりもしたが、
憂鬱な心情はどうすることもできなかった。
徹夜をしながら天を思慕する心情が極に達すると、
そのような心情を曲にしてみたいと思った。

それで作曲したのが「誓い」であった。
その歌は2ヵ月に渡って1956年1月15日に完成した曲であった。

先生の誕生日を記念して発表しようと
夜中の2時〜3時に主に作曲し、
作詞にも心血を注いだ作品であり、
あの多かった食口たちと先生が青坡洞に離れてしまい、
恋しさとそして天に取りすがる心情で
一節一節歌いながら作った曲であった。

その歌は先生の誕生日に私が独唱し、
その後毎年、誕生日の祝いの歌として歌われ、
1961年になって「聖歌」に載せられるようになった。

あるとき、地方の食口たちがこの歌に
多くの感銘を受けたということを聞かれ、
先生が「梁允永の一代力作だ」と
称賛してくださったときがあった。

『誓い』作曲以後、いつも五線紙をそばに置き、
眠りについて夢に音楽が聞こえてくるとテーマを書きとめ、
何種類の歌を作詞・作曲して聖歌に載せた。

「朝日に輝く」(この曲だけは文鮮明先生作詞)
「とり戻した栄光」「苦難のイエス」「栄光の日」
「夢路で天の」「宴のとき」などは私が作った歌として
等しく歴史的な内容が盛られている歌である。

「証言」より
(一部省略しています
文責:ten1ko)



【歌入り】聖歌17番「誓い」




  1.
  土より劣(おと)る身 汚れ果てしわれを
  捨てたまわず許し
  死より蘇(い)かしたもう
  いたわり育て 血の汗流して
  説(と)きたもうみ言(ことば)
  今ぞ心に 奉(たてまつ)る

  2.
  知恵なく弱き身 御(み)跡(あと)慕いて行き
  つまづき倒(たお)るれば
  顧(かえり)み呼びたもう
  峻(けわ)しきいばらの 血に染(そ)みし主の道
  われ今誓い行く
  父の居ますみ国に

  3.
  眠りより覚めて 真のみ旨(むね)知り
  心ただ一つに
  み旨のために生き
  み旨のために死なん 勝利の日来るまで
  み旨受け戦う
  共に戦い行かん



文先生が「一大傑作である」
と語られた理由がわかるような気がします。

本当にこの聖歌は、名作だと思います。
亡くなった妻のお母さんも大好きだったので、
生前の願いに応えて、聖和式で歌いました。

苦難に置かれている時、
「誓い」を歌うと、とても力が湧いてきます。

今こういう時ほど、この歌を賛美しながら、
神様・父母様とともに乗り越えていきたいと思います。




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(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)


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